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余談~婚姻届の証人について①~

ちょっと間が開いてしまいました。

今回はちょっと長めです。

おそらくは年内最後の更新になるのではないかと思っています。

今年もお世話になりました。

 八一年九月二六日、土曜日。


 泰京市の北北西に位置している(みのり)区の温泉街、柿茜(かきあかね)

 随一の温泉旅館『天頂環(てんちょうかん)』は一目見て誰しもが圧倒されるだろう。まるで山車(だし)を寄せ集め、積み重ね、パズルのように複雑に組み込んでいるような規格外の外観。そして今にも“目覚めて”封印から解放されて動き出しそうな雰囲気を醸し出している厳めしい重厚感。これには(いわ)れがあった。


 明治のからくり技師が設計したからくり屋敷の設計図を手に入れたとある宮大工が、伝説の赤天狗の慰霊碑として“トラの足”の許可なしに建築。当然ひと悶着あった。


 元々、柿茜は“トラの足”にとって何かと手に余る土地だったという。陰陽師の娘への恩義のため、泰京の地を四つに仕切って守護するという、陰陽師の影がある勅令。しかし、いくら妖怪帝国で一世風靡させた威光があれども、同等あるいはそれ以上の威光を死してなお残す相手ともなれば厄介だ。


 とある宮大工が慰霊碑の建築に着手したのは赤天狗の無念を鎮めるためだ。“トラの足”にも利点はあったのだが、いかんせん無許可で土地をいじったのが問題視されて話がややこしくなっていたのだ。

 赤天狗にとってはどっちにしろ眠りの妨げだったのだろう。建築途中に起きた未完成の慰霊碑の“身じろぎ”で温泉を掘り当て、ことが収まった。要するに、みかじめ料である。


 利益の一部を収めることによって『天頂環』の前身は“トラの足”の傘下となった訳だが。そのとある宮大工というのが寅子さんの恋人の曽祖父で、将来的に『天頂環』は彼の手に渡ることになっている、と。寅子さんは琥将家を捨てて彼の元に嫁ぐ訳だから、これを巡って新たに揉めることが確定していた。


 寅子さんの母が恋人のために古臭い『天頂環』を取り壊しておしゃれなホテルをオープンさせる計画を立てているという、情報源はどこなのか実にきな臭い記事が載った雑誌が理容室に置かれていたのを見たことがあるのだ。

 ホテル開発事業を阻止すべく、『天頂環』を手に入れるべく、寅子さんが資金繰りに奔走していたことくらいは推測できる。どんな問題であれ、ものを言うのは金だ。


 ……上野大國が支援を目的に実の娘を原水留家に献上させようと目論んでいるというが、キャバレーに通い詰めたり、実の娘の病室をスイートルームのように仕立て上げたりするくらいには金に困っていない。亡き妻の慈悲の賜物か、上野家には富が残されていた。寅子さんが言っていたのは社会的支援。融資とはまた異なるのだろう。


 ……上野大國の姉、美和(みわ)。妹の三夜(みよ)。美和さんは泰天聖子の学生時代の先輩で、三夜さんは同級生。三人はいつも一緒にいて仲良し三人組と呼ばれていたらしい。

この姉妹は各々事業を立ち上げて成功している。元より手腕があったか、慈悲に守られていたか。これでは鶏が先か卵が先かみたいではないか。


 ……とにかくこの姉妹にも蓄えがある。みさ子さんを慕う寅子さんにとって、これ以上の出資者も、協力者もいなかったということだ。


 あの日。寅子さんが設けた場はあの『天頂環』の姉妹館と呼ばれている『山月記』……柿茜から南に向かって少し上がった茶嵐山(ちゃらんざん)に構えていた料亭である。


 回廊からかつては山麓部だった柿茜の、西日に照らされた壮観を一望できた。この時はまだ紅葉は始まっていなかったが、来月には大火の如き深紅が広がっていることだろう。


 実区は高低差が激しく、下から陸ノ間(ろくのま)()ノ間、(よん)ノ間、(さん)ノ間、()ノ間、(いち)ノ間と高度が上がっていく。『天頂環』は陸ノ間、『山月記』が壱ノ間に位置している。“天頂”なのに“陸”だとは……。

 しかし遠目から見てもあの山車の塊は存在感を誇張している。壱ノ間から陸ノ間に向かって吹き上がってくる風のことを“(だい)天狗の寝息”と呼ばれているほど、赤天狗の慰霊碑は地域に根付いているのだ。


