幅屋圭太郎は寄り添うこともできない①
あとは寝るだけの状態になった幅屋は、さすがにもう帰宅しているだろうと高矢の家に子機の方で電話をかけることにした。あまり会話を知られたくないなと何となく思ったからだ。だからといって、黙って不審な行動をとれば後ろめたいことでもあるのかと詰め寄られるかもしれない。そこで居間でくつろいでいた両親に、友だちとヒミツのハナシをしたいから子機を自分の部屋で使うと先手必勝のつもりで声をかけた。
「ヒミツのハナシってナニ?」
妙に斜に構えた態度で告げてきた馬鹿息子に母は眉をひそめる。
「なんか心配なんや。なんかあったんかと思って」
実際、日比谷みさ子の中で何が起こっていたのかわからないのでそう答えるしかない。
「ベツに盗み聞きはせんから、好きにしたらいい」
そう言ったのは父の方だった。なんてことはない、という具合で巨人と阪神の試合から目をそらさない父に、母は批判的な目を向けるも反論はしなかった。
「あんまし長話はせんといてよ」
それ以上はもう言うまいという意思表示か、母は頬杖をつきながら瓶ビールのつまみのジャーキーを噛みしめてテレビ画面の方に首をひねった。
敷き布団の上であぐらをかき、連絡網とにらめっこをしながら番号を入力して……いつまで経っても電話はつながらなかった。
もう寝てる。それだったらいい。けれどもし、まだ家に帰っていなかったら。どうして葉っぱニンゲンにビビって立ち止まってしまったのか。それに、やっぱり増岡は放っておいて高矢を優先して街を捜索すれば……。子機を掛け布団の上に放って、頭を抱えながら前屈みになって前後に揺れる。
コツン、と。窓が鳴った。振り向いたが、何もない。
またコツンと鳴った。網戸ごと窓を開けると額に痛みを覚えた。
「いってぇ……」
足元に小石が転がっていた。とっさに拾い上げて握りしめ、投げ返してやろうかと拳を振り上げた状態で地上を見下ろす。
視線を暗がりの中で浮かび上がらせた。街灯の上にカラスが一羽だ。夕方の一羽と同一かどうかまでは判別ができない。別に沸点まで怒りがギュンと到達させていた訳でもなく、正体が判明するやゆるゆると怒りはほどけて、小石を路上に向かってポイッと捨てた。
「高矢はちゃんと家におるんか?」
気持ちを汲み取って飛んできてくれたのだと思ったが、カラスは何も答えてくれない。
「俺はどーしたらエエんやろ……。日比谷のことも、日比谷の母ちゃんのことも、それに殊久遠寺の予約もあって。あんまり待たせたらヤバいってちゃんと……。でも……やっぱり、今は高矢のことが一番気になっとるげや。だってアイツがさ、ずっと俺のそばにおってくれたんやもん。なんやかんやで」
カラスは相槌を打たない。
「でも……うん……このまま殊久遠寺の予約を放置しまくってたらそれって女子やからなんかなって思うげん。増岡の家にがんばって通って、加賀のこともがんばって助けてやって、やのに殊久遠寺は後回しになっとるげん。なんでなんかな?」
腕を組み、自分の心に問いかける。
「でも、高矢に殊久遠寺の予約のこと言ったらアイツ、なんかイヤそうにしてたし。きっとこのままやったら……どっちにしてもダメなんかなぁって」
サッシをぼうっと見つめたり、さっき捨てた小石はどこらへんに落ちたのだろうかと目を泳がせたり。
「やっぱりさ、ふたりでどうにかしたいなぁって。大魔神。だって俺たちまだ子どもやもん。まだレベル足りてないんかも。がんばって経験値もらってさ、それで日比谷の母ちゃんのこともリベンジできるんじゃねーかなって。……あ、知ってっけ? タヌキ大魔神ムゲンヘンゲ。お前らに聞こうって思っててさ」
幅屋は独り言を止める。ごぉ……と、夜空が静かにうなっている。ゆっくり流れている雲の裏側で飛行機が飛んでいるのかもしれない。
“会話”が途切れ、つい呼吸も止めていた彼は間に耐え切れずドッと息を吐いた。
「高矢……今どーしてんやろ……」
いっそこっそり抜け出して探しに行ってやろうか。でも、あてはない。
「どこにいるんかわかりゃなあ……ワッ」
またしても小石が飛んできた。別の一羽が潜んでいるようだ。
「わかるだろって言いたいんか? 日本語で言えやクソ」
右のこめかみを抑え、犯人がいる方向ににらみつけてやる。放物線が宙に描かれた。
「ワッ、ちきしょ、やるって! クソって言ってゴメンって!」
カア――街灯の上のカラスが一鳴きして翼を広げた。バンザイするカラス……その小さな躰は細長く柔軟に伸びあがり、円を作った。カレは肉体を失っていて、夜の闇を溶かさなければ存在を形成できないタマシイであった。
円が放射線を描いた。一体何をするべきなのか、本能に呼びかけてくる。本能と右目の視神経へと、怪力が結びつけられる。
町が放射線の向こうへと遠ざかっていく。いや……自分の意識が一枚分、空間から押されたのだ。
泥棒が宝石店やら銀行やら盗みに入るシーンでよく見るアレのような。一気に浮かび上がってきた眠らない視線の数に、幅屋は気が滅入りそうになった。これが視界なのか。
肉体は自分の部屋に残されて、精神だけが次元を超えるかどうかの瀬戸際にある。ひとつ間違えればハチの巣か、それともスライスか……。【視界】は常に実世界と隣り合わせで蝕む隙を狙っている……。バランスを保つために何ともない左目があるのかもしれない。幅屋は抜け殻になった高矢を思って心を震わせた。
カア!
