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殊久遠寺和子の期待に応えられない

 給食後の掃除の時間。今週、幅屋の班はトイレ担当だ。

 十五分間の掃除をきちんと済ませて本を返却することしか頭になかった幅屋は、洗剤を次々と便器に円を描くようにしてかけていく。食堂のトイレ清掃を経験している彼は無心でゴシゴシと便器を磨いた。


 別に率先してやっていたつもりはなかったが、同じ班の子たちは集団幻覚に陥ったとばかりにポカンとしていた。幅屋といえばトイレ担当になると必ず姿を消していただけでなく、ブラシを持った子をバイ菌扱いしていたのだ。そんな自身の過去を頭からすっかり抜け落ちて、彼は黙々と汚れを落とした。


 そんな至極ありえない様子に、班の一人は軽率に声を落とす。


「お前もバイ菌じゃん」


 幅屋が顔を上げると、その彼は自らの失言に我に返る。殴られたくないと、勇敢にデッキブラシを構えた。


「ああ。終わったらあとでみんなで手ぇ洗おうな」


 何食わぬ顔で幅屋は返事をして、また便器に視線を落とした。

 こいつは一体誰なんだ? まるで別人じゃないか――と。あんなに血の気が多かったのに、低かった怒りの沸点は一体どこまで上がっているのか。またしてもみんなはポカンと下顎を落としたのだった。


 ピカピカになった男子トイレに幅屋は満足してレモン石鹸で手をしっかり洗った。

 本を取りに教室へ戻る道中、殊久遠寺が中腰で青いバケツを運んでいるのと遭遇。細い指で必死に持ち手を握り、黒く濁った水が今にもこぼれそうになっている。


 目が合ったからには無視するわけにはいかないだろう。


「だいじょうぶか?」

「だいじょうぶだもん」

「持ってやる」

「いらないもん」

「遠慮すんな」


 腕を組んで威圧してやれば殊久遠寺は頬を赤く膨らませ、ゆっくりとバケツを置いた。


「ワコは今、仕事を奪われたんだもん。幅屋に脅されて手放すしかなかったんだもん」

「ひでぇヤツがいたもんやな」

「ひでぇヤロウなんだもん」


 指が痛むのだろう、殊久遠寺は関節をさする。水がたっぷり入ったバケツは幅屋にとっても重かった。もしこぼしたら廊下担当にどやされてしまう。


「お前よくこれ持ってこうと思ったな」

「もん」

「押しつけられたんか?」

「ちがうもん」


 代わりに運んでくれる手前、彼女はふくれっ面でちょこちょこと後ろをついてきた。カルガモの赤ちゃんみたいだなぁと幅屋は思った。


 無事に手洗い場までバケツを運び、水をざばざばと捨てる。その最中に「幅屋ってホントに変わったんだね」と殊久遠寺は難しい顔で呟く。


「――え? なんて?」

「饗庭が言いふらしてるんだもん。幅屋はイイ奴だぁーって」

「じゃあ言うのやめろって言っといてくれよ」

「なんで? イメージアップさせようとしてるのに?」

「するわけねぇだろ」

「たしかにマイナスからゼロに近づいたってだけだと思う」

「だろ」

「もん」


 失礼なことを口にしているのに、幅屋はまったく不快感がなかった。それどころか開放感が底知れないのだ。これこそ心が広いってことなのか。良いおこないをしているという快感の方が勝っているだけなのか。


 今は【祟り目】のピントを限界まで下げている。だから殊久遠寺が何を思っているのか明確な感情はわからない。けれど悪意がないのは表情と声音だけで十分感じ取れたし、怯えているようにも見えなかった。


