春日井兄弟④~友だちを死なせるわけにはいかない~
今度はカラスが一羽、二羽、三羽……冷たい藤色に光を帯びて、液状に渦を巻く。まるで太鼓の模様みたいだと幅屋は微かな意識で思った。
巴のカラス……カラスの霊魂だ。春日井愛流のバリアであっけなく散ってしまったカラスたちのオバケだと幅屋は悟った。
四羽、五羽、六羽……引っ付いて、離れて、引っ付いて……かろうじて鳥っぽい形を残しながら、数珠つなぎの魂は目前で円を描き続ける。やわらかな円。やわらかな光。
幅屋の目元から白い泡がふくらむ。ぽかり。ぽかり。ゆらゆらと泡がカラスの魂にぶつかって、ぽかりと弾けて穴が開いて、渦を巻いて穴がふさがって……。
クラムボンだ――幅屋は心が震えた。
みんなじゃなくて俺が死ねばよかったんや――次から次へと泡が吹き上がった。
だけど。まだ死んではいけない。約束は絶対に破らない。絶対に助ける。
がんばって、もがき続ける。浮上する泡に向かって、暗がりをかき分ける。ぽかり。ぽかり。
心が寒くて震える。泡がどんどん湧いて出てくる。まだ死にたくない……死にたくない……。
神さま! どうか!
俺に友だち助ける力くれよ!
くれよッ!
くちばしが泡を突っついて、幅屋の右目をチョンと突っついた。痛くなかった。
声がこだまする。まるで輪唱のようにカラスの魂が語りかけてくる。
『我々は烏輪様をお守りするために生きてきた』
『烏輪様は白鴉様であり鴉魄様であり玄鴉点様なのだ』
『余りにも偉大で、余りにも眩く、余りにも遠く、余りにも寂しく、輪郭のつかめない尊いお方なのだ』
『烏輪様は地に堕とされてしまった。だから我々がお守りしなければならなかった。いつの日か、天にお戻りになるその時まで』
ひとりぼっちなんやったら、俺が構ってやるよ。
俺もなんか手伝えたら手伝うよ。
『ところが今度は、人間の手で殺されそうになった。何度も』
『ある時は母親。ある時は、あの子どもだ』
数珠つなぎの魂が揺らめく。白雪姫に出てくる魔法の鏡のように反射して、右目と共鳴する。瞳孔にカラスたちがとらえた記録が薄ぼんやりと映し出される。
『烏輪様の黒ずんだ魂はひとりの妊婦の腹に引きずり込まれた。その女の腹の中で浄化されるはずだった魂は望まれないまま産み落とされ、丁重に扱われることはなかった。味方だったのは物心がついたばかりの姉だけだ』
きれいな女の人だった。そして醜い女の人だった。まだ幼い女の子が危うい手つきで粉ミルクを哺乳瓶に入れている。粉を床にこぼして、ぶたれている。
過去であるせいか視線を感知できない。しかしこの母親がどういう訳だか自分の子どもを敵視していることはいちいち考えなくてもわかった。もしただの八つ当たりだったなら、幅屋は今すぐに代わってやりたかった。
姉の甲斐甲斐しい子育て。弟がぶたれないように外に連れ出す日々。
“からすのひなは、よいこのひな――”
笑顔で歌を歌ってくれる。見守ってくれているカラスたちも微笑んでいるように見える。幅屋はささやかなしあわせを感じて、涙が止まらなかった。
加賀老人とも知り合えた。近所から妖怪じじいと怖がられていると理解していた姉はあえて彼と積極的に話しかけるようにした。どんなに煙たがられても、拒絶されないから。弟の味方になってくれる人を姉は望んでいた。姉はつよかった。弟が無事に大きくなれるように。しあわせになれるように。
少しずつ、少しずつ。魂が癒されていく。そのはずだったのに。
『あの子どもだ。あの子どもが、火をつけた』
春日井まことだった。
どうして?
『あの子どもは虫から始まって、小動物を閉じ込めて燃やすのを楽しんでいた』
『我々は知っている。我々の仲間も犠牲になっている』
『そして人間の子どもを閉じ込めて、火をつけたらどうなるか試したのだ』
母親が出かけている日。姉も学校でいない日。春日井まことは火をつけた。子どもさえいればどこでもよかったのだろう。逃げられないように、わざわざ踏み台まで用意して、ガムテープや接着剤で玄関と窓を封じて。古びた二階建てのアパートに。
とてもよく燃えた。幼い加賀は部屋の真ん中でぼうっとしている。閉じ込められていることを知らないまま、火がメラメラと幻影のように揺らめいているのを眺めている。
『我々は助けた。どれだけ仲間を犠牲にしようとも』
スイミーのようだと幅屋は思った。天から振り落とされた黒い槍のように、カラスの群れは一丸となってアパートに突撃した。受け継がれてきた知識を最大限に生かし、加賀を外へ脱出させた。
呆然とアパートが燃えているのを加賀は眺めつづけた。それから。
“どうして生きてんのよ――”
戻ってきた母親にぶたれた。人の目もはばからず。結果として野次馬は彼女がやったのだと確信したようだった。
『あの女はどうかしているのだ』
『あの子どももどうかしているのだ』
春日井まことも野次馬に紛れて喜びの笑顔を見せている。罪を押しつけることができそうで安心しているという表情ではない。幅屋は意味がわからなかった。
“キサマは母親なんかじゃないッ――”
加賀老人が悪魔の形相で加賀の母親を引っ叩いた。
もっと殴れッ! そんなんじゃ足りねぇよッ!
幅屋の喉がかれるほどの叫び声は加賀老人に届かなかった。
加賀が振り向いた。この声が届いたのかと思ったが、違った。
加賀と同い年くらいに見える女の子だ。野次馬から抜け出してこっちに駆け寄ってくる。女の子は泣いている。
“あげる――”
リボンが飾られたチューリップが一輪。誰かからの贈り物か、これから誰かに贈ろうとしていたのか、わからない。
あげると差し出されたから。加賀は受け取った。ああ、これが“ふぁにーがーる”か。慰めてくれたということも、加賀は理解できないのだ。女の子は付き添いの老婆の元へと去っていく。
はやく追いかけろ! ありがとうって言えや!
これは過去の映像だ。わかっているけど言わずにはいられなかった。
だって! これっきりちゃうんけ!? どこの子か知らねんやろ!?
もらった時なんにも言われてないって言っていたクセに、加賀はウソをついたのだ。そのことがひどく、感動する。
ちくしょう! もやもやする!
なぞの女の子の涙につられて、泣くのをやめられない。
あっ!
春日井まことは女の子が去っていった方向を見ている。まさか!
『烏輪様を助けられなかったら』
いやや!
『次はあの子が』
いややッ!
『辱しめられ』
いややゼッタイにッ! 許さねぇ――