日比谷克義は占いに振り回されたくない2
かつて、克義は警察とは別で被害を受けた企業のことを調べていた。アースセキュリティの社員の子どもがクラッキングをしたとあってはマスコミもおとなしくしていられないだろう。ヘタな憶測を立てられる前に、彼は動いていた。ただ効率的に、効果的に行動できていたかどうかは、本人に尋ねるべきではないだろう。
記載している住所に誤りがあったり、運営しているかもどうかもあやふやであったり、マフィアと接点があったり……。数年で急成長を遂げているらしいという共通点に絡みつくように、調べれば調べるほど金の動きが不透明で。あずまが攻撃した企業は実態の怪しいところばかりであった。
男が麻薬の売人であることが後日判明したことで、クズの内輪もめのようなものだったと、臍を噛む思いで調査を終わらせ、我が子は正義のために独自の制裁をしたのだと、世間に対する印象操作をおこなう準備を始め、同時に損害賠償を請求されないための企業側の弱みを握った。
克義はあずまの存在をあえてひた隠しにはしなかった。彼はあえて開き直り、我が子の行動をやや肯定した。父親の仕事に憧れて、やり方を間違えてしまっただけなのだと。結局、どの企業からも訴えられることはなく、そっちは穏便に済ませることはできた。
印象操作もわざわざする必要もなかった。勝手に世間は、子どもを利用した挙句に射殺しようとした残忍性に想像を掻き立てた。しかし子どもたちは残酷だった。あずまは自分の立ち振る舞いに問題があったとひとり反省しているが、大人たちが同情の目を向ける分、子どもたちは疑惑の矛先を向け、厳しくジャッジをしたのだ……。
日比谷克義は第一印象が悪く、非を認めようとも改善しようとも思わない、自他ともに認める鉄面皮の人間である。ヤクザと勘違いされやすい辰郎と比較すれば、彼は物言いからも生真面目で堅物で期待できる人物に感じさせるかもしれない。
しかし実際は辰郎の方が誠実な信頼を寄せられやすかった。感情の豊かさや情の熱さが、千堂家に婿入りしてしまった男でありながら威光が完全には失われなかった要因であった。それは琥将家の血が流れているからではなく、千堂辰郎というひとりの男としての威光であった。千堂家に友を殺された龍としての感情すら凌駕するほどの、ひとりの女性への愛情が辰郎の心の器に満たされているからであった。千堂魅来を清らかに愛し続ける限り、この男は他者に対しても水を分け与えることができる。その水は時に女性的にやわらかく包み込み癒し、時に男性的に岩をも打ち砕くのだ。
克義自身、けして自分はそれほどできた人間ではないと節々に感じている。感情表現にカロリーを消費せず、他所の不幸をいちいち不幸だと思わないし、映画で泣いたこともない。募金などもってのほかである。しかし対照的な辰郎に対してこれといって嫉妬は覚えず、むしろ千堂家とかいう面倒なところに嫁いでご苦労なことだ、としか思っていない。さらにプライドが高く、自分の失敗を知る者がいればどうやって口を封じるか、実行のできる計画を立てる。そういう良識にやや欠けた人間である。
良識のなさに例を挙げるならAIBOの存在だろう。千堂家で無機質に尻尾を振って愛着を一堂に持たせている最中のそいつには監視カメラを仕込んである。既に赤角の訪問も彼は知っていて、それを千堂家の面々は知らない――もしかしたら辰郎は勘付いているかもしれないが、“かっちゃんは心配性だなぁ”としか思っていないかもしれない――。
原水留金成のせいで世界のお金事情が脅かされている。そしてそこにはあずまが関わっていて、その裏に“慈悲”が絡んでいる。
幼きあずまの態度の節々から泰天家の血筋にあるまじき残忍性を感じ取った克義は、父親として第一に思ったのは、間違いなく安堵であった。真っ当な親なら真っ当な人間に育つように心がけるだろう。彼は息子が与える他所の不幸はどうでもよかった。
彼は“慈悲”などという得体のしれない“他力”が寄生虫のように妻を食らい続けているのが腹立たしくてならなかった。だから息子まで同じ道筋をたどらなくて済むのだと、寄生虫根絶への希望が蜘蛛の糸のように薄らと感じられた。人間として性質が欠落している自分の遺伝子の方が“他力”より上回ったのだと、“他力”を拒絶するために自分はわざわざ人間として生まれてきたのだと、ようやく自分自身を肯定的にとらえることができた気がしていた。