「天狗さまが寝息を立ててる」


 案内された座敷で日本庭園の松の枝が穏やかに揺れているのを見ながらそう言ったのは、美和さんと三夜さんのどちらだったか……。「くだらん」と加賀さんが風景に見向きもしなかったのは覚えている。





 上座から加賀さん、美和さん、三夜さん、寅子さん、みさ子さん。そして僕。僕とみさ子さんは向かい合わせで、まるでお見合いの席を思わせた。わざわざ高級料亭で食事会を開くとは、回りくどさに息苦しさを通り越してもどかしさを覚えた。加賀さんも似たような感情を抱えていて、ただでさえ悪い人相が殊更に酷くなっていた。


 加賀さんと旧姓上野姉妹とは聖子の葬儀以来の顔合わせとなった。みさ子さんはふたりの親戚に対して「おひさしぶりです」と首を垂れ、その初々しさに彼女たちは微妙な笑みを浮かべていた。

 いつだかみさ子さんが言った、気難しくて息が詰まるというのは彼女たちも含まれているのだ。もはや上野家の遺伝か、ふたりそろって堅苦しい面持ちをしていた。それとも亡き親友の忘れ形見ゆえに、心中にしこりがあったのか。


 美和さんはいかにもキャリアを積んできたと言わんばかりの風体で、まるでビジネススーツを着た『アルプスの少女ハイジ』のロッテンマイヤーを思わせる細身の女性だ。

 対して三夜さんはホステスのママと言ったところだろうか。ふくよかで華やかなワンピースを着ていて巨大なイヤリングが目につく。口紅も濃い。恵比須顔をしているが、目に冷めたさを感じる。美和さんよりも彼女の方が怒らせると怖い人間なのかもしれない。


「本日はお忙しい中お集まりいただきありがとうございます」


 寅子さんは髪を結い上げていて、(しし)色の色無地の着物姿がよく似合っていた。あの夜に垣間見せた感情的な色は鳴りを潜め、しおらしく場を取り仕切り始めた。が、しかし。加賀さんがいるとなればそううまく粛々とした空気を演出できなかった。


「堅苦しい真似はよせ。とっとと本題を済ませろ」


 彼の尊大な態度に美和さんは眉をひそめた。


「……そうね。ワタクシが皆さんをお呼びたてしたのは証人になっていただくため」


 寅子さんが用意したのは婚姻届であった。この面々で、彼女が結婚するのだと考える馬鹿はいなかった。「彼はまだ高校生じゃないの」と美和さんが硬い声音で言い、「進学しないで就職するということかしら?」と三夜さんが疑いの目を僕に向けた。


「上野大國はみさ子ちゃんを原水留家へ嫁に出すつもりでいます」


 寅子さんの言葉にふたりはヒッと恐ろしさに息を鳴らした。美和さんは頭を抱え「お兄さんがそんなこと……」とうなだれた。原水留家の悪名を彼女たちも知っているのだ。


「私たちにも家庭と仕事があります。兄は聖子ちゃんを溺愛していましたから、きっと、残したみさ子ちゃんのことを宝物のように大切に育てるだろうと私たちは信じて、自分のことを優先させました。それが、間違いだったということかしら」

「ねぇ、みさ子ちゃん。おしえてちょうだい。何度かお見舞いに行ったとき、お父さんのおかげでまるでホテルみたいで快適だって言ったわよね。実は嫌みのつもりだったの?」


 イヤリングを揺らしながら、三夜さんはすがるような眼差しをみさ子さんに向けた。病院の待遇は良いが親子としての関係が破綻していることに気づかされたふたりの叔母は、みさ子さんの困ったように微笑んで首をかしげる様子に痛恨の嘆息をこぼした。


「でも……よりによってどうして」


 悲痛混じりの声を美和さんが出した。


「おふたりは慈悲についての理解は?」


 寅子さんの問いに答えたのは三夜さんだった。


「代々女性はあげまんである代わりに美人薄命なんだと聖子ちゃんから聞かされています。実際に聖子ちゃんは体が弱くて、体育の授業はいつも見学でした。だから結婚してから兄は加賀さん伝いで医療関係の人脈を築いていました。だから……お見合いするにしても相柳家の方がまだ理解できるんだけど……」


