幅屋圭太郎はしょーもない
カラスたちが亘区の方角の空へと帰っていく。黒い羽根と白い糞にまみれた春日井母は腰を抜かし、黒い羽根が散らかった床にへたり込んでいる。魂が抜けたかのように口を開け、虚空を見つめている。何も考えたくはないのだろう、どの感情も目に表れてはいなかった。
少なくとも、スイミーの魚群など比ではない暴力的な、黒一色の鳥群が容赦なく放流されてはひとたまりもない。幅屋は間違いなく彼女の悲鳴混じりのゴメンナサイを耳にした。
“クマ?”校長はこの一瞬の隙に窓を開けていたらしく、カラスの群れは廊下へ引き返さずに窓から出ていった。
「みんなで大掃除しないといけないです。春日井さんも手伝ってくれますよネ?」
元はと言えば。校長はそう言わんばかりの視線を春日井母に送ったが、彼女が我に返るのはもう少し時間がかかるようである。
「バイ菌がうつるといけないので、ちゃんとマスクと軍手をしましょう」
ごもっともなことを言われ、幅屋は静かにうなだれた。彼にとって見守り隊は、彼らの方からはどう見られていようが、彼にとっては戦友だった。友だちをバイ菌呼ばわりされるのは確かに良い気分ではない。が、ここで反論する意味はなく、肯定するしかなかった。
ふと、高矢がクシャクシャになった白い便箋を握りしめていたことに気がついた。
「それなんや」
「ポケットに突っ込まれた」
高矢はクシャクシャのままズボンのポケットに戻した。「あとで見して」と言うと、彼は無言でアゴを突き出した。幅屋は自身のポケットを軽く叩くと、カサリと紙製の感触があった。
涙鬼とあずまは校舎の方から空へと続く黒い大河に圧倒された。水彩絵具で描いた曇り空を容赦なく真っ二つに分断する、うごめく黒の油絵具……。不吉に感じるどころか、明らかに何らかの異変が菜の花小学校で起こったのだと知りざるを得ない。
「早く戻らなきゃ」
そう言って駆け足になろうとするあずまの細い手首をとっさに涙鬼はつかんだ。
「具合悪いクセに。走るな」
涙鬼は即座に離した手を宙にさまよわせる。ついやってしまった動作の動揺を悟られまいと声を低くする。
そういえば……あずまはランドセルを背負っていない。それに自分も。何も持たずに学校を飛び出して、結局どうやって家に帰るのか。あずまの積極性も、今になって気がついた自分の愚かさにも腹が立ってきた。ランドセルを背負っていてくれればそっちをつかんで止めてやったものを。
「でもどさくさに紛れたら怒られないかもしれないじゃん」
「は?」
涙鬼は自分でも驚くほどの呆けた声を漏らして面食らう。あずまがまさかそんな悪知恵を働かせるとは露も思わなかった。これも幅屋からの悪影響に違いない。
「アイツらのこと、心配するのかって思った」
正直にそう声に出してしまうと、最悪にもコイツは平然と「きっとだいじょうぶだよ」と奴らに対する不確かな信頼を口にした。
「真帆志くん、言ってたでしょ」
涙鬼の心はどんどん冷めていく。饗庭は度々クラスを訪れて幅屋の調子を尋ねてきた。本人に直接確認すればいいと突き放しても「ししし。まあ、まあ、まあ」と増幅した腰巾着精神ですり寄ってきて面倒だった。
幅屋くんはスナオじゃないから。
僕はもうダイジョーブだ、って思ってるんやけど。
幅屋くん自身はそう思ってないっぽいじゃん?
「“スネ夫”の言うことなんか真に受けるな」
「前まで彼は圭太郎くんのそばにいたんだから、誰よりも違いに気づいてるんだと思うよ」
幅屋が他者を気遣うようになった。頼りになるようになった。そんな訳があるものか。人目を気にするようになったことの間違いだ。饗庭も、幅屋も、ようやく自分がどう見られているか意識して恥ずかしくなっているだけなのだ。
饗庭は、涙鬼が幅屋の変化を受け入れてくれることを願っている。
「しょーもない」
涙鬼は空き缶を無造作に蹴飛ばしながら、冷ややかにそれを否定する。
空き缶が転がる。
それを老人が拾う。
不幸を呼び寄せるオーラのようにカラスを周囲につきまとわせている、奇怪な長躯の老人だった。季節から逆行している古典的な黒い外套。帽子のつばから見え隠れする鈍い眼光。
カラスを従える悪魔の化身。街の嫌われ者。妖怪紳士。
涙鬼は瞬時に印象づける。
妖怪紳士が接近する。ふたりは動けなかった。
そして、すれ違う。老人は何も言わず歩いていく。ふたりはそっと振り返る。カラスが何羽も交差しながら飛んで、いつの間にか老人の後ろ姿が翼の隙間から消えてしまった。
「……怒られるかと思っちゃったね」
あずまは胸をなでおろして微笑んだ。「もう空き缶蹴れないね」と余計な嫌味まで添えてくる。
「でも、どこかで見た気がする。あのおじいさん」
あずまはカラスが四方に飛び去って行くのを眺めながら言った。
「どこで?」
「たぶん……アメリカ」
「アメリカ……」
「うん……だから違う人かなぁ」
人違いしそうもない風貌の老人だったにもかかわらず、あずまは確信を持てずに頭をひねった。
幅屋と高矢は前倒しになった掃除の時間に参加することはなかった。ふたりの怪我の状態を目の当たりにして心配した校長に、幅屋が紹介状のことを明かすと速やかに早退を促されてしまったからである。当事者が掃除をしないだなんて、きっと陰口をたたかれるだろうなと確信しながらも、幅屋は素直に言うことを聞いた。
