日比谷克義は占いに振り回されたくない1
日比谷克義は懐かしい顔と棟内で出くわした。青天高等学校の先輩にして剣道部の部長だった藤八である。それほど関わりはなかったが、剣道部副部長の管と合わせてそれなりに世話になった人物であった。
彼は克義を認めると、キツネのキャラクターのようにどこか馴染み深く目尻を下げて軽く手を挙げた。
「みさ子さんの面会に来たんだな。まさかまたこの病院に住むことになるなんてな……」
そばまで歩み寄ると半ば冗談どころか至極マジメな面持ちで藤八はひっそりと言った。
白霊山の恩恵に預かっている忌々しき泰京総合病院。克義も恩恵さえなければ加賀重豊に頭を下げて屋敷の一室を借りていただろう。
腹立たしいことに、用意された病室はかつての病室であった。入室した瞬間にあの日々が脳裏に呼び覚まされた。いずれは部屋の主が帰ってくると期待されていたかのようではないか。
偶然“スイートルーム”が空いていたとは思えなかった克義は、義父の存在を感じずにはいられなかった。
「先輩はどこか悪くしているんですか」
「いや、親父を見に来てた。銭湯でツルッといっちまって。今じゃ俺が店を切り盛りしてんだよ」
中華料理店『きつね軒』には一度行ったきりである克義は、当時店主だった藤八の父親の顔を思い出せない。たしか、味は脂っこかった気がする。
苦笑いを浮かべている藤八の前髪には白髪の束が交じり、キツネのような目尻にも小じわが何本もできていた。肌もガサガサで白い薄皮がチラホラめくれかけていた。二学年しか変わらないのに一回りくらい老けて見える。
「親父……ここ数年ボケてきててさ。俺のこと忘れたり、かと思いきやガキ扱いしてオイオイ泣きやがるんだよ」
藤八は表情を曇らせる。克義は特に同情の言葉をかけてあげたいとは思わなかった。
「それはそうと」
藤八は湿っぽさも声量も抑え、ぎょろりと目を周囲にさまよわせた。点滴スタンドを持った患者がゆっくりと通り過ぎる。
「まだいるかわからんが、倭文を見かけた。女を連れていたんだが、みさ子さんに会いに来たのかもしれん」
「バカな」
みさ子の兄、上野倭文……。克義は苦い顔をした。
「愛人を孕ませたと言ってくれた方がまだ納得できる」
「奴の種無しのウワサは筋金入りだ。それに托卵をすんなり受け入れられるほど、奴は仏じゃない」
愛人を連れて見舞いに訪れるという嫌がらせをする。そっちの方がよっぽど倭文らしいというのか。だが今まで一度も見舞いになんて来なかった薄情な男が今更……わざわざ顔を見せるなんて。
「しかも何が不可思議かって……連れていた女っていうのが例の辰郎くんの元カノでな」
呆気にとられた克義はつい「まだ続いていたのか?」と拍子抜けした声を出す。
「内縁の妻ってウワサも出ているが、女の方が押しかけ女房面をしている、の方が正しいかもな。寅子さんの嫌がらせすらものともしない。恋する女っていうのはどこまでも恐ろしいな」
「……」
「俺には占いの才能はないからハッキリとしたことは告げられんが。なんだか嫌な予感がする。親父の見舞いに来るついでに病院の輩の動向は観察しておくつもりだ。おそらく今日のことは寅子さんの耳にも入るだろう。きみも上野家の動向に気をつけるんだ」
「ご忠告ありがとうございます」
「正直なところ――」
藤八は気まずそうに後頭部をかき、首をさすった。
「まだ信じられなくてな。あずまくんだっけ? まさか、きみとみさ子さんの間に子どもができるなんて。いや、語弊があるかもしれないな。ただただ感心しているんだよ。あの日、占いが当たらないようにって……覚えてるだろ? 辰郎くんは婿入りしてしまったが、でもきみに対する占いは外れたってことだ」
「まだ半人前だったってことでしょう」
「そう言われてしまうと元も子もない」
藤八は微苦笑を浮かべる。
