◇春日井兄弟⑧~老人を泣かせてはいけない~◇
「次は高矢が助けられる番かもしれん」
「そうかよ」
高矢が突進して、春日井愛流の顔面を殴り、羽交い絞めをしていた幅屋まで転倒する羽目になった。
「いってェ……!」
そう言って悶えたのは高矢だった。後頭部の痛みがぶり返したのだ。
下敷きになった幅屋は春日井愛流を押しのけた。見ると、春日井愛流は大粒の涙をキラキラとこぼしている。ナニかが奴の体内から排出されているらしい。コイツは二度とバリアを使えない確かな予感を幅屋は覚えた。
「そいつを立たせろ」
高矢に命令された幅屋は素直に応じた。春日井愛流は抵抗する気力も失せているようだった。
「おい、加賀。こっち来い」
高矢が無愛想に手招きすると、未だに呆然と突っ立っているばかりだった加賀がスタスタと歩み寄る。
「俺が今から言うことをやれ。いいな」
「……いいよ」
幅屋は目を見張った。加賀から“思考”が発せられなかったのである。むしろ思考が止まって、そのまま考えるまでもなく高矢の提案を飲んだ……ということなのだ。
「鼻の下を殴れ!」
誰を、とは言われなかった。それなのに加賀は悩む素振りを一瞬たりともせず春日井愛流の鼻の下へ目がけて小さな握り拳を叩きつけてみせた。高矢と幅屋に比べれば大した威力のないパンチだった。しかし容赦はなかった。「ェにゃ!?」と春日井愛流は妙な鳴き声をあげた。幅屋に支えられているせいで避けることも崩れ落ちることもできない。
「次みぞおちを狙え! 次はこめかみ!」
加賀は的確に、無言で殴った。予備動作らしき動きはとらえられない。突然パンチだけが前兆なく繰り出される。
「次はアゴ!」
言われて即パンチ。だから相手は身構える余裕がない。それほどまでに加賀は素早い。これでもし、誰かに言われるまでもなく自分の考えで……自分のタイミングで攻撃ができるようになれば。幅屋は喜びで胸が震えた。
「次は蹴りだ! 腹に膝蹴りしろ!」
春日井愛流の飛沫が加賀の顔にかかる。加賀はピクリとも表情の筋肉は動かない。
「これやれるか? こめかみに回し蹴りだ!」
高矢は調子に乗った。すると加賀は初めて前兆の動きをした。身を低くしたかと思うと体ごと横回転させた。まるでブレイクダンスのようなきれいな浴びせ蹴りが春日井愛流のこめかみにヒットした。それはまさしく幅屋が見せたプロレスのビデオの中にあった技であり、一切練習していない技だった。
春日井愛流は白目をむいてダウンした。高矢は「ざまーみろ!」と罵った。
「すげぇ! お前スゲーよ! ケンカの才能ある!」
幅屋は春日井愛流を捨てて飛び跳ねた。バンザイをした。
「ほら! ハイタッチ! ハイタッチや!」
加賀は理解して、無表情でハイタッチをした。
「よくやったな! マジでよくやったな! よくがんばった!」
幅屋は高揚して加賀を抱きしめた。
「ケンカデビューおめでと。……そんでスッキリしたか?」
高矢の問いかけに、加賀はやや考えて「わからない」と答えた。
「ならもう一発蹴り入れとけ」
死体蹴りというやつだ。死んではいないが。加賀はためらわず横倒れしている春日井愛流の下腹部を蹴った。
高矢は「アイツ」と、突っ伏している春日井まことの方に目をやりながら幅屋に言う。
「弟の方のせいで考えるチカラ弱まってたんだよ。それで抵抗できなくさせて、生きたサンドバッグ状態にさせられてた」
「そんじゃあ加賀はずっとがんばって考えてたんだな。ちゃんと待ってれば答えが出るんに、みんな待ちきれんかったんやな」
幅屋は堪え性のない自分を戒めるかのように強く腕を組んだ。
「そりゃ時間制限があれば待ってられねーだろ。昔のお前だったら間違いなくコイツは“対象”だろ」
「うん。同じ学校じゃなくてよかったと思う」
――タイミング、というやつだな。
ダレかがそう言った。しかし振り向いても夕方の風がそよいでいるだけだ。
「それよりも早くお墓つくってやりてーんだよ! イヤちゃう、先にまだ生きてるヤツを助けてやんねーと!」
気持ちをしぼませている場合ではないと、幅屋は辺りを見渡した。「あ、アレ……?」と戸惑いに目が揺れ動いた。
「い、いない……アレ……どこにもおらん……」
さっきまで転がっていたはずのカラスの死骸たちが忽然と消えている。かろうじて生きていたカラスたちもいない。
「どこにもおらん」
「泣くんじゃねーよ、きしょくわりぃ」
「でもよぉ」
「そいつらなら加賀のイエだ」
「……ハァ?」
「ギリ生きてたヤツも、どのみち助からんかったってことだろ。だからまとめて加賀んナカに行ったんだろ」