 しかし記憶を探るまでもなく、彼女に乱暴な扱いをしたことがあるはずだ。


「なあ、俺お前からなんか奪ったか?」

「なんか?」

「マンガとかゲームとか」

「ないよ」

「ホントに?」

「うん」


 少しだけ【祟り目】を調節して嘘を言っていないか判断してみる。


「そっちからぶつかってきて無視されたことならあるよ」

「それはゴメンな」

「別にいいもん」


 どうやら素直に答えてくれているらしい。証拠としてまだ根に持ってくれているようだ。


「でもたしかお前、金持ちだったよな?」

「金持ちだよ」

「なのに俺は恐喝しなかった?」


 言われてみれば。殊久遠寺も疑問に思ったらしく「ふしぎだね」と大きな頭をかしげた――実は饗庭が殊久遠寺を狙おうと提案して高矢に止められた際、その場に幅屋はいなかったのである。饗庭が彼女の私物にイタズラを仕込んでいたのを高矢が発見して……という流れで、幅屋の知らないところでこのくだりは完結していたのだ。もし幅屋が自発的に殊久遠寺を恐喝していれば高矢と一悶着あっただろう。


「ウーン……まぁ、ワコんちは結構大きい家だから、もしかしたら、無意識に権力を感じた説があるもん」

「権力に屈した説」

「弱い奴には強気にいって、強い奴には頭をぺこぺこ下げるタイプだったのかも」


 彼女の軽口に幅屋は「なるほどなぁ」と実に納得してしまった。崇城先生だとか、怒るとヤバそうな大人の前ではおとなしくしていた。まあどっちみち、四年生になるまでは親の耳に届いてみっちり怒られてしまっていたわけだが。


「てかどんだけデカイ家なんだよ」

「ほら、四家、あるじゃん」

「よんけ?」

「泰京市の四大勢力のお家。それのひとつと特に仲がいいんだってさ」

「へぇー。泰京市の四天王や」

「そう。四天王タヌキ大魔神ムゲンヘンゲ」

「タヌキ?」

「うん。タヌキ。幅屋も化かされないように気をつけてね」

「化かされないように?」

「化かされないように」

「化かされないように」


 殊久遠寺は神妙にうなずく。幅屋は【祟り目】さえあれば大丈夫という根拠のない不可思議な自信が湧き上がった。


「あ、俺これから本返しにいくから」

「じゃあ先に図書室で待ってるね。今日はワコの日だから」


 幅屋は教室に戻り、『モモ』を落とさないように脇と腕に挟んで図書室まで小走りした。


 図書室の前にはベンチがあり、そこでも読書を楽しめるようになっているのだが、なぜか高矢が手ぶらで横になって陣取っていた。


「なにやってんだ?」

「ひるね」

「起きとるやんけ。そこ本読むゾーンやぞ」

「誰もここで読まねぇよ」

「読む人来たらちゃんとこの前のおばあさんの時みたいにゆずれよ」


 高矢は文句言いたげな目をして唇を歪ませる。


「なんや。言いたいことあれば聞く」

「……少し後悔してる」

「次からは本を読め」

「ちげぇよ、めんどくせぇヤツになっちまったなって話」


 舌打ちまでされて、幅屋は意味がわからなかった。意味を理解できないうちは怒るべきかもわからないので、フーンと相槌のみしたらなぜか余計に高矢の機嫌を損ねてしまったらしい。


 高矢のご機嫌が斜めになることこそが面倒なので、幅屋は会話を切り上げて図書室に入った。

 カウンターでひとり待機していた殊久遠寺へ無事に本を返却できて、今回は自力で増岡に読んでもらえそうなタイトルを探すことにした。


 クレヨン王国シリーズ……? アニメもやってたけど女子っぽい……? たしか戸上も読んでたし。

 エルマーの冒険……? 俺がタイトル知ってるくらい有名なやつやから増岡だってもう読んでるかも……?