「でもな、占いっていうのはこれからより豊かな人生をどうやって歩んでいけるかっていう、ひとつの指針であるものだろう? 辰郎くんにとっては魅来さんと結ばれることが人生を豊かにすることだった。克義くんの場合は占いにあらがうことだった。ただそれだけのことだ」
「それじゃあ僕は先を急ぎますので」
「呼び止めて悪かった。倭文がまだいたら気をつけろ。またいつか店に来てくれ。サービスするから」
こうしている間にも倭文が余計なことをみさ子に話し続けて気分を害しているかもしれない。義兄の存在を伝えた本人である藤八も、愛妻の見舞いに来た男の足止めはこれ以上良くないと感じてか、あっさり話を打ち切った。
(別にあらがった訳じゃない)
自分も辰郎も、けして占いに振り回されて生きてなどいない。まるで影響を受けてくれているかのような藤八の饒舌さには少々気に障った。
倭文の姿はなかった。現役の“キャロル”から歌が流れている。宇多田ヒカルらしいが曲名はわからない。
みさ子は角度をつけた全自動のベッドに背もたれて衣装を縫っていた。克義がかつて描いた汚いラクガキをもとにデザインされた二頭身の忍者のぬいぐるみの服だ。彼女は顔を上げて微笑みかける。
「今日も朝帰り?」
「夜になると締め出されてしまうんでね」
「アラ、かわいそう。アハハ」
みさ子はお茶目に笑い、克義は唇を硬く一文字に結んで眼鏡のブリッジを押さえる。肌に優しいサテンのネグリジェ……ホワイトピンクの花柄のレース……。何年経っても少女らしさが失われることがない彼女の花びら一枚分の官能的な雰囲気を感じさせる姿。春の妖精たちに担ぎ上げられ王女になるしかなかった少女。彼女だけ時の概念がない世界で生きているようだ。
ナースコールにさえ目が留まらなければ。夫婦水入らずの旅行にてホテルでくつろいでいるようにしか見えない。壁紙すらフレンチの、いったいどこのドールハウスだと思いたくなるものであった。
しかも何が悔しいか、病院らしからぬ“インテリア”が細部に至るまでみさ子の好みに合致しているのである。彼女すら『やっぱり気味が悪いわね』と困り顔の笑みで言い放つほどに。極めつけは香りだ。入室した瞬間にジャスミンが魅惑的に香る。
妖精に選ばれた王女のために用意された寝室。入院の事実を誤魔化す配慮にしては行き過ぎたサービスが誰の指示の下で行われているのか、克義は考えたくもなかった。
こんな王女の寝室に似つかわしくないのが至るところに貼られた鬼札の存在である。ベッドの裏や、みさ子が描いた絵画の額縁の裏にも。死角になってしまうところは念入りに。
みさ子は作業を中断して衣装をサイドデスクに置いた。『長くつ下のピッピ』の原書とポケットサイズの英和辞典も置いてある。
“慈悲”さえなければ。妻も自由を謳歌するワガママな少女時代を駆け抜けていただろうに。
克義は持っていた紙袋から小さな包みを出した。中身は彼女が読んでいた雑誌に掲載されていたチョコレート菓子だ。
備え付けの棚には紅茶の茶葉もコーヒー豆もそろっている。一緒に飾られているマイセンのアンティークドールの天使が無垢な眼差しを向けてくる。ドールそのものには何の罪もないが、初めて目にした時は薄ら寒さを覚えたものである。
みさ子は顎を上げて「マスター。アールグレイをホットで」と楽しそうに言った。克義は無言で眉間にしわを寄せ、口角をゆがませた。
紅茶もコーヒーも、いれ方にはすっかり慣れたものであった。紅茶を蒸らしている間、マイセンの食器を一通り用意して、菓子をみさ子に献上する。アールグレイの温かくて爽やかな香りがジャスミンの上品過ぎる香りを忘れさせてくれる。
まだ食べていないのに、彼女はほっぺがとろけると言わんばかり幼げに幸せそうにしている。他の女であればだらしなくて下品だと思うところ、克義の気難しい顔は解けそうになる。