パシャリ!
【一隻眼】の視神経が七色に閃光するのを感じた。自身の金色に輝く視線が本線だ。幅屋の意識は本線に乗った。幅屋の意識は町中へと引っ張られていく。
視線だけではない。意識だ。人は何に意識を向けているのか。人は何かを見ているようで見ていない時がある。何かを通して、別の何かを見ている時がある。加賀茂のあの目がそれを教えてくれた。視線は、飛ぶことができるのだ。
【視界】の中の視線は直線ではなかった。神経細胞のように複雑に入り組んでいる。人間の有象無象だけではない。型にはまらない人知を超えた魑魅魍魎が意識を光らせているのだ。奴らにたかがクソガキ如きの存在を悟られれば、何かしらの面倒ごとが待っているのは明白だということを生存本能が訴えかける。興味を持たれて、ではなく、ちらつくコバエを払うかのように容易に抹消されてしまうのだ!
カア!
こっちだ!
パシャリ!
カラスのタマシイが螺旋を描きながら導いてくれている。闇雲にではない。夜に溶け込むカラスのタマシイたちの意識……。
タマシイの尾から夜のとばり色が抜け落ちて散っていく。幅屋は無意識にそれを手繰り寄せるようにして追いかける。飛び飛びな意識の激流に感覚だけで身を任せる。
規則的な、それでいて所々抜け落ちている四角い明かりの群――あの団地だ。だがあっさりとカラスの意識は団地をすり抜ける。
そして。
幅屋の視界はスクリーン越しの田園風景で広がった。
モアイ像が並んでいる!
と、思いきや仏像だ。微妙に表情や身に着けているものが違う仏像が列を作っていて始まりが見えなかった。
時代劇に出てきそうな立派な日本家屋がある。そこから一本の太い線が伸びていて天とつながっている。線の内側にも線が入っていて、その線はやたらと赤く煌々としている。線というよりも管だ。ナニモノかがあの家にとてつもない怒りの感情を向けているのだろうか。
「だぁれ?」
幼い女の子の声がした。幅屋は叫び声を上げようとしてとっさに口を両手でふさぐ。肉体は自分の部屋にあるのだ。何事かと入ってきた両親に意識が飛んでいる自分を発見されてはまずい。
着物を着たおかっぱの女の子が無垢な表情で見上げている。
「あのヒモが気になるの?」
女の子は管を指さす。
「あれはへその緒なんだって」
(へその緒?)
「うん。つぎは虚炬が連れてこられんじゃないかって言ってた」
幅屋の意識の声を聞き取って、女の子は舌足らずに言う。
(きょきょ?)
「虚炬は火の鬼だからへその緒も燃えてるって」
(あの家はなんなんや?)
「おにいちゃん、千堂家を知らないの?」
(千堂家? あれ千堂んちなんか)
幅屋は加賀老人の手紙に記されていたことを思い出したが、鬼を出産することに現実味が持てなかった。
(やっぱ、タイヘンなんかな?)
「うん。死なないといいね」
(え?)
「赤ちゃんを産むって命がけだもん」
呪いが解けようが解けまいが。涙鬼の母も命の危機にある。幅屋は何とも言えない気持ちに満たされる。
「おにいちゃん、やっぱり知り合い? おともだち?」
(いや友だちではない)
正直に答えると、女の子は悲しそうな眼をした。
(でも、あの。いっしょに勉強したり、運動したりはする。友だちではないけど)
女の子は「よくわかんない」と頭をかしげる。
(それよりも俺は高矢を探してんねん)
「たかや? まゆ毛がなくて目がつり上がってる人?」
(まゆ毛はあるで一応)
「たぶんまだあそこにいると思う」
女の子は千堂の屋敷を指さした。そういえば呪いのナイフを預けるみたいなことを言っていた気がする。
(ほいでお前は)
見下ろすと女の子の姿はなく、代わりに彼女の意識らしき痕跡が屋敷とは真逆の田んぼ道の先にある生い茂った木々の方へと、点々とスキップしているかのように続いている。意思疎通を一方的にやめられたから曖昧にしか見えなくなったのだ。
こんな夜にひとりぼっちなのに、平気なのだろうか。それとも自分が気づいていないだけでちゃんと家族も仲間もすぐそばにいるのだろうか。あのコの幼い見た目で判断してしまって……人間のクソガキが気にするようなことではないのかもしれない。
(俺ら友だちにならんか!?)
スキップが止まった。
(幅屋圭太郎っていうんや! もしイヤな奴がいたら俺がボコボコにしたるからな!)
返事はわからなかった。