春日井兄弟③~ルールを破ってはいけない~
トレーニング四日目に、唐突に幅屋は「元気があれば何でもできる」とほざいた。
プロレス技が最強だという持論のもと、休憩も兼ねてプロレスの試合を録画したビデオの鑑賞会が始まった。
彼らはケンカのプロなのだと。プロの動きを観察するのも勉強だと。言わんとしていることはわかるが、プロは一般人に手出しできないし、プロだから超えてはいけない一線というものがある。
「だから俺はプロにならない。加賀も、参考にするだけやぞ。嫌いな奴をボコボコにしたけりゃプロになるな」
高矢が一言指摘してやろうとしたら、幅屋はそう言って胸を張った。
芽生えたばかりだとはいえ、幅屋の正義感は非情にぼんやりとしたものだった。仲間がやられたから敵にお見舞いするのは不良の考えと一緒ではないか。
しかもそのあやふやな正義感は幅屋のメンタルの支えになってくれるどころか、良心の呵責を育てて怪力を刺激し、むしろ首を絞めていた。
余計な感情を芽生えさせたきっかけの奴。加賀茂がどれほど情けない野郎か確かめるつもりもあって、幅屋の正義ごっこに付き合っていた。ふたを開ければ、底知れない黒煙。つかみどころのないどす黒い霧。まるで他とは違う時間の中で生きている。なるほどイライラさせられて逆に構ってしまう。だが元・母親が使ったことのある言葉を借りるなら、白痴ってやつだ。
もし幅屋がまだ“正気”でいてくれたら、一緒にいじめ倒していただろう。菜の花小ではもう遊べない。そこではおとなしくしておくしかなくなった。妖怪じじいは金を持っていそうだし、加賀にきっちり言い聞かせて要求すれば金には困らないし、きっと楽しい時間になったはずだ。
「あ! これ高矢ならできんじゃね? えんずい斬りってんやけど」
幅屋が喜々と指さした蹴り技。巻き戻して炸裂したシーンを見させられる。
「これさ、ちゃんとやったら全然痛くないんやってさ! でもマジで食らわせたらヤバいんやって!」
それがプロか、プロじゃないかの差! 幅屋は鼻息を荒くして、加賀にも技の凄さが伝わるように必死に身振り手振りで説明しようとしていた。この熱量に対し、加賀はうんともすんとも反応しない。
三人それぞれ持っている空気のぶつかり合いに居心地の悪さを感じていた。幅屋はそれに気がついている上で、加賀という人間を受け入れようと必死でいたのがアホらしく思えた。
みんなちがって、みんないい。高矢はこの言葉が大嫌いだった。当時の担任に正直に答えて白い目で見られたこともある。どれだけ自分が他と子どもと違っているのか、子どもとして正しくないのか、周囲を見て気がついていた。眉毛を抜いてみせたのも、いかに自分が基準からずれていて、みんなちがっていることの良さが誤りであるかを主張するための行動のひとつだったのかもしれない。
じゃあみんな同じならいいのかというとそうでもない。そういうことではないのだ。どう説明すればいいのか、具体的な言葉が浮かばずにいる高矢の苛立ちは日々積もり続けていた。
このまま幅屋のペースに巻き込まれ続けていれば緩和されてしまって、いつしか正しい道を歩かされているかもしれない。日比谷あずまが人格を矯正されて偽善者になってしまったように、良い人間の仲間入りしているかもしれない。それがおもしろくなかった。
高矢は間違いなく自分の意思でナイフを盗んだのだ。クズらしい生き方をする宣誓のようなものだったのだ。高矢にとって言葉にできない重要な意味を孕むナイフだったのだ。
それを“正しい”ことに使ってしまったのか――
高矢に蹴られた加賀は中途半端に脱がされたシャツに絡まるようにして地面を転がった。痛覚すら理解できていないのか、こめかみからも血をにじませながらも、彼は寝起きのようにキョトンとしていた。
とにかく加賀を暴力的に春日井から離すことに成功した高矢は、膝立ちで目を丸くしている春日井をにらみつけてやる。
至近距離に立ったからなのか、奴の意表を突いて【粗探し】をかい潜らせることができたのか、新たに情報が眼力に飛び込んできた。
春日井は自分の能力だというのにバリアが視えていないというのだ。目にまつわる怪力ではないからではない。敵が勝手にやられていくのだ。それが当たり前になっている。
それは神のご加護であるかのように。泰京市をめぐる不可思議な力の源が宿っている。僕は蛇神に選ばれたのだ――春日井は子どもらしく信じて疑わない。
神の力が守ってくれているから。それを免罪符に好き勝手振る舞える。春日井は怪力のことを自身と切り離して考えているからバリアが視えていない。オートマチックな動きも納得できる。そこに秘めた危険性……。
「僕の楽しみを取るなよ」
春日井はにらみかえす。その時、高矢は今まで感じたことのない激痛を後頭部に覚えた。頭から足へ、縦一直線に力が抜けていった。気絶に至らなかったのは根性だったのだろうか。頭に手をやるとねっとりと熱く脈打っている。指に、血がついていた。
「誰だ、おまえェ……!」
高矢は腹ばいのまま、血がついた金属バットを持った少年を見上げた。定丸を思い出させる、女子に見間違えそうな顔立ちをしていた奴だ。「春日井まことさん」と、上体を起こした加賀が言った。にやついた目が兄にそっくりだった。
「シカトこいてんじゃねーぞ……三人って言ったがいや……!」
「え? 見に行ってもいーい? って言うから、いいよーって言っただけだし」
春日井愛流が答えた。にやにやしていた。
「僕、部外者だから関係ないよ」
春日井まことも、にやにやしていた。高矢は腕に力を入れて起きようとしたが、今度は背中を打たれ、顎が地面をこすった。春日井まことは「えいっ」と背中にジャンプした。全体重で背骨をぐりぐりとえぐるように踏み、二度三度とジャンプした。
なんで俺は地面をはいつくばってんだ?
