日比谷あずまはひとりになりたくない
涙鬼は座り込んでいた。隣ではあずまがしきりに声をかけている。
「圭太郎くんは許してもらいたくって謝ったんじゃないと思うよ。今まで千堂くんにしてきたのは良くないことだって、ちゃんと自覚したってことを知ってもらいたかっただけじゃないかな?」
涙鬼は既視感を覚えていた。そういえば去年もこの場所であずまに慰められていたなと、昂り膨らんでいた感情が急激にしぼんでいった。
「反省はしてるんだけど、でもだからって無理に許してあげる必要はないよ」
「……ずっと恨んでていいのか?」
「いいよ。きっと圭太郎くんもそれを望んでると思う」
涙鬼は垂れてきた鼻水をハンカチで押さえた。
「……腹立つ」
「なにが?」
「それって結局、奴の思い通りってことだろ」
「じゃあ許してあげるの?」
「それも嫌だ」
「えへへ。むずかしいね」
和やかに笑うあずまに、涙鬼の眉間の溝は深まる。
去年と異なるのは、あずまは幅屋の肩を持っているということだ。奴は生き物係の活動にも積極的になり始めたのは一目瞭然で、苦手だったはずのウサギをためらわず抱きかかえてブツブツと話しかけている姿は気味が悪い。二学期になったら絶対に同じ係にしてやるものかと思った。
「……お前、やっぱカゼひいてるんじゃないのか」
あずまの様子がいつもと違うように感じたのは気のせいではなかった。郡司が一目見て「具合悪そうだぞ」と、手を彼の額に当てるほどだった。あずまは「吉祥くんこそ手がひんやりしてる!」と声と肩を弾ませて、それから「だいじょうぶだよ」と陽気に言ったが、かえって幸の薄さを醸し出していた。
「そんなことないよ。もしかしたら夜更かししちゃったせいかも」
「夜更かし? お前が?」
「俺だってそれくらいしちゃいたい時あるよ」
「だったら帰って寝ればいい」
「今から? いやだよぉ。だったら千堂くんもウチにおいでよ」
「俺が行ってどうするんだ」
家に誘われると思ってもみなかった涙鬼は声を硬くした。
「だって千堂くん、今日はもう学校にいたくないでしょ? さぼるんだったら俺んち来てよ」
「……」
「さぼったこと怒られないなら千堂くんちでもいいよ。俺んち行ったってなんにもないし」
「俺の家だってなんにもおもしろいものないぞ」
「AIBOがいるでしょ? それに俺的には自分ちより友だちんちの方がいいかな」
涙鬼にとってこの申し出は別に悪くはなかった。とっくに『朝の会』は始まっているだろうし、遅刻扱いになるくらいなら最初から欠席のつもりでさぼりたい。戻ったところで余計な注目を浴びるだけなのだ。
胸のつかえがとれない。左拳を右手の平で包み、額を押し当てた。まぶたをギュッと閉じると、暗闇の靄の中でぼんやりと白い獣の鬼の顔が浮かび上がってくる。
白獣鬼――どこに焦点を当てているかもわからない白く濁った双眸と、それを覆う赤い膜。そこから蜘蛛の巣状の瘤が額と頬にかけて脈打っている。血の涙を流しているようにも見える。哀れみを抱く獣だ。
奴は何かを訴えてくるわけでもなく静かに顔を向けている。鏡合わせのように見つめ合った。
俺はお前の心にゆだねる。そう語りかけているような気がしてくる。
「……もう少ししたら学校に戻る」
「え、だいじょうぶ?」
「このままさぼったら負けな気がする」
「そんなことないよ。でも千堂くんがそう言うなら俺も戻るよ」
「お前は帰って寝ろ」
「やだよ」
こいつ、見かけによらずワガママなところがあるよな、と涙鬼は思った。
「それにフタリの方が平気でしょ?」
「だったら保健室で寝ろ」
ほんの一瞬、はがれ落ちるようにあずまの顔から笑顔が消えた。嫌に大人びた印象の近づきがたい顔に、涙鬼はキュッと強めに瞬きする。見開いた時にはメガネのブリッジを右手中指で押さえている場面だった。指を離すと普段通りの天真爛漫な笑顔に戻っていて「まあいっか」と答えた。気のせいのようだ。