あずまのせいで誰かが不幸になるのはつくづくどうでもいいが。ただ罪を犯したと公になると損をするのはあずまであるからして。重度のアレルギーを抱えている幼女にアレルゲン物質を人前で与えようとしていれば、当然阻止しなければならないのである。せっかく無慈悲な人間として生まれてきたのだから、いちいち他所のせいで人生を台無しにしてしまうのは非常にもったいない。あずまには、ひたすら自身の幸福を第一に考えて生きていってほしかった。他人にばかり情けをかけて、命を削ってほしくはなかった。
故に、人格を矯正することになるのは想定外のことであった。仕方がなかったとはいえ……加賀重豊のツテで紹介されたカウンセラーによって疑似的で後天性の慈悲があずまに植えつけられてしまった。余計なことをしやがってと、克義は事の発端となったタヌキの監督不行き届きを懇々と恨んだ。おかげであずまは学校でいじめられて傷ついた。矯正前であれば黙殺するか、淡々と復讐計画を立てていただろうに、彼はやり返そうとせずに悲しみを受け入れるがまま。鋼の心臓はガラス製になって、すっかり繊細な精神になってしまった。
重豊が言うには、これはゆっくり心の傷を癒すための猶予に過ぎない。無理やり再構築された人格は何の拍子に崩壊するかわからない。完全に立ち直る前に破綻して、分裂する可能性もあるという。
ずっと監視されていたのなら、あずまにも泰天家の“慈悲”がある、ないし発現したと勘違いする輩がいてもおかしくはない。情報は混乱しているだろう。どこまでもタヌキは“慈悲”に飢え続けている。そしてみさ子やあずまを顧みないのだ。由来が人間ではないから、人間個人の尊厳を片時も考えようとはしないのだ。唾をつけようとしているクセに、甲斐甲斐しくフタリそのものを愛そうと一変しようともしないのだ。少なくとも、同じく由来が人間ではない辰郎の爪の垢を煎じて飲ませたいくらいには。
克義は自宅に戻った。リビングのL字型ソファの端にドカリと座って、茶封筒を改めて開けた。
……嘆息。彼は何となくそんな気がしていた。重い腰を上げて、キッチンのゴミ箱を開ける。茶封筒を逆さにする。
ザラザラと。枯れ葉が出てくる。茶封筒をぐしゃぐしゃに押し丸めて捨てる。
辰郎の元カノの脅迫には違和感があった。あずまがピーナッツアレルギーの幼女にわざとピーナッツ入りのチョコレートをあげようとしたことは、単純に無知を貫き通せばいいし、不正アクセスの件も企業側に闇の部分がある限り脅迫としての力が弱い印象だった。
枯れ葉になった脅迫書は元カノ本人が用意したのか。それともタヌキが元カノに化けただけなのか。倭文ではなく自称通い妻の方に化けた理由は……たとえば女の方が化けやすかったからがあげられる。正体はキャバレー『エイトチェンジーズ』のタヌキ女……その場合はオーナー原水留釜遊弟の差し金……。すべて適当な推理である。
倭文が元カノに茶封筒を任せたのだとしても。結局は行きつくところはタヌキであった。克義は『エイトチェンジーズ』で遊んでいた倭文の姿が今でも容易に思い出せた。
父親……上野大國に金の無心ができなくなって、あずまを質屋に預けようとでもいうのか。それとも……。
ピン……ポーン――と、インターホンが鳴った。克義は対応する気が起きなかった。あずまが帰ってくるまでに夕食の準備をしなければと考え始めた。
ピン……ポーン――再び鳴った。
ガコン――解錠、された。克義は手っ取り早くキッチンの引き戸から果物ナイフをつかんだ。
「失礼します。日比谷克義さまでいらっしゃいますでしょうか」
玄関から老齢の男の掠れた声がした。
「わたくし。殊久遠寺家に仕えております。庭師の信田というものです。和子お嬢さまがあずまさまとタイヘン仲がよろしく、おかげでイジメにもめげず、いつも楽しく笑顔で学校に通うことができているそうです。ぜひ、あずまさまのパトロンになりたいと、和子お嬢さまはおっしゃられております」
和子ちゃんは吉祥くんのパトロンになりたいんだって――以前、あずまが語っていた学校での出来事。
“殊久遠寺家の人間から援助を受ける者は成功を約束されている”。“成功者の裏には殊久遠寺の金あり”。克義も聞いたことはあった。人生成功したければ殊久遠寺家の足を水虫ごと舐めまわせとふざけ半分で言われていたくらいには、殊久遠寺家栄華の時代がバブル期まで確かに感じられていた。渡米してからは殊久遠寺家のお家事情など見聞きできなかったし、興味もなかったのだが。