穏やかな時間に包まれようとしている。それをあえて崩そうとする。
「……さっき、高校の先輩に会った」
「もしかして伍文さんでしょ? お父さん、ウッカリ転んで骨を折っちゃったんですって」
「ここに来たのか?」
「カラスの妖精が教えてくれたのよ」
「カラス?」
みさ子が窓の外に振り向いた。
「重豊おじ様の妖精よ。近頃は毎日のように来てくれるの。彼らは言葉が通じるから退屈しないの」
薄雲がゆっくりと流れていた。さわさわと風が中庭の木々の青々とした枝を揺らす。窓は少し空いていて、カラスの代わりにウグイスの鳴き声がした。
おそらく今もそこにいるのだろう。それでも彼女は無自覚に、彼女にとっては身近な友であったとしても、遠い目をしている。
窓辺に花が生けられている。専属の看護婦が毎日新しいものに取り換えているのだ。
加賀重豊とは渡米後も連絡を取り合っていた。彼が占い通りに養子縁組をしたことも知っている。息子というべきか孫というべきか、茂はあずまと同い年らしいので、機会があれば紹介し合おうという話はここ数日で上がっている。
「僕以外に、誰かここに来ていないか?」
「倭文の妻だっていう人が来たわ」
「……単独で?」
「ええ。女優さんみたいにサングラスをかけてた」
予想外の答えに克義は眉をひそめる。彼女は子どもっぽく菓子に釘付けになっている。せっかく王女さまはご機嫌なのに損ねかねないような問いかけではあったが、確認をせずにはいられなかった。
「封筒をもらったわ。克義さんにだって」
枕元からA4サイズの紐付きの茶封筒を引っ張り出し、「どうぞ」と両手で差し出す。
「……見ないの?」
「一旦、持ち帰るよ」
「えーどうして? ゼッタイわたしにも関係あることだと思うけど? 夫婦なんだから共有しないと」
みさ子は澄まし顔で首を傾げた。自分だけが時の流れに逆らえず、彼女を置いてきぼりにしてしまう。そんな恐怖心で胸が締めつけられそうになるのを、克義は静かにこらえる。
「先に紅茶を入れさせてくれ」
「読み聞かせしてくれる?」
「するわけないだろう」
注いだ一杯に、みさ子は小ぶりの唇をすぼめてフウフウ息を吹きかける。彼女は見かけによらずストレートを好む。そうすぐに冷めるはずもなく、上唇を湿らせると再びフウフウさせる。その間に克義は紐を解いて素早く書類に目を通した。
「なんて書いてあるの?」
妻は唇を可愛らしくすぼめたまま、流し目で問いかけてくる。
「……あずまがカウンセリングを受けるきっかけになった事件のことだ」
「あずちゃんの“おともだち”が死んでしまった事件ね」
あずまは比較的に仲良かった契約社員の男に言われたまま、複数の企業に不正アクセスして株の情報を入手していた。またその男がかつて働き、そして解雇を受けた企業にウィルスを流し莫大な損害を与えている。男は新たにあずまに盗ませたファイルを自分のパソコンで開いたが、途端にパソコンがパンクした。某企業のコンピューターには不正アクセスの報復としてウィルスが眠っていたのである。
鬼札は悪意のある盗み聞きを暴いてくれる……。
「あの男は、どうやらタヌキが運営していた企業に勤めていたらしい。クビにされてその報復であずまに近づいたんだ」
「アメリカにも会社があったの?」
「あずまが不正アクセスした企業はすべて、原水留金成が立ち上げたものらしい。どうりで……」
「“奥さん”がひとりで調べたのかしら?」
みさ子は考える素振りをして。
「もしかして克義さん、脅迫されてるのかしら!」
まるで『火曜サスペンス劇場』みたい――とでも言いたげに頬を桃色に染めて肩を大きく揺らす。
「いくら要求されてるの? 一千万円?」
「ああ」
「うそつき。じゃあ五千万?」
「あずまの養子縁組だ」
みさ子はきょとんとした。