春日井母は謝らなければならない
「ここに来るつもりなんや」
幅屋の呟きを肯定するかのようにゴロゴロと空が轟いた。
「こんな馬鹿なことが……」
教頭は信じられないとばかりに目を見開いたまま、額に汗をにじませている。
灰色の雲はさらに分厚さを増して日が差し込むのを封じた。未だに集い続けているカラスの輪郭がぼやけ、曇り空の血管のように見える。
薄暗い闇の中からこの世へとあの鳥たちは生まれている。だから無限に彼らはやってくるのだと、幅屋はなんとなく妄想した。
カラスは漢字で烏と書き、真っ黒で目の部分がよくわからないから鳥から横棒を一本抜いている――その成り立ちをテレビで初めて知った時、幅屋は「スゲェ!」と感心し、高矢に自慢げに話したことがある。
だが今の彼にはカラスたちの見えない目が見える。どういう感情をあふれさせているのか具体的には予想できなかったが、好戦的な印象を抱かせる無数の視線が束になって校舎を射抜こうとしているのだ。
子どもの悲鳴が次々と上がって全員が扉を振り返る。
「はやくカギ閉めてッ!」
春日井母が金切り声を上げた。崇城が素早く動いて施錠した。
直後。散弾銃のような音に合わせて扉が振動し、細かな木片が宙を舞った。しん……として、そうかと思えば扉一枚隔てて騒々しくなった。カラスの大合唱である。
先ほどの窓も、何羽ものカラスが羽をばたつかせながら入れ違いに頭部を覗かせ、エサを求めるヒナのように小さな舌を突き出し喚いている。春日井母は「ひぃ!」と両手を顔元まで上げて、光沢を放つ真っ赤なヒールをもつれさせる。顔面は蒼白で、口紅がより真っ赤に目立った。
「一体なんなの!? どういうことなのよッ!?」
「アンタ会長でしょ! ちっとは落ち着きやがりな!」
幅屋の母はふたりの子どもの肩をしっかり抱いたまま叱責した。
「まるでヒッチコックですねぇ……」
舞前は間延びした声で他人事のようにつぶやいている。
「ちょ、ちょっとナニしようとしてんのよッ」
春日井母が血相をさらに悪くして校長を呼び止めた。
「子どもたちがシンパイなんです」
彼はそう言って、窓を開けようとしていた。
「開けたら入ってくるじゃないの!」
春日井母は巨大な“クマ?”に飛びついた。彼が二階から身を出そうとしていたことに考えが回らないほど狼狽している。軽く取っ組み合いとなり、床がギシギシと今にも底が抜けそうな危ない音がする。
「ね、ちょっと、そっちのドアは?」
幅屋の母が横に設置されている扉に顎を向ける。
「職員室につながっています」
教頭が答えた。彼は恐る恐る開けてみるが、慌てて閉めて背を向けた。既に職員室内も陣取られているらしく、悶々とした表情で頭を抱えた。
「見守り隊はここに用がある思うから、たぶん他のみんなはだいじょうぶやと思う」
幅屋の言葉に“クマ?”は丸い耳をピクリと開かせて「みまもりたい?」と首をひねった。
その時、ジリリと電話が鳴った。黒電話だ。“クマ?”の存在が大きいせいで感覚がマヒしてしまいそうになる。この校長室は確かに異常なのだ。
……確かに?
本当にそうなのか?
