千堂涙鬼はお詫びを受け取るしかない
五分程度であっさり戻ってきた幅屋と高矢に、教室に残っていたクラスメイトは様々な眼差しを向ける。和やかになりつつあったのだろう空気がたちまち無下になる。しかもよく見れば幅屋の左頬が腫れているではないか。
当然やったのは高矢以外にいるはずがない。それだというのに険悪なムードはまったくない。それどころか、ここのところ人の顔色ばかり気にしているような印象だった幅屋が、妙にやわらかい顔つきになっているような。
つい最近まで暴君だった彼の動きに気をつけようと、これまで様子をちらちらうかがっていた子であればそれに気がついただろう。とはいえ、なぜ高矢に殴られていながらそうなったのかまでは想像しようにも答えは導き出せた子はいない。
あずまは今にも話しかけたくて涙鬼のそばでうずうずしている。生き物係の活動をする以外では無視してほしいという幅屋の希望を無視できなくて葛藤しているようだ。
幅屋は小さな鼻息をひとつして、ずんずんと涙鬼の席へと向かう。無下になった空気にどよめきがわずかながらに走った。
「千堂、頼みがある」
仁王立ちで見下ろした。涙鬼は「何だ?」と怪訝に見返す。目線は“疑問”だが声音は挑戦的だ。場合によっては抵抗して、やり返してやろうという魂胆なのだろう。あずまも目線は“驚愕”だが表情は明るい。話しかけられるきっかけができたという腹なのだ。郡司は動く気配がなかった。
「また千堂くんをいじめるの?」
戸上が厳しい声で咎めてきたが構っている暇はない。休み時間が終わってしまう前に幅屋は用件を切り出そうとして。
「あっ、圭太郎くん。その目どうしたの?」
と、あずまは幅屋の右目の瞳孔の異常に気がついた。
「ああコレ。【祟り目】だ」
「たたりめ?」
「でも医者に見せたらだいじょうぶって言われた」
「ちゃんと見えてるの?」
「見えてる」
あずまは安堵の表情を作ったが、頬が腫れているだけに不安気だ。
「それよりもだ。俺は果たし状を書いてほしい」
「果たし状?」
涙鬼は眉をひそめた。「何それ?」と、きょとんとするあずまには「決闘を申し込む」と答えてやる。あずまは目を白黒させた。戸上は毒気を抜かれたかポカンと口を開けている。
「千堂は習字うまいからな。俺はへたっぴだから代わりに書いてくれよ」
「一体誰と戦うの? だめだよケンカしたら」
「加賀を助けるためなんだ」
あずまは口をつぐんだ。あまりにも幅屋が真面目な顔つきをしていたからだ。なんだか瞳が澄んでいるようにも見える。
「誰だそいつは」
「ハシタショーの奴でさ。七人寄ってたかってそいつをいじめてんだ」
「……お前が助けるのか?」
涙鬼は未知の存在を探るかのように“疑問”を強めた。
「うん。いじめっ子の風上にも置けない奴らだから」
幅屋の後ろで適当な机の上に腰かけていた高矢は、何言ってんだコイツと言わんばかりの白い目で彼の後頭部を見た。涙鬼も同様の表情をしている。
あずまは浮かれた調子で問いかけた。
「それって圭太郎くんはいじめっ子をやめたってことでしょ?」
「え? ううん、やめてない」
「えっ?」
あずまは困惑した。これも冗談で言っているようには見えなかったのだ。
「最初はやめようって思ってたけど、やめた」
「なんで……?」
「なんでって、向いてないから」
「えっと……俺は向いてると思うけどな」
「そう思ってんのお前だけやぞ」
「そんなぁ」
「とにかく俺は加賀をいじめてる奴らをボコボコにしようって思ってるから、その覚悟をそいつらにしてほしくて果たし状を書く」
「なる、ほど……?」
「まあ果たし状の言い出しっぺは高矢だけどな」
「へぇ……」
まん丸とした目を向けられた高矢は「こっち見んじゃねぇ」とにらみを利かせた。あずまには効果がなかった。
「おい、時間ねぇだろーが」
高矢は貧乏ゆすりをして幅屋を急かした。
「ああ、ごめん。そんで書いてほしいんだよ。お前一番字ィうめぇから」
幅屋は証拠として教室の後ろに並んでいる習字の授業の『若草』を指さした。ズルしただろといちゃもんつけたくなるくらいに涙鬼が書いた『若草』はずば抜けていた。名前さえ書いていなければ先生の分も掲示されていると勘違いしてしまいそうになるほどに。
「俺ヘタクソだからさ、それだと様になんないっていうか、舐められる思うんだよ。達筆だとさ、強そうに見える」
涙鬼が“困惑”したので、ちゃんと自信を持ってほしかった幅屋は「ウン、な? お前はすげぇ字がうめぇ。書道の先生になれる」と力説した。ますます“困惑”されるだけだった。
「……習字セットで書けってことか?」
「あーいや、準備が大変だから、筆ペンで書いてほしい」
幅屋はバタバタと自分の席に戻り、筆ペンと用紙を用意した。
「はい。これでこれに書け」
明らか未開封の、毛筆タイプの万年筆を机に置かれて、涙鬼は眉をひそめた。
「万引きしたのか?」
「ん? 朝、文房具屋に寄って買った。筆ペンの方がかっこいいって思って。なんか色々種類あったけどさ、どれがいいかわかんなかったからとりあえずコレにした」