「いいよ。でも遊びに来てね」
「何を言っている?」
「あはは」
冗談を気さくに言えるぐらいには元気を取り戻したらしい彼に、涙鬼の眉間の溝も緩む。
「じゃあなんて言って遅刻をごまかすか考えながら戻ろうよ」
「そうだな」
立ち上がると、生温い風が頬をなでた。五月の爽やかな気候から梅雨へと変わろうとしている。ニット帽もそろそろ通気性がいいものに変えた方がいいだろう。
「あれ、なんだろう?」
あずまが見ている方向に目をやると、不穏な曇天のから黒い塊がうごめいていた。
「……鳥だ」
なんらかの鳥の大群が蟲のように波打っている。ゆっくりと流れていく雲は、そいつらの一斉の羽ばたきによるものであるかのように思えた。
「なんだかこわいね」
あずまが曇った表情で言った。
「……たかが鳥だろ」
涙鬼は歩き出した。
一方、幅屋と高矢は廊下で舞前に向き合っていた。教室のクラスメイトたちは各々の表情で窓からのぞいている。
「ウーン、まずなんて言ったらいいか……」
言葉を選ぼうとしている舞前の様子に、幅屋はちょっとばかり申し訳なくなった。無茶はするなと心配してくれていたのにこの有り様なのだ。
殊久遠寺が両腕を広げて音を立てずに舞前の背後を通っていく。彼女は学校に来てくれた。彼女がどういうわけだか舞前を毛嫌いしているというウワサは幅屋も既に耳にしている。人には得意不得意がある。
そろりそろり。それを目で追うと、パチンと目が合った。殊久遠寺はピクンと動きを止めた。かと思えば、スススッと早送りのように教室に入っていった。ちびまる子ちゃんみたいだなと思った。
「今のところなんにも連絡来てないけど……。もしあの子たちの親から苦情が来たら、先生もいっしょに謝るから」
「謝る必要ねーよ!」
幅屋と高矢は口をそろえ、舞前は目を丸くした。
「もし俺らが先に謝ったら、あいつらゼッタイ謝らない! 先に加賀に謝るんなら、俺は謝ってもいい」
「あ、ずりぃ! じゃあ俺も謝る。先にそいつら土下座したらな。ルール無視してバットとかマジありえねー! 殺人未遂で訴えてやる!」
ふたりの怒りの主張に舞前はばつが悪そうに苦笑い。
「でもほかの学校の子を助けるためにがんばったってスゴイよね。めっちゃポイント高い」
饗庭が三組の窓から顔を出してふたりを擁護した。
「暴力で解決するのは野蛮人のすることじゃん」
今度は戸上が二組の窓から身を乗り出すようにして現れた。噛みつかれた饗庭は何とも言えない面持ちで口ごもる。
「僕ねぇ、半小学校の方へ問い合わせたんだよね。そしたらイジメなんて起こってないってしらを切られちゃってねぇ」
舞前が顎をなでながら言った。
「そうだよ! 加賀のじいちゃんも学校に言ったんだって! そしたら出入り禁止になったって言ってた! 春日井らの親にも訴えられたって!」
生唾を飛ばすほどの幅屋の懸命さに、舞前は同調の意味を込めて唸る。
そこへ、郡司が慌てた様子で廊下に現れ、自身の後方を指差した。
「おい! はした小のPTA会長だって人が学校に来るって! さっき校長先生のとこに電話かかってきたらしい!」
幅屋は呆気にとられた。
「幅屋、高矢! お前ら指名されてるぞ! もうそこに来てる!」
放送のチャイムが鳴った――五年二組の幅屋圭太郎くん。高矢孝知くん。至急、校長室まで来てください――
ざわついた。
「ああ……そっちの道に行くんだねぇ」
舞前は天井のスピーカーを見やり、残念そうにつぶやいた。
「行こう、ふたりとも。先生も行くから」
舞前に優しく背中を押され、幅屋は校長からの叱責を覚悟し、高矢は真顔で押し黙った。
幅屋は眼帯をはずした。ひ……と、戸上が口元に手を当てる。
高矢はポケットの中の呪いのナイフの存在を確かめた。臨戦態勢だ。
ふたりは精悍に歩き出した。