 加賀さんの名前を出されて、彼の頬骨が痙攣していた。傘がなくて手持ち無沙汰になっているのか、テーブルに片肘をついて拳を握ったり弱めたりを繰り返し始めた。


「先にみさ子ちゃんを欲しがったのはタヌキの方。あげまん信仰とやらに惚れ込んでね」

「よしてッ」


 美和さんがヒステリックな声を上げた。いかり肩で深呼吸を一回して「状況は飲み込んだ」と低い声を押し殺すように発した。


「合法的に手を出されてしまう前に、さっさと人のモノにしてしまおうってことよね?」

「相思相愛なんだからいいではありませんか」

「同じことよ。それに、結婚すればもう手籠めにされない保証はあるの? アアごめんなさい、みさ子ちゃん。こんな下品な話……」


 美和さんは気が触れやすいのだろう、兄と原水留家に対する怒りや寅子さんとの対峙、そして当事者みさ子さんの心境に対する申し訳のなさ。感情がごちゃごちゃになって態度も不安定だった。単に更年期だったのかもしれないが。

 対して寅子さんは冷静そのもので、これではどちらが年上なのかわからなかった。彼女は余裕を含んだ唇を吊り上げた。


「四家には四家で牽制するほかありません。友人として、“トラの足”次期大将のワタクシを筆頭に、みさ子ちゃんをお守りすることを誓います」

「誓わなければいけないのはあなたではなく彼ではありませんこと?」


 三夜さんは見定めるように僕を見つめた。


「彼の役目はみさ子ちゃんを笑顔にすることです三夜さん。彼個人はしがない一般家庭で育った学生で非力です。味方であるワタクシたちが総出で支えてあげるべきでしょう。父親は役に立たないですし」


 にっこり笑みを浮かべる寅子さんに、三夜さんは若干バツが悪そうに細い目をさらに細めた。まるで寅子さんの威光の眩さに目がくらんでしまったかのようだ。


「フン、牽制か。だったらお前が証人の一人になればいい」

「いやですわ、重豊さま。わかってらっしゃるくせに」


 いくらか私情が混じっていたとして、彼女がサインすれば琥将家の総意とみなされ、先手を打たれた原水留家はご立腹といくだろう。


「うちの弟は是が非でも証人になりたがっていましたが、あえなく却下となりました。みさ子ちゃんの母親の元主治医と、みさ子ちゃんの叔母。これ以上の組み合わせはないとご理解いただけますと」


 どんな組み合わせであれ。上野大國の立つ瀬がなくなることには変わりないし、原水留家がざわつくことになるのだ。


「俺がヘビににらまれているのを勘定に入れてないとは浅慮だな」

「医者として相柳家と関係を持ち、原水留家のキャバレーの常連になり、ワタクシとは友情をはぐくんだ。あなたほど四家を渡り歩く自由人はいませんね」


 生きづらい人生を歩んでいる加賀重豊にとってこれ以上のない皮肉だった。


「父親は育児を病院に丸投げしているんですもの。そして今度は原水留家に押しつけようとしている。だったら好きな人と結婚するくらい、どうってことのない可愛らしい反抗だと思いませんこと?」


 大天狗が寝息を立て、回廊の窓ガラスが揺れた。


「彼女は既に成人を迎えています。一六歳になってすぐ奴らに結婚を迫られていないだけ奇跡のようなもの」


 原水留金成は色狂いではあったが、未成年は女に値しないという考えの持ち主であった。みさ子さんが成人を迎えたのは去年の十月。金成が消えたのは十二月。二ヶ月もの時差であっても勘繰らずにはいられないだろう。


 みさ子さんはずっと控えめにうつむいていて、寅子さんたちのやり取りに口を挟む素振りを見せずにいた。


「だいじょうぶですか?」


 僕は声をかけた。みさ子さんは「ええ」と、上目づかいではにかんだ。


「原水留家……いえ他の勢力もそう。私たちの家庭に手を出さないようにしてくださるの?」


 姉よりも先に三夜さんが腹をくくったようだった。二重あごの線を長く引かせ、腹の中を探るように凄んでみせた。寅子さんは涼やかに「保証します」と一言。


「でしたら私がサインします」

「三夜」

「おねえちゃん。今の私は何よりも自分の家庭を優先する。子どもたちが立派に自立してくまで。だけどそのせいでみさ子ちゃんがずっと、籠の中の鳥みたいに。今更になってアレコレ出しゃばるのはどうかと思う。せめて、みさ子ちゃんが望んでいる最小限のことを叶える。それが私の償いにする」


