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幅屋圭太郎は春日井母に負けたくない1

 幅屋の胃は緊張でキュッと縮みあがる。


「なあ、校長どんな人か知っとる?」


 こそっと高矢に問いかける。


「知らねーよ」


 ふたりは校長との接点がこれまで一度もなかった。一年生の時の運動会にて、放送席が“クマ先生”と言っていて、遠目でも他の教師と比べるまでもない巨漢の存在に目を見張ったものだったが、卒業式にようやくそれが校長であったと知るくらい縁がなかった。とにかく覚えているのは身体のデカさで、顔はまったくといって浮かんでこない。


 よくよく考えてみると。舞前が菜の花小学校に来る前は()()()()()幅屋も教員から注意を受けていたし、叱られもした。が、校長を前にしたことはなく、だから自分の行ないは大した問題ではないのだと幼心なりに感じていた。だから……だからといって、もし校長が直々に怒ってくれていたら心境の変化があったのか、というのは愚問だろう。


 俺はクズや。そう思うと心が重苦しく感じる。足取りも重くなっているのか、ギシギシとやけに内履きズックが鳴っている。


 とにかく。以前に加賀老人が言っていた通り、今回ばかりは菜の花小学校の名誉が傷つけられかねない問題に発展させた訳であって。


「もしかして舞前先生も怒られるかもしれん」


 幅屋はつい声に出していた。


「かもしれないねぇ。いっしょに怒られようねぇ」


 舞前はのほほんとした調子で言った。


 異様に古めかしい木製の扉の前までやってきて、幅屋はツバを飲み込む。


 舞前がノックをして、扉を開けた。ぎぃ……と、お化け屋敷にでも入るかのような不気味な軋み。そして漏れ出てきた冷気と、それに混じってトイレの芳香剤の香りに幅屋の背筋がぞわりと粟立った。


 冷気の正体はいかにも高級そうな書斎机の脇に置かれた、青い羽の古びた扇風機らしい。ブルブルと音を立てながら、ウサギ小屋とも違う野性的な異臭で鼻がひくりと伸縮した。


 なんやおまえは!?

 獣の臭いの元を目の当たりにして、せり上がってきた驚きの声をどうにか寸前でとどまらせる。吐き戻しの癖がついてしまったのか、苦汁が食道に貼りついてウッと胸を膨らませた。


 窓から薄暗い日が白く差し込んでいる。


「おはようございます。幅屋クン。高矢クン」


 逆光を浴びた、丸みのある逆三角形の巨大な影が盛り上がった。それは肩と上腕にかけた筋肉だった。低くしゃがれた声が振動し、きらめくホコリが流動したように見えた。


 扇風機が首を振るたびに、灰色にも茶色にも見える体毛がなびいている。扇風機の首が軋むのが気になるのか、鳴るたびに丸い耳がピクリとその方向へ向く。そして子どもをたやすく払いのけられそうな巨大な尾がうねうねと別の生き物であるかのように動き、影が右……左……と振り子のように室内の明暗をもてあそんでいる。


「なぜここに呼ばれたか、ふたりは心当たりありますカナ?」


 幅屋はとりあえず首をかしげて、周囲を確かめた。舞前も“緊張”はしているが、自分が目の当たりにしていることと合致していないように思える。何より、相手を見上げているのは自分だけである。高矢すら首を反らさず真っ直ぐに見ている。


 凶悪な三日月形の目……。それを見ているのは自分だけなのだ……。


 クマ校長……。自分が見ているのは校長先生であるはずだ。幅屋は右目に熱がこもり始めたのを感じた。【一隻眼(タタリメ)】はクマ校長が人間ではないことを見抜いているのだ……。本当の目がどこにあるのか、視線をとらえて教えてくれているのだ……。


 一体なぜ。人間ではないものが校長先生をやっているのか?

 第一、これは“クマ”なのか?

 まさか。本物のクマ校長ではないのか?


 しかし問題なのはそこではない。今、対峙しなければならないのは妖怪校長ではなく、教頭先生の隣で“嫌悪”の表情を隠しもせずにいる女である。


 半小学校のPTAの、嫌悪感丸出しの女……。トイレの芳香剤の正体はこの女の香水らしい。


 さすがの幅屋もこの()()()女が誰なのかピンときている。


「もうしばらくしたら幅屋クンのお母さんも到着しますからネ」

「は? え、え、え」


 幅屋はうろたえた。高矢に肘で脇腹を小突かれる。敵の前で慌てふためいたらダサい。ヘンに騒ぎ立てて校長の真の姿を見透かしていると当人にバレてしまったらどうなることか。


 高矢の親は呼ばれなかったようだ。先生と親のダブルパンチを食らわずに済むからちょっぴりうらやましい。


 そして“反省”の色はない。もちろん、自分だって後悔はしていないのだから。幅屋は自分で自分の頬を軽くはたいた。


「こらこら、ケガをしているのに。自分で自分を傷つけたらいけないんですヨ」


 巨大な“クマ?”が“困惑”からの“心配”で両腕を伸ばした。どんなに表情や声色を繕っても視線に含まれる感情の色はウソをつかない。故にどんなに凶悪な計十本のかぎ爪が首の周りを取り囲んでも、外見に騙されてはいけないのだと足の裏を力ませて耐えた。見境なく叫んでは、きっと“クマ?”はショックを受けるだろうから。


 幅屋は腕を組んで踏ん反りがえった。


 ……入室した瞬間から幅屋の様子がおかしかった。意気込んで眼帯を外したのだから、予想外のものを見てしまったのだろう。故に高矢は冷静に彼らの弱みを探す。


 ……なるほど。校長は人間ではなかった。()()()()()()()