「……そうか」
当たり前のように疑って挑発したにもかかわらず、大した反応も示さずに淡々と受け答えされてしまい、涙鬼はいよいよ目の前の人物が幅屋圭太郎本人なのか怪しく思えてきた。幅屋からすれば万引き常習犯だったのは高矢の方であるため、逆上する理由には至らなかっただけなのだが。もしも『カツアゲしたのか?』と問われていたならばそれなりにショックを受けていただろう。何にせよ、ちゃんと買ったのだという事実が涙鬼を惑わせているのである。
「そんじゃあ言うぞ。言ったとおりに書けよな――“九日の午後五時、中途半白藤の公園にて三対三の決闘を申し込む。”」
幅屋は腕を組み、返事も待たずにしゃべり始めた。涙鬼は戸惑いを隠せないまま、拒否したい気持ちも忘れて紙に筆を走らせていった。
「“相手は六年生の春日井、岩本、藤堂を指名する。”――あっ、春日井は春夏秋冬の春、お日さまの日、井戸の井。岩本は岩、読む本。藤堂は藤色に千堂の堂だ」
「……で?」
「“こちらは加賀、幅屋、高矢で挑む。正々堂々の真剣勝負のケンカなので、始まる前の先制攻撃や終わった後の逆襲は絶対にやったら駄目である。もし俺たちが勝ったら二度と加賀をいじめないことと、他の子をいじめないことと、親と学校にチクらないことを誓うべし。もし破ったらとんでもないことが起こるので気をつけてください。菜の花小学校代表 五年二組 幅屋圭太郎”――以上!」
教室は静まり返っている。誰しもが果たし状の内容に耳を澄ませていた。
「……とんでもないことって何だ?」
言われたことをそのとおりに書いた涙鬼が純朴にたずねる。
「さあ、なんとなくそう言っといた方が、ぽいかなぁって思っただけ。呪いの手紙みたいな感じ」
黙って聞いていた高矢は何とも言えない表情をしている。
「ケンカで解決しようとか、バッカみたい!」
戸上は非難を浴びせ、憤然と物音を立てて次の授業の準備をし始めた。
「たしかに俺は、バカだ」
腕を組んだまま、幅屋は『若草』を眺めながら言った。
「やっぱり本当に頭がいい奴は、悪いことをしないと思う。たまに頭よさそうな人が逮捕されてるニュース見るけど、やっぱり頭が悪いから悪いことをして捕まるんだと思う。本当に頭がいい奴は、いい奴だから、悪いことをしようって思わないし、頭が悪い奴はそれが悪いってわかってないし、わかる奴がいても、悪いことをしてる時点で頭が弱いんだと思う。俺は頭が弱い!」
戸上に学校に来るなと初めて面と向かって敵意を突きつけられて以降、どんなに敵視を向けられても一度も彼女に対抗せずにだんまりを決め込んでいた幅屋。それが突如として、反論ではなく同意したのである。自ら積極的に自分は弱いと認めてしまったからには、その場のクラスメイトは否が応でも彼の心境の変化を感じ取るしかない。目の前で持論を広げられた涙鬼は呆気にとられ、戸上も何と返していいのかわからず唇をわななかせている。高矢は「何をえらそーに語ってんだよ」と冷ややかだ。
「でも、加賀っていう子を助けたいっていう気持ちは、いいことでしょ?」
「いいかどうかはさておきで、毒を以て毒を制すってやつだ。俺は“どくタイプ”になる」
「どくたいぷ?」
「“くさタイプ”と“むしタイプ”に強くて、“エスパータイプ”と“じめんタイプ”と“むしタイプ”に弱い」
「あっポケモンだ! 俺ポケモン知ってる!」
あずまは満面の笑みで体を上下させた。クラスメイトのひとりが「“金銀”だと相性変わってるよね……?」と漏らしたが、ふたりにははっきりと届かなかった。
残りわずかの休み時間をふたりで盛り上がろうとして、涙鬼はムッとする。
「幅屋。この文章は文体がばらばらでおかしいぞ。ちゃんと統一しないと駄目だ」
「うっ、いいんだよ! それが俺の言葉なんじゃ!」
「だったら自分の字で伝えればいいだろう」
「ぐ。それとこれとは別腹なんや。代わりに書いてくれてありがとうな」
立派な書体で書かれた果たし状のできに幅屋は満足してランドセルに入れた。涙鬼は「おい、これ」と置き去りの筆ペンをつかんだ手を伸ばす。
「あ? ああそれ、やる。書いてくれたお礼」
涙鬼はまたしても“困惑”する。彼だけでなく周囲が“困惑”の色で、幅屋は腕を組み直して頭をかしげる。
「いやだから。それ字ィがうまい奴が持ってるべきちゃうんけ。俺は汚いからいらん」
「……練習すればいいだろう?」
「えーじゃあ……前にお前の筆箱の中身、ぜんぶ捨てたことあるやんか。それのお詫び」
涙鬼は筆ペンの空箱の裏を見た。適当に選んだにしては、小学生のおこづかいでは買うべきではない値段のシールが貼られている。だからこそ余計に万引きしたに違いないと思ったのだ。
「……そうか」
これまでの謝罪をして回っていて、弁償も約束しているという話である。しかし涙鬼は自分にもそれが適応されているとは微塵も考えていなかった。直近でいじめられていたのは自分なのに、真っ先に謝ってくれるどころか距離を取られたのだ。許すも許さないもこっちの自由だが、その権利を心置きなく施行するには幅屋