「旦那さまもタイヘン乗り気でございまして、近々お会いしたいそうです。食事会を催しますので、ご家族ともども、いかがでございましょうか」
いかがも何も。克義は姿のわからない老人の戯言をまともに受け取ろうとは思わなかった。彼はベランダの避難はしごの存在を脳裏によぎらせ、すぐ払いのけた。声に似合わず、動きは俊敏かもしれないからだ。
それでも音を立てないように、着実にベランダの方へ向かう。
「上野倭文から脅迫を受けているのではありませんか?」
ご近所さんのおじいさんのように。親身に寄り添って心配しているような声だ。
「子宝に恵まれないからといって、実の妹の子どもを奪おうだなんて血も涙もない。アレと養子縁組を組もうものなら、たちまちタヌキの手に渡ってしまいます。それだけはあってはなりません。どうぞ、殊久遠寺家においでください。旦那さまは中立の立場でいらっしゃいますから、あずまさまの身の安全は保障されます。あずまさまの身に何かあれば、和子お嬢さまが悲しまれてしまいます」
婿養子に来いと言っているのだ。泰天家と同じ末路を日比谷家にたどらせようというのか。
キィ……キィ……。
何かが軋んでいる。部屋がどんよりと仄暗くなった気がする。テレビの裏や本棚の隙間、吊り下げられている照明器具の上部。死角になっているはずの部分がより濃い影を作って揺らめいている気がする。じとりと湿度が高くなったのが肌で感じ取る。背後の閉ざされているカーテンを開けなければならない。
「克義さま。あなたは後をつけられたのです。命を狙われているのです。みさ子さまの命は時間の問題ですが、あなたはいつ消されてもおかしくはないのです。ご両親を突然失って路頭に迷うあずまさま。それだけは避けなければなりません」
影がザラザラと音を立てている。砂嵐のように細かい闇の粒がぶつかり合う音だ。ぶつかり合いながら影は死角から盛り上がっている。
克義は後ろ手でカーテンを引っつかんだ。湿度が上がった原因だろう白昼の日差しを浴びた闇の粒は宙で散り散りになり、ホコリがキラキラと舞っているようにしか見えなくなった。みさ子がいれば妖精の粉だと言って和ませてくれただろう。
キィ……キィ……。
しかし、まだ軋む音が耳障りだ。ロッキングチェアを気分次第で揺らすかのように準規則的だ。
「安心してはなりません。まだ敵は潜んでいます」
顔を見せない老人は忠告してくる。その声は遠くから聞こえたり身近にあったり不安定だ。克義は後ろ手で今度は窓のクレセント錠を解錠した。ゆっくりと横歩きしながら、窓を開ける。凪いではなかったが、カーテンが大きく揺らめくほどの強い風ではない。
克義は次にベランダ側から離れた。一歩ずつ。彼が考えていたのは、妻があのスイートルームから再び解放されて帰ってきてくれた時に部屋が台無しになっていてはいけないということであった。
「この信田が敵を追い払いますので、どうか先ほどのことを前向きに検討していただけないでしょうか」
克義は果物ナイフを持つ手の親指を伸ばし、刃に押し当てた。反対の手でカッターシャツの胸ポケットから、三つ折りされた鬼札を出した。薄ら切れ目の入った親指の腹から出た血の球を鬼札に押しつける。
あっという間に赤黒く染まった鬼札が振動する。命を注ぎ込まれたかのように痙攣する。克義が手放しても宙に留まり続け、紙であることをド忘れしてしまったかのようにボコンと拳程度の大きさに膨らんで、やわらかな繊維が肉付いた。心臓のようにも見えた。
克義はそれをそっと指先でつかみ、ベランダの方に向けて下手投げで放った。湿った温風が玄関の方から吹いた。
外に放り出された鬼札がブシャリと八方に出血した。噴出した大量の血が、心臓を大きく一掴みしている毛むくじゃらの五本指を浮かび上がらせた。明らかに人間のものではない太い指が心臓を突き刺していた。バケモノの手が、疑似的な心臓を咀嚼しようとしていた。
日差しを浴びた血液は黒々と粘っこくなる。逆に捕らえられたと焦ったのだろう、空中が……バケモノの見えざる手首から一枚ずつ……葉っぱが裏返り……めくれていく。勢力を落としていく。
風が吹く。表は宙。裏は葉っぱ。クルクルと見え隠れしながら拡散し、やがて裏側も宙に撹拌されていった。
克義は玄関に向かった。信田と名乗る老人の姿はなく。鍵もかかっていた。