本来は自分が春日井まことの立場にあったはずだ。なぜ自分が骨を軋ませて内臓を押し出されそうになって苦しんでいるのか、高矢は必死に冷静さを寄せ集めながら考える。
クズとして当然の扱われ方? 冗談ではなかった。
「とんでもないことになんだぞ約束破ったらァ……! どうなっても知らんぞ!」
幅屋は立ち上がり、ふらふらと歩んだ。潜んでいた春日井まことの視線をとらえて高矢が殴られるのを防げなかったのは自分の落ち度だ。
でも。せっかく果たし状で注意しておいたのに。ルールを守らないなんて! よりによってバットで不意打ちを食らわせるなんて!
ピョンピョンと背中を踏んづけられ続けている高矢はぐったりしていて顔も土気色だ。やりかたは乱暴だったけれど、せっかく春日井愛流の暴行を一時的に止めてくれたのだ。今度は自分が春日井まことを止めてやらなければ……。
後頭部を殴りつけられた。鬼の形相をした藤堂だった。執念深さだけで立ち上がったのだ。
岩本の弱点は見た目に反して打たれ弱く、一度トラウマになったら立ち直るのが遅いこと。対して藤堂は諦めが悪く自分の負けをなかなか認めようとしない。欠点ではあるが弱点としては難しい。ここにきてそれが顕著になったようだ。
これ以外にもナメクジがムリらしいが、用意ができなかった。青いようにも赤いようにも見える藤堂の顔色に、まるでゾンビみたいだと幅屋はぼんやりと思った。
「それ貸せッ!」
藤堂が春日井まことのバットを奪った。彼は幅屋の頭に目がけてバットを振る。
幅屋は雄叫びを上げた。前屈みになって牛のように彼の腹部に体当たりして攻撃をかわす。首がひねった。筋が切れそうな痛みに耐えて力任せに押して押して押しまくって、つんのめった。
池がしぶきを上げた。
幅屋はカバのように大きく口を開かせながら顔を出し、飛び石に捕まった。石のヘビの上のカラスと目が合った。
「ぅワッ」
藤堂に襟をつかまれ、頭を水面に押しつけられた。心臓が胸を打って危険を知らせる。身をよじって突っぱねたが、手は空を切る。仰向けになった幅屋に、藤堂は馬乗りになる。
「がばあばあばぼ……ッ!」
幅屋はジタバタもがいた。酸素が無残に消費されていく。
「それ……死ぬ……!」
岩本が胃液を口から垂れ流しながら訴える。藤堂は無我夢中で幅屋の顔面を押さえつけ、春日井兄弟は爛々に凝視する。
幅屋は意識がもうろうとした。体が沈んでいく。馬乗りしている藤堂の体重を感じなくなっていく。暗い水をかく手が闇に溶けていく。自ら立てている騒々しさが遠のく。
獲物を仕留める目をした藤堂の顔が波紋にかき消されて、定丸が浮かび上がった。随分と会っていなかったような気がした。
彼女に向かって手を伸ばしたつもりだったのに、その感覚がなかった。彼女は軽蔑の眼差しを送ってくる。声が反響する。
『もうだめだ』
何が?
『お前にはもう余白がない』
なにが?
『お前はもう使えない』
なにが?
加賀と増岡ばかりに気を取られて、彼女のことが頭から抜け落ちていた。それが気に食わなかったのだろう。一言謝りたくて口を開かせても、機嫌を直してくれるような言葉はまったく浮かんでこない。
定丸が波紋にかき消された。もう会えない確信を押しつけられて、またしてもお別れのあいさつもなしに一方的にいなくなった。ふしぎなことに、寂しさがこみ上げてくることはなかった。いなくなってしまったはずなのに、彼女の気配がほのかに残り続けている気がするのだ。頭のどこかに……これが思い出ということなのだろうか……。