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和野辺先生は存在しない

  ド・ラ・ド・ラ・ドーレミレド

  ド・ラ・ド・ラ・ドーレミレド

  ㇾ・ソ・レ・ソ・レーミファミレ

  ドド・ドド・ドレドシラシー


 半小学校でも『キリマンジャロ』が流行するらしい。リコーダーを吹きながら下校する児童の列を幅屋は見送る。

 去年の学芸会で五年生が合奏していたのを昨日のことのように思い出させた。アコーディオンを弾く子たちの存在が異彩を放っていて、ピアニカを吹いている子たちがダサく見えた。あの頃の自分の目は腐っていたんだなぁと、彼はしみじみと溜め息をつく。


  ミ・ド・ミ・ド・ミーファソファミ

  ㇾ・ソ・レ・ソ・レーミファミレ

  ド・ラ・ド・ラ・ドーレミレド

  シシシシ・シーシドシラシー


 加賀は一見無傷で校門に立っていた。


「今日は何もされていないか?」


 やや間があって。


「春日井さんにお尻にリコーダーをつっこまれた」


 幅屋は絶句した。震えだす下唇を噛み、目頭にこみ上げる熱をこらえた。


「…………そう、か……」


 胸が痛くて相槌を打つのもやっとだ。幻聴を疑うほどに、本当にそんなことをされたのか信じたくないほどに加賀はあっけらかんとしているのだ。


「ちゃんと薬塗るんやぞ」


 加賀老人に告げれば間違いなく怒り狂うだろう。孫が怒りを知らないから、手本として代わりに怒ってみせるのだ。


 果たし状なんかまどろっこしいことせずに闇討ちしてやれば少しは気分が晴れるはずだ。正々堂々と闘うなんてクソくらえだ。加賀にしたことを何倍にも返して苦しめて、もうやめてと懇願されてもやめてやるものか。どんどん痛めつけて後悔させて泣かせてやるのだ……。


 だがそれは自分の気が晴れるだけでしかないのだ。いや、晴れやしないだろう。七人が泣き許しを乞う姿を見ても、加賀は何も感じない。それどころかなぜ泣いているのか、許してくれと願うのか理解しないに違いない。


 加賀はいつもの調子で「わかった」と言い、それから。


「………………野々村さんのことだけど」

「え? ああっ、そうだ!」


 幅屋は気持ちを切り替えるためにも手を叩いた。加賀のことで頭がいっぱいになって忘れてしまっていた。


「で、どうだった?」

「みんななかよくしてくれるから、転校してきてよかった、って野々村さんが」


 どうやら本人に聞いたらしい。


「そう……そうか。ならよかった」


 幅屋は胸をなでおろす。


「あと、どうしてそんなこと聞くの? って言うから、聞いて放課後教えてくれよ、って言われた、って言った。誰がそう言ったの? って言うから、知らない人、って言った。放課後会ったら名前聞いてみて、って言うから、わかった、って言った」


 だからゴールデンウィーク前日に『名前おしえて』と聞いてきた訳だ。


「それで……?」

「野々村さんに」

「うん」

「名前は、はばやけいたろうって言ったら、なんか変なこと言ってなかった? って言うから、変なことってなに? って言った。わたしのことで、って言うから、言ってない、って言った。どうしてそんなこと知りたいのか怖い、って言うから、何が怖いの? って言った。なんでそんなこと知りたいのか聞いて、って言うから、聞いとく、って言った」

「で……」

「どうしてそんなこと知りたかったの?」


 すべてはこの問いを出すための前置きだったようだ。

 幅屋は目を泳がせてから、恥ずかしくなりながらも。


「幸せになってほしいから」


 と、答えた。自分が菜の花から追い出したくせにと思うだろう。謝りに赴いてもどの面下げてんだと思うだろう。自分のせいで傷ついた人はみんな幸せになる権利があるのだ。


「そう言っとけ。野々村に」

「……わかった」


 幅屋はランドセルから果たし状を取り出す。心から加賀がホッとして笑ってくれること。それをはたしてこいつが叶えてくれるのか……。

 高矢が提案したのだ。信じてやらなければ。


「それじゃあコレ、果たし状。代表として春日井兄の方の下駄箱に入れにいこう」


 春日井まことの方はともかく、兄の下駄箱はクラスと出席番号がわからなければ入れられない。できれば加賀は帰らせて自分ひとりで果たし状を出したいが、半小学校の生徒じゃない奴がひとりうろついていたらまずいはず。

 まるで加賀を利用しているみたいで気が進まないが、これは彼の問題であるからして……なんて言い訳染みたことを胸の内に幅屋は言い聞かせる。


「あ、内履きの名前を見たらええんか。春日井兄の奴はもう先に帰ってるんだよな?」

「……わからない」


 とにかく六年生の下駄箱ゾーンに向かい、一足ずつ書かれている名前を確認していく。もしもまだそいつらが帰っていなくて鉢合わせしてしまったら……その時は身を(てい)してでもやってやると決意して。