「……加賀の中にィ、巣箱がある……?」
「す……うん、まぁ……タマシイの巣箱」
幅屋は「そっか」と呟き、弱弱しく下唇を尖らせた。
「ンだよ、なっとくできねーのかよ」
「だって、ベツに加賀がお墓じゃねーから。なんか……なんかイヤや。やっぱちゃんと作ってあげたい。加賀を助けてくれてありがとうって」
「ジーサンがオッケーしてくれたら作れば?」
「うん。記念碑つくる」
高矢は何かチガウ気がしたが、これ以上この件でゴチャゴチャ話し合う必要はないだろうと口出しはしなかった。
「ぐしゃん!」
「オエッ、きったねー」
いきなり幅屋はデカイくしゃみをした。止まっていたはずの鼻血が混じった粘着質が噴出した。高矢は顔をしかめた。
「カゼひいたんじゃねーの? バカなのに」
「風邪薬くれんかなぁ」
「さっさとジーサンとこ行こうぜ。お前ヘタしたら一生鼻曲がったままだぜ」
「ベツにエエよもう。加賀も手当てしてもらおうな」
三人が歩き出すと。
「ヒキョーだぞ、三人がかりなんてさ!」
今になって春日井まことが倒れたまま吠えた。
「バットで頭かち割んぞコラ」
高矢が珍しくドスの利いた声で脅すと、春日井まことは目を白黒させて口をパクつかせた。
「高矢さん、怒ってる」
「ん?」
「幅屋さんは、さっき怒ってたけど、今は怒ってない」
加賀の奇妙なセリフに、ふたりは顔を見合す。
「逆になんでお前は怒らないのかって俺は聞きてーよ」
高矢は言った。【カスガイ】が取れた加賀には正常な思考力が戻ってきたはず。であれば当然、これまでの仕打ちを思うと怒りが込み上げてきても不思議ではなかった。
「おじいさんも、俺が石を投げられたりしている時、怒ってた。おじいさんが、怒ってる理由がわかるまで、怒りはしまっとけって言ってた」
「ふうん……加賀は俺たちが怒ってた理由、わかったかよ?」
「……わからない」
高矢はあんぐりと口を開け、幅屋は「だーめだこりゃ」と笑った。なぜあのおじいさんがそんな変なことを言ったのかわからないが、いつかこの日を思い出し、ああ、だからふたりは怒っていたのかと、納得してくれるのなら、それでいいのだ。
「ゼッタイ、あとでみてろよ……」
春日井まことの悔しそうな声がした。
「だから、とんでもないことになるからやめとけや」
「お前らもイイ子になれよなー」
この時、幅屋と高矢は特になんとも感じていなかった。しかし、一部始終を見ていた岩本は強烈な寒気に襲われた。
たしかに言われてみれば地面に転がっていたカラスがいなくなっている。加賀の中にそいつらはいるのだと……信じがたいがそうなのだろう。
きっとこれからも、この世のカラスは加賀を守るために生まれてきて死ぬ。そして加賀のために命を落としたカラスは加賀の中に帰っていくのだ。すると……どうなるのだろう?
岩本は春日井たちのようなトクベツなチカラは持っていないし、感知することもできなかった。が、たしかにこの世には“選ばれし者”というものが存在していて、春日井がまさにそうなのだと察知はしていた。そして子どもながらに“身の保証”という概念が備わっていた。
ところが、どうやらトクベツなチカラとやらはそれほどトクベツではないらしい。身近にゴロゴロと“選ばれし者”がいて、勝手に自滅していっているから気がつかなかっただけなのだと、春日井愛流の変貌で無理に理解せざるを得なかった。
そして、真にトクベツなチカラを持つ者……。無表情であるはずの……感情がないはずの加賀の真っ黒な瞳に、深い紫の灯がちらついているのを目撃してしまった。アレが加賀の中に吸い込まれたカラスの命……生命エネルギーなのだろうか。それとも、加賀自身が秘めている熱情なのだろうか。逆光で加賀自身は暗い影を横顔に貼りつけていながら、瞳だけがやけに鮮明に色づいていた。
一瞬、深い紫の灯が瞳から湯気のように漏れ出て、加賀の周りを取り巻いた。紫から黒へ。黒い湯気が加賀の頬を愛おしくなでた。様子から見て幅屋も高矢も気がついていない。どうやら幅屋にもフシギなチカラを持っているらしいが、それ以上に加賀がヤバい存在なのだと。良からぬものを目にしてしまった岩本は、これまでの加賀への仕打ちを激しく後悔し始めた。
復讐されないためにも、これからは静かに息をひそめて生きていこう。目立たないように。まだ小学六年生の少年は今後の人生の身の振り方を決定づけた。
「あ、そーだ」
高矢はいいことを思いついたとばかりにニタリと笑った。
「そーいえば藤堂はナメクジがニガテなんだよなー。毎日空から落ちてきたら地獄だよなー」