 難しそうな本がいいよなぁ……と、まずは分厚さを基準に背表紙を流し見ていく。奥の棚へ奥の棚へと足を運び、手を取ったのが“ファンタジー/単行本”の棚の『精霊の守り人』だ。もしかしたら既に読まれているかもしれないし、押しつけかもしれないが、ワクワクさせられる表紙に惹かれたからにはこれを借りるしかないだろう。


 よし、借りよう。と、振り返る。


「うおっ」


 幅屋は肩を跳ね上げた。真後ろに殊久遠寺が立っていた。


「……どうしたん?」


 彼女は冴えない顔をして視線を落としていた。


「……化かされたらいけないんだもん」

「え?」

「だからぁ……化かされたらいけないんだもん」


 くしゃりと今にも泣きそうな顔をして静かに地団駄を踏んだ。


「気づいたからホントは郡司くんに言おうって思ったけど迷惑になっちゃうから……でも幅屋ならどうなったっていいんだもん……」


 そんなことを言われて、どう反応するのが正しいのか幅屋はわからなかった。少なくとも彼女が何かを訴えようとしていて、具体的には説明できなくて、非常に困っていて、戸惑いを隠しきれていないのは理解できた。


 幅屋は【祟り目】のピントを彼女に合わせた。いっしょに泣いたり笑ったり、困ったり。まずは感情を共有することが大事だと考えた。


 いつも誰かを傷つけていた事実から目を背けてはならない。前向きに自分を否定する。そんな一風変わった自尊心が備わった幅屋にとって【祟り目】は自身の一部であり、信頼に値する力だ。

 しかし、怪力の悪化が止まって調節が自在になったからといって、能力が格段に向上した訳ではない。


「見えない……?」


 殊久遠寺は唇をぷくりと尖らせて、しゅんと縮こまった。がっかりされたと見て取れて、期待に応えられなかった幅屋は「ごめん」と謝った。


「タヌキ大魔神と関係あるんやんね?」


 殊久遠寺は「たぶん」と上目づかいで自信なさげにうなずく。涙鬼の右目にいる鬼は感知できたのに、タヌキ大魔神の気配はかすりもしない。


「そいつは良くないやつなんか?」

「わかんない。良くないやつだったらイヤだから、誰にも言いたくなかったんだもん。でも放置も良くないんだもンン……」


 彼女はまた地団駄を踏む。葛藤に苛まれていたらしい。


「うん……なんていうか、せっかく頼りにしてくれたんに」

「まあ、別に、いいよ。だって果たし合いするんでしょ?」

「え、なんで知ってんの?」

「うわさになってるもん。割り込みはよくないし」


 また馬鹿なことをしでかそうとしていると周囲に警戒されているのだろう。半日も経たずして話が出回るとは、自身の悪名高さに幅屋は感心すら覚える。要領が悪いと言うべきか、元はといえばクラスメイトの目がある前で果たし状を書かせた自分が浅はかなのだが。


「加賀を助けたら、今度はお前の困ってることどうにかする」

「正直期待してないけど、予約するもん」

「うん、予約な」


 とはいえ、タヌキ大魔神の存在を感知できるほどの眼力がなければ、タヌキ大魔神が抱えている感情を見破れなければ、困っている彼女を助ける資格がないのだろう。幅屋は望み通り、殊久遠寺と同じくらいに困り果ててしまった。


「あ、そうだ。高矢にも頼んどくよ」


 殊久遠寺は「高矢?」ときょとんとする。


「言えばあいつも手助けしてくれるはずだし」


 彼の【粗探し】ならもしかしたらと思ったのだ。

 殊久遠寺は「ウーン」と下唇をツンと尖らせて首をひねった。


「ウン? なんか不服っぽいな」

「だって……こわいんだもん」

「こわい?」


 俺とふつうにしゃべってるのに?

 幅屋は変な奴だなぁと思った。


「高矢はワコに何かしたことないんだけど、たまににらんでるもん」

「じゃあにらむなって言っとく」

「いーよそんな余計だもん」

「そうか? まああいつの顔が怖いのは今に始まったことじゃねえしなぁ。もしかしたらなんか言いたいことあるんじゃないんか?」

「チビだなぁって?」

「そうかもしれん」

「プーン」


 殊久遠寺は頬をぷくっと膨らませた。もし高矢が彼女をにらんでいる姿を見かけた時には【祟り目】で感情をチェックしてみよう、と幅屋は心の片隅にとどめておいた。

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