 相手の正体が神だろうが魔王だろうが、高矢はもはやどうでもよかった。


 扉がノックされた。入室してきたのは崇城と。


「母ちゃん……」


 黄色いバンダナとエプロン姿の幅屋の母だ。幅屋の顔は母親に似たらしい。


「食堂はどうしたんや」

「みんなに任せてある。いきなり閉めるわけにもいかないんやから」


 幅屋の母は息子をにらみつけた。崇城は鼻を右手の甲で押さえた。こもっている臭いが気になるのだ。


「おはようございます。お忙しいところ申し訳ございません。コチラ、半小学校のPTAの会長の春日井さん」


 校長は愛想よく女を紹介する。首を引っこめるようにして前屈みになる様はまるで女の方が力関係が上であるかのように思わせる。


「春日井愛流とまことの母です」


 春日井の母は一歩踏み出してヒールを鳴らした。


 薄紫のスーツに、腕にかかった黒く光るバッグ。高矢は「グッチだぜ」と幅屋に耳打ちする。幅屋は『ハッチポッチステーション』のグッチ裕三しか思い浮かばなかった。さらに連想させて、女が“ミス・ダイヤモンド”の格好をしているようにしか見えなくなり、笑いをかみ殺した。


 春日井の母は大粒の宝石の耳飾りを揺らしながらふくよかな胸を張り、ふたりの少年を見下す。


「お宅の子どもがうちの子に乱暴を働いたんです。よくもあーちゃんとまーちゃんを」

「よくも加賀をイジメてくれたな」


 幅屋はすかさず言い返した。


「コラッ圭太郎ッ。相手は会長さんだよ」


 息子は母親をにらむ。


「会長でも村長でも関係あるもんか! アイツらは加賀のことをずっとずっとずーっと! ヒドイ目にあわしてきたんじゃ! だからちょっとわからしてやっただけなんじゃ!」


 幅屋は春日井の母をにらむ。彼女の瞳を通して愛流とまことたちに向けて叫ぶ。


「たった一日痛い目あったくらいでへばってんじゃねえ! 加賀は毎日毎日! 七対一でボコられてきたんじゃ! 反省しやがれッ!」

「こらッ。圭太郎ッ」


 幅屋の母が拳骨を上げる前に、春日井の母が頬を高揚させて「マーッ!」と鳴いた。


「なんて下品な子どもなんでしょッ! うちの子は誰からも等しく愛される良い子なんです! お宅とは違ってね! これまで散々学校で粗相を起こしてるそうじゃないの? 何度も先生方に迷惑をかけたとか? ワタクシなら恥ずかしくてお外に出せませんわ!」


 彼女は「それと!」と声高々に続ける。


「我が学校にイジメの事実確認の電話がこちらからありましたが、改めて断固否定させていただきます! 半小学校は国会議員も輩出している由緒ある学び舎なんです。特に規律を重んじて、異分子が入り込む余地などないのですわ!」

「異分子……」


 舞前が呟いた。幅屋は“クマ?”がビクンと肩を強張らせたのを見てしまう。凶悪な三日月形の目が心なしか垂れ下がって見える。これが高矢たちにはどう見えているのかわからなかったが、少なくとも高矢は校長の正体を“見つけた”はずだ。見え方に違いはあるのだろうが、それでもひるまず舐めた態度を維持しているのはさすがだ。ここは見習わなくてはならない。


「異分子というのは、加賀茂くんのことではないですか?」


 やわらかな、舞前の声に幅屋はハッとさせられた。


「異分子は排除しなければならないし、紛れ込んでいた事実をなくしたいから、だから隠しているということではないですか?」

「アナタ、なんてことを! 名誉棄損で訴えますからね!」


 春日井の母は“怒り”で声を震わせた。


「舞前先生。証拠もなくそんなことを言ってはいけないですヨ」


“クマ?”は諫めたが、舞前はのらりくらりといった雰囲気で、さも今思い出したかのように言う。


「実は茂くんの保護者である加賀重豊さんは、半小から出禁をくらっちゃってるんですねぇ。ただ茂くんが遠足の日に肩を脱臼させて帰ってきて、春日井くんたちにやられちゃったって言うから出向いただけなのに」

「え、ダッキュウ?」


 幅屋はキュッと苦しくなった胸をさらに腕で絞めつけた。胃液が苦い。ラベンダーなのか何なのか臭いが獣臭に混ざって鼻腔がキツイ。窓を開けてほしい。


「言いがかりはやめてくださるかしら! 加賀くんはひとり勝手に自由行動をとって勝手にケガをしたんです! それを人のせいにして!」

「あくまでもあなたのお子さんは無関係だというんですね? そうですか」


 舞前は何かを納得して小さくうなずいた。幅屋の母は“困惑”をさまよわせている。崇城は眉をひそめていて、顎をさすりながら考え込んでいた。


「いやウソやろ」


 高矢が淡泊に言った。


「アイツらが半小で好き放題してんの、知っとるやろがい」

「高矢くん、どうしてそう思うのかな?」


 校長の問いかけに、高矢は「見たから」とさらりと一言。


「見た聞いたなんていくらでも言えます。でもこちらにはちゃんと証拠があるんですよ。親と学校にチクるなという脅迫の手紙です」


 春日井の母は勝ち誇った顔でバッグから取り出した。


 それはコピー用紙だった。見せられた幅屋はギョッとした。そこには『親と学校にチクらないこと。もし破ったら逆襲する。菜の花小学校代表、五年二組、幅屋圭太郎』とだけ、あったのである。

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