上に向かって軽口を言いながら、止めていた歩を進みだす。幅屋は「ぶふ」と失笑した。これでカラスは飽きるまで藤堂に報復をするだろう。いい気味だと心の中で笑って、今度こそ春日井たちを放って公園を後にすると。
「そういえば」
と、加賀がしゃべりだしたのである。無表情は相変わらずなのに、奇妙に仄暗かった公園から抜け出して夕日を浴びる彼の表情が明るいように錯覚させた。
「どうして幸せになってほしいからって言ったの?」
「え」
「って野々村さんが疑問に思ってた。すごくイヤそうだった」
野々村からの新たな伝言だった。高矢は盛大に吹き出し大笑いした。
「お前ンなこと言ってんのか!? ヒーッ!」
「笑うな!」
「チョーウケる! ドラマの見過ぎだろ! ハッハァー!」
「パー子みたいに笑んなやッ!」
「はぁーイテェ……! 腹も頭もイテェ……!」
高矢は苦悶の表情を浮かべながら腹をよじり続けた。
「ああもう! そのセリフはなし! いじめてごめんってメチャクチャ反省してるからって言っといてくれ! あともし誰かにいじめられたらお詫びで俺がいつでも飛んでいって絶対に助けてやるって野々村に言っとけ!」
耳を赤くする幅屋は自棄になって腕を組み、いつものように胸を張った。
「わかった」
「あとな、加賀。お前ももしまたいじめられたら絶対にやり返せよ? 殴られたら殴り返す。でもお前の方からケンカをしかけたらダメやからな。大切な奴とか、仲がいい奴とか、そんな奴が傷つけられてピンチの時にやるんだ。いじめっこになったら俺が怒るからな。昔の俺のようにはなるな。春日井らのようにもなるな」
「わかった」
加賀はコクリとうなずく。高矢の「これからも鍛えろよなー」という言葉にもうなずいた。
その後、三人は加賀老人の手当てを受けた。案の定、高矢は頭を数針縫う怪我を負っていた。加賀老人は「調子に乗ったバツだ」とぼやいたが、的確かつ迅速な治療の一挙一動は明らかに優しさと労りがあり、眼差しは“悲しみ”一色で震えていた。幅屋の曲がった鼻も戻し、一通りの治療が済むとひとまず“安心”したかと思いきや「紹介状を書いてやるから設備が整ったちゃんとした病院に行け」と“心配”の色に塗りつぶされた。
高矢は「親父にはすっ転んで頭ぶつけたって言っとく」とまったく深刻には考えていなかったが、加賀老人の不安の強さを知っている幅屋は紹介状をありがたく頂戴した。
「おじいさんの手当て全然痛くなかった。本当にありがとう」
「フン」
「高矢も、一万円は病院で使うんやぞ」
なんと加賀老人は今回の治療を無償でしてくれただけでなく、次回病院で診てもらうための費用を押しつけてきたのだ。
「そんでもし余ったら貯金だろ。わかってるよ。てかさっきから何ニヤニヤしてんだよ?」
「ベツに?」
幅屋は右目に眼帯をつけていた。ますます涙鬼とおそろいになってしまったことに浮かれていた。それを何となく察した高矢は溜め息をつく。
「そんで墓つくんだろ?」
「うん。作る」
幅屋は笑顔でうなずいた。
「今日はもう遅いから、また今度にしろ」
加賀老人がぶっきらぼうに言った。
「おいジーサン」
「なんだ」
おもむろに、高矢は腰かけている加賀老人の正面に立つ。
「……【沱】」
ペチン、と。加賀老人を平手打ちした。幅屋はギョッとした。
「おい! 何してんだ!」
加賀老人は横を向いたまま口を半開きにして、一筋の涙を流した。
「ワーッ! ごめん! ごめんよォ! 悪気はきっとないんや! きっとなんか、考えが」
幅屋は慌てふためいた。加賀老人はポタポタと涙を流した。
「悪いが、出てってくれないか……」
加賀老人は右手のひらで弱弱しく顔を覆って声を震わせた。
「うん出てく! ホントにゴメン! 高矢も謝れ!」
「あーワリ」
「心がこもってねぇんだよっ。ホントにゴメン! 茂くんもおじいさん叩いちまってゴメンなっ」
幅屋は高矢を引っ張って治療室から逃げ出し、わざわざ暖炉に火をつけて乾かしてくれていた服を早急に着た。
「あーもう……お墓つくんなアカンのにどーすんだ……」
正門に着いて振り返ると、加賀が見送りについてきていた。幅屋は気まずかった。
「ま、また会おうな。それから、女子にも会えるといいな。チューリップの」
「うん」
「もし俺が先に見つけたら教えてやるよ。そんで好きなら好きって言えよな」
加賀は首をかしげた。
「じゃあな」
別れの言葉をかけると、加賀は無言で手を振って屋敷に戻っていった。
その後、幅屋はケガのことで母親にしこたま叱られたのは言うまでもない。