幅屋は何かが引っかかった。右目から脳みそにかけて何かがオカシイと感じる。
しかし今は学校の緊急事態だ。それと関係のないことを悠長に考えようとしている場合なのか。
「……ソッチはどうなっていますか?」
しばらく耳を傾けた“クマ?”は小さな受話器を両手で包んで幅屋たちを見回す。
「今のところケガ人は出ていないようです。鳴いているだけで襲いかかってきたりはしていない。みんな教室に避難しています」
一限目の始まりを告げるチャイムが鳴った。
“クマ?”はもう一度耳を傾けた。
「駆除、ですか?」
「イヤやアカン!」
幅屋はその単語に敏感に反応し、母親の腕を引きはがして“クマ?”に一歩二歩と駆け寄ると受話器に向かってつま先立ちになった。
「駆除はゼッタイにやったらアカン!」
幅屋は懸命に訴える。
「あいつらは怒ってるんだよ! 悪いのに悪かったって言わないから!」
「だったら早く謝ってちょーだいッ!」
「オメーだよクソがッ!」
「テメェじゃボケェ!」
幅屋と高矢は同時に春日井母に罵声を浴びせた。
「なっ、どうしてこのワタクシがトリなんかに頭を下げなきゃならないのッ!?」
「元はといえばオメェらがおじいさんとちゃんと話し合わんと追い出したんがワリィやんけ! もしホンマに春日井らが加賀をイジメてなかったとしてもやなァ! それでもPTAなんやったら子どものためになんかしてやらんといけんのちゃうがんけッ! どーして加賀をイジメたんか! どーしてそんな悪いことをしてんのか! どーしてそれが悪いことなんか! バカでもわかるようにちゃんとしゃべってやめさせろやッ!」
「減らず口を叩かないでちょーだいッ! 平々凡々な学校の子どもに我が校の何がわかるのッ!?」
腹が立つ。分からず屋のクソババアにムカムカする。でもこれ以上は怒鳴ったら駄目だ。怒りに任せ過ぎたら駄目だ。怒りは暴力だ。いざという時まで“暴力”は封印しなければならないのだ。
額から熱い汗が噴き出す。
「だいじょうぶ。おちついて」
舞前にそっと肩を抱かれた。ハンカチで頬を拭われた。かすかに血の匂いがした。
「奥さん、ここは一言試しに謝ってみませんか?」
崇城が真顔で言う。
「アナタまで何を言うの!? もしものことがあったら責任とれるのッ!?」
「カラスはアタマがいいらしいですからね。誠意をもって謝罪すれば理解してくれるかもしれませんよ」
「“らしい”とか“かも”とか不確定なこと言わないでッ!」
「事実こうして囲まれているので、何か意図があると思いませんか?」
「ワタクシにそんなことわかるワケないでしょッ!?」
「じゃあなぜそんなに怯えているんですか? 狙いがあなたでなければもっと堂々としていればいいでしょう」
崇城は軍人のように後ろ手を組んで顎を引いている。スラックスのウエスト部分に挟んである竹ものさしが背中から斜めにはみ出した。さすがにそれでカラスを引っ叩こうとしないだろうが、幅屋は頼もしく思えた。
対して春日井母は当初の自信たっぷりな態度をすっかり失わせている。窓と扉、職員室とつながっているドアの三か所から一歩でも離れようと部屋の隅に身を寄せていて、両膝をすり合わせながら右手の親指の爪を噛んでいる。カラスのけたたましさに今にも発狂しそうになっている。
「アンタたち寄ってたかってワタクシを責めて……あとでまとめて訴えてやるわ。この学校を閉鎖させることだって――」
“クマ?”が「しっ」と鋭く息を鳴らした。まだ通話は切られていなかったのだ。
「カラスを追い払う方法を知っているという老人が学校に……」
聞いたことを皆に伝えようとして。
放送のチャイムが鳴った。
『聞こえるか半小学校PTA会長の女』
老人の声にカラスたちは魔法のように鳴くのを止める。
『よくも俺を半小学校への立ち入りを禁じたな。貴様と教育委員会のお前の夫の差し金だということはわかっている。俺が望んだのはただ一つ、誠意だ。だが貴様たち夫婦はそろって俺を悪者扱いし追放した。それは一体どういうことか。既に貴様のクソガキが他者を虐げていることを承知していたからだ、違うか?』