「そこで何をしているの?」


 ドキリとして振り返ると、そこには深い悲しみをたたえた顔をした男性教師がいた。まったく足音に気がつかなかった。


「ああ、えーと……女子の代わりにラブレターを出さなきゃいけなくて……」

「ラブレターかぁ」


 悲しそうな顔をしている割には、のんびりとした声音である。


「えっと、六年生の春日井って人の下駄箱を探してて……」

「……春日井愛流(あいる)は一組三番だよ」


 ラブレターだと信じてくれたのか、悲しそうな顔を変えずにいるのに引っかかりを覚えた幅屋は【祟り目】を調節した。


 すると男性教師から“心配”されていることがまず判明する。それは理解できる範囲だ。しかしそれだけではなかった。顔面が淡く揺らめいて、みるみると別の顔が重なって見え始めたのだ。


「……舞前先生?」


 男性教師は面食らった。一歩引いて、自身の顔をぺたぺた触りながら、現れたもうひとつの顔の目を見開かせた。

 キン――とグラスを指で弾いたかのようなささやかな音がどこか遠くで鳴る。別に眠気があった訳でもないのに、視覚や聴覚、思考が鮮明になったような。ああ、黒い手袋をしているではないか。


「……認識阻害の面を見破るなんて。幅屋くんも伝染していたんだねぇ。それとも単に、一隻眼の持ち主なのかな?」


 たちまち聞き慣れた声に変化して、悲しそうな男の顔が消え去った。幅屋は「いっせきがん……?」と首をかしげつつ警戒した。

 舞前がかつてお多福の顔をしていたのがあたかも気のせいだったかのように。はたまた別人と入れ替わった()()だと事の重要性を認識していない、菜の花にもある七不思議に脚色して組み込まれつつあるウワサ話で締めくくられてしまったかのように。


 それを彷彿とさせる現象が目の前で起こったのだ。たとえ信頼できる人間であっても、怪しい視線を寄こさなくても、いじめを黙認していたという悪い意味での信頼が基盤となっている以上は油断できない。

 幅屋はどうなっても構わないように加賀の前に一歩出た。


「この人、まいぜん先生じゃないよ」

「え?」

和野辺(わのべ)先生」

「わのべ?」


 加賀の言葉につい素っ頓狂な声が出てしまう。一方で舞前は静かに安堵の表情を浮かべた。


「よかった、面が溶けたワケじゃないんだね。僕がここにいたってこと、ナイショにしといてね」

「え、なんで?」

「大人の事情だよ」


 認識阻害とやらを顔に施して、偽名を使って他の小学校にいる大人の事情は臭過ぎる。かなり気になる。幅屋は食い下がりたい欲求を飲み込んだ。


「……わかった。ひみつにしとく」

「ありがと」


 舞前は幅屋に微笑んだが、加賀に対しては結局悲しそうな目を向けた。


「加賀くん。先生代表としてきみに謝らないといけない。ずっと酷い目に遭っているのに放っておいてごめんなさい」


 彼は深く頭を下げた。加賀はまばたきをするだけだったが、幅屋には衝撃をもたらした。大人である先生が子どもに頭を下げて謝るなんて。


「必ず幅屋くんたちといっしょに、危害を食い止めるから。待ってて」


 舞前は加賀の両手を取り、ぎゅっと握った。加賀は「わかった」と答えた。他に答えようがないのだ。


 無事に春日井愛流の下駄箱に果たし状を投入し、ふたりは舞前に見送られながら半小学校を後にしようとした。


「まって幅屋くん」

「ん?」


 舞前は校舎を振り返る。そして幅屋を見据えた。


「もしきみも伝染して、一隻眼になったんだとしたら忠告しておかないといけないんだ」

「俺はだいじょうぶやで」

「だとしても言っておかなきゃ。春日井兄弟には気をつけて。あのふたりは何かを隠してる」

「わかった。高矢にも言っとく」


 幅屋は手を振った。

 ふたりが返っていくのを見届けた舞前は独り言ちる。


「ラブレター、ね……」


 幅屋に“許可”を出してしまったのを今更取り下げられなかった。たとえどんなに事が大きくなって、誰かが余計に傷つくことになるとしても。無理やりにでも多くの大人を巻き込んで場に引きずり出さなければならないから。


 もはや正当なやり方では解決できないところまで来ている。


 藪蛇にならなきゃいいけれど。それは自身に向けて言っているのか、それとも幅屋たちに言いたいのか、舞前もよくわからなかった。


「和野辺先生、そこでなにしてんのー?」


 ピアニカを持った半小学校の生徒が和やかに声をかけてきた。


「ウーン? みんながちゃあんとお家に帰るか見守ってるんだよぉ」

「そーなのー?」

「そーだよー。ちゃんと寄り道せずに帰ってくれなきゃ先生かなしいなぁ。車に気をつけてねぇ」

「ばいばーい」


  ドーレーシーソーラー

  ドーレーレーソーミー

  ドーレーシーソーラー

  ミーレーソーミーラー


 和野辺という教師は存在しない。用事が済めば、和野辺先生を名乗る男が半小学校にいたことは皆の記憶から薄れ、都合のいいように改変されるだろう。


 だからなのだろうか。この認識阻害の面が悲哀に満ちているのは。

 自ら進んで選んだ当然の報いに“和野辺”は黒い涙を一筋流した。

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