幅屋は眼科と形成外科。高矢は脳神経外科。中区の泰京総合病院の待ち時間は長い。その間にふたりは加賀老人からの手紙を読んだ。拒絶の呪いが解けて気持ちの整理がついてからしたためたのだろう。これまでの粗暴な言葉選びとはかけ離れた、柔らかくて優しい文章が連なっていた。手紙の前半は加賀を助けてくれた礼と、そのせいでふたりが受けることになった傷に対する謝罪と賛美。問題になったのが後半である。
前半はほぼ内容が一致していたふたりの手紙であったが、後半は違っていた。ふたりが内容を伝え合うことを想定していたのかどうかは定かではない。その場に幅屋の母がいたため、ふたりは目で通じ合わせ無言で二枚目を交換した。白い便箋には老人のイメージには似つかわしくない可愛らしい花柄がプリントされていたこともあってか、幅屋の母は何かを勘違いして手紙のことに触れてこなかった。
――幅屋の手紙の後半の内容の概要はこうである。
加賀茂の改名前は脩山尋である。
茂には姉がひとりいる。本当は彼女も養子に迎えるつもりだったが、当時はなぜか拒まれてしまい、呪いのせいで強制できなかった。呪いが解けたので改めて養子に迎える準備を進めることが可能。
彼女の意思も尊重したいので、代わりに会って本心を確かめてほしい。
茂はチューリップを育てるきっかけとなった娘を気にしている。なぜチューリップをくれたのか、なぜ娘は泣いていたのか、ずっと疑問に思っていて、疑問を忘れないためにチューリップを育て続けている。
娘の正体の調べはとっくについているものの、今はまだ接触する機会を作れないため茂には伝えていない。娘に余計な虫がつかないように目を光らせておいてほしい。
――高矢の手紙の後半の内容の概要はこうである。
高矢が得た怪力の真髄……呪いを打ち払う力はいざこざに巻き込まれかねないため特に千堂家には黙っておいた方が賢明で、あくまでも意欲を損なわせる程度の力であると死ぬまでウソを貫いてほしい。もし告げたいなら今はまだ魁次郎・チヨ夫妻だけにとどめ、絶対に千堂家の呪いだけは解こうとしてはならない。
日比谷あずまという少年の母親みさ子が入院している。彼女の中にある慈悲を打ち払えるかどうか安全な範囲で試してほしい。もし払うことができた場合、あずまの中にも慈悲があるか確認して同様に払ってほしい。
もしあずまに慈悲がなかった場合、古い知人に協力してもらった人格の矯正がまだ機能しているかどうか確認してほしい。機能していようがいまいが、その後どうするかは本人と相談して決めてほしい。これらは誰にもばれないようにやってほしい。
「…………」
「…………」
互いに怪訝な目で見つめ合った。泰京総合病院に向けた紹介状は高矢への頼み事が絡んでいた訳である。
高矢は文句言いたげにしている。呪いを解いてやったのに、倍返しであれこれ注文をされてしまったのだ。そのくせ他所には力をばらすなとまできた。
幅屋も涙鬼がずっと抱えていた問題が想像以上に深刻だったことに、ほのかなショックを受けていた。呪いを解いてはならない理由もきちんと書かれていた。いかに人間が非力であるか……しかし打ちひしがれることがなかったのはどこか現実味を感じられなかったからだろうか。
神からも仏からも見放されているらしい。だとするなら、涙鬼の兄から受けたあの眼力は何だったのだろうか。
自分の【一隻眼】も高矢の【粗探し】も感染したからだ。涙鬼の兄のアレも、元をたどれば人間業ではない。
きっと同族嫌悪だったのだ。似たような力を得ていて……けれど真似した側である人間の自分たちの方が分は悪い……力の本源に嫉妬してしまったのだ。
でも……本当にあらゆる神からも仏からも見放されたのなら、感染すらなかったことにされなければおかしいのではないか。
捨てる神あれば拾う神あり。そうこれだ!
千堂家は試練を与えられたのだ。本当に見放すべきかどうか、見定めるための期間なのだ。
だから、たまらなくショックとはならなかったのかもしれない。本人に言えば激昂されるだろうが。
「でも日比谷の母ちゃん、入院してるんやろ……」
奴の顔色の悪さの原因は判明した。むしろこっちの件の方がしんどい気持ちにさせた。涙鬼は常にしんどそうにしているから、いつも元気に笑ってくれているあずまが暗くなっている方が抵抗を感じてしまう。
「ジヒってやつをどうにかしたら元気になるんかもしれん……」
幅屋の希望的観測は【粗探し】を評価してのことだ。しかし高矢の視線を察知して、彼は慎んでうつむき両膝をさすった。今すぐにでも日比谷みさ子の病室に向かいたくて仕方がない。それから、ふと。
高矢は、目を丸くした幅屋が両膝から何かを両手ですくい上げ、何かが飛び去るのを観察するのを目にする。
この世界は人間ごときが支配しているのではない。人間は全知全能にはなりえない。それでもほんの少しなら、人間には到底理解できない不可思議な世界の片鱗を垣間見させることを気まぐれに許してくれる。
ガキのようにはしゃがず、酸素のように受け入れること。彼らがいるのは当たり前のことである。これをこの幅屋は自然とやってのけているのである。奴の視線を追えば、何かはエスカレーターの方へ飛んでいき、上階へと向かったらしい。
幅屋は暇を持て余して目を閉じている母親の腕を軽く叩いた。
「なあ、母ちゃん。俺のクラスメイトの母ちゃんが入院しててさ、ケガ診てもらったらお見舞いしたいんやけど」
「はぁ? それはエエけどお相手様のメイワクには」
「ならんようにすっからエエやろ」
息子の手をひしと組んで懇願する姿に、母は肩をすくめて溜め息をついた。