校長室の面々は視線を彼女に集めた。校内は完全に静まり返っていて、老人の言葉だけが響き渡る。
『貴様の夫がどことつながっているのかも既に見当がついている。次男の方が犯し続けている罪も。不始末は遅かれ早かれ知られることだ』
春日井母の息は荒い。カラスの軍勢を見た直後、彼女は脳裏に加賀老人がよぎったのだろう。半小学校に抗議するために、大群のカラスを背に現れた老人の姿を思い出したのだろう。
もしかしたら、彼はひとりじゃ心細いと思ったのだろう。でも妖怪じじいに頼りたい人間はいなかった。カラスたちに協力してもらって相手を驚かし、無理やり自分の訴えに耳を貸してもらうことしかできなかったのだろう。でも失敗したのだ。
幅屋は左目に涙をにじませた。
『今、菜の花小学校に来ているカラス共は、ずっと貴様たちの行いを見てきた。生きる世界が違う以上、不正を働いていると知りつつ見るだけにとどまった。干渉するのは死に関わる時のみだ。しかし当の昔に我慢の限界がきている! そこにいるクソガキは、赤の他人であった茂のために仲間を呼び、茂を鍛え、共に戦い傷ついた勇士だ! 貴様はそれを貶し、あまつさえ晒しものにしようとしている! カラス共はそれを阻止するためにここへ来た!』
高矢は「阻止できてねぇんだよなー」と届くはずのない相手に向かって茶化す。
『……圭太郎くん。孝知くん』
ふたりはハッする。
『ありがとう』
加賀老人の呪いは解けていた。
『さあドアを開けろ! 怒り狂う面々に詫びてみせろ!』
幅屋は息を吸い、胸を張り、ドアを見据えた。高矢も「よし来い」と腕を組む。幅屋の母は息子の右手を握った。彼女は何かを言おうと口を開かせて、つぐんだ。ただ強く手を握った。
「一体何者なんだ……?」
声がかすれた教頭の問いには誰も答えられなかった。
「では、そういう訳ですから。開けますよ、奥さん」
崇城はつまみをひねって鍵を開け、ドアノブに手をかける。春日井母は惑乱した。
「ちょっと待ちなさいッ! あの人は狂っているのよッ! 頭いかれてるのッ! アナタたちご存じないでしょうけど、あの人が住んでるお屋敷にはカラスが群がって気味悪いって評判なのよッ! 何人も人を殺して庭に死体を埋めているのよ! 犯罪者の孫なんだからやられて当然でしょ! 正当防衛なのよッ! 早く警察呼んで捕まえて死刑にしてちょうだいッ!」
黒く騒々しい嵐が突っ込んだ。
今日は長めのあとがき(活動報告に飛ぶのめんどくさい)
数少ない貴重な読者の皆様……ちょっと間が開いてしまってスミマセン。
続きを書くやる気は俄然あるのに気合いの方が湧かなくて……。
幅屋をメインにした第三部はあと少しで終わります。たぶん。
今後の話の流れ的に、区切って第4部にしないでそのまま継続にしてもいいんじゃないかって考えてもいますが、ただ幅屋と高矢はあくまで裏主人公組の位置に置いておきたいので、どうにか涙鬼とあずま組にまたバトンタッチできたらいいなと思っています(思っています)
他の作者ってなんであんなに視点の切り替えうまいんだろうね……?
あと久しぶりに図書館に通うようになってハードカバー製本の小説借りるようになったんですけど、なかなかあんな風には到底及ばない……(絶望)
もっと知識を深めるためにいろんなジャンルの本を読むべきなのはわかってはいるんですけど、いっぺんに大量の文字やら情報が視界に入るとしんどいんですよね。記憶力も悪いし。だから参考文献が最後のページに載ってると、ああこのヒトちゃんと調べて書いてんだぁすげ~(小並感)ってなる。
自分より頭のいいキャラは描けないってまさにソレ。自分の描くキャラってどいつもこいつもいつまでもうだうだ考えてて全然結論を出してくれない。出したと思ったらブレ始める。自分はそういう人間です(絶望)
だからもしちゃんとこの作品が当初から言ってる“区切り”まで投稿しきることができたら誰か褒めて……。