 ためらってしまう前に。三夜さんはブランド品のハンドバッグから万年筆を出して潔く名前を書いた。万年筆がテーブルに置かれて音を立てた。彼女は大きく息を吸い上げて、一回りは上体が膨らんだように見えた。一息ついてから捺印を済ませた


「お次は重豊さま」

「ふん」


 加賀さんは意外にもすんなりと、胸ポケットの万年筆でサインをして印鑑を出した。


「あとはご両人ね。まずはみさ子ちゃん」


 みさ子さんは清楚なワンピースの袖口から、加賀さんと同じデザインの万年筆を取り出した。


「なんだか緊張しちゃう」


 彼女はそろそろと名前を書いて万年筆を仕舞いこむと、今度は印鑑を袖口から取り出した。


「えい」


 可愛らしい声で印が押されたのを見届けた僕は婚姻届に手を伸ばした。ところが、みさ子さんの手が押さえつけられたままで引っ張ることができない。


「みさ子さん?」


 彼女は印鑑を放したもう片方の手で僕の手の甲をつかんだ。


「覚悟、してくれる?」

「もう後には引けないだろう?」

「ふふ。たしかに」


 アルカイックスマイルで。みさ子さんは両手を離した。僕は僕以外の署名がされた婚姻届を手に入れた。そのはずだった。


 みさ子さんの名前も印もない。間違いなくこの目で見届けたというのに。


「まさか」

「【判誣(ばんぶ)】」


 突如として竹藪が座敷を取り囲み、白い光が何条にも交差した。座敷は波紋を広げながら消失し、碁盤の目状に白線が引かれた宇宙が足元に広がった。


 彼女はバンブと言った。ということは、これは。


「【判誣大結界(ばんぶだいけっかい)】……」

「いかにも」


 僕の正面に立っていたのは、口髭を生やし、パンチパーマをきめた管先輩であった。

 管先輩は加賀さんとおそろいであるはずの万年筆をくるりと指先で一回転させて、煙管に変えてみせると不敵な笑みを浮かべた。


「タヌキの薄汚い幻術を打ち破るべく我が祖母、管竹内(たけうち)が編み出した“(げん)術”だ。あの婆さんの域にまで到達するにはこれからも時間を食うが、お前らの相手くらい難なくこなさにゃあ、ならんだろうよ」


 始めからお見通しだったということか。


「日比谷克義くんの記憶を植えつけられた影武者か……一体どんな気分なんだ。え?」

「胸糞悪いったらありゃしない」

「だろうとも。ご愁傷さまさまだ」

「ただ」

「ん?」

「すべての責任から逃れられると思うと清々する部分もある」


 管先輩は笑みを解き、目を細めた。


「ああ……四家、千堂家、そして慈悲……俺の占い結果すらも。大学受験や就職活動もしなくて済む。我が玄術によってお前はすべてから解放され、自然の摂理へと帰すのだ」

「記憶も何もかも」

「人様の記憶を持ち続けて何の意味がある?」

「たしかに」

「三無主義のおかげでギャーギャー喚かれずに済んで助かるがね。本人もこうだと……いや、お前に長話は無意味だ」


 僕の肉体が崩れていく。強制的に指先から一枚ずつ、皮膚がめくれて青々しいイチョウの葉に戻って、結界の宇宙の底へと散っていく。


 夫以外は記入済みの婚姻届を手に入れること。それが僕に与えられた使命……命だった。

 夫の欄に誰の名前が記されることになっていたのかわからない。金成か釜遊弟か。本物の日比谷克義と成り代わる話はどうなったのか。


 所詮は薄汚い幻術。粗い作戦を実行して、まんまと狐にしてやられてしまった。本物のみさ子さんに会うことすらないとは呆気ないものだ。


 ……いや、記憶の中の彼女しか知らないのは不幸中の幸いだろう。本物の日比谷克義が殺されていない限り、任務を果たしたら僕は用なしになる。


 今までたどってきた記憶はすべて、ただの装飾に過ぎないのだ。琥将に懐かれてしまった鬱陶しさ。寅子さんにみさ子さんをゆだねられた時の歯がゆさ。みさ子さんの胸に秘められた慈悲の手に太刀打ちできなかった悔しさも。長ったらしいビデオテープを見せられただけなのだ。何もかもが幻像だったのだ。現実ではなかった。


 だから、本物の日比谷克義を憐れむ。


 僕の命が四散する。ぱさり、と。軽々しい音を立てる。しかし、心は非情にも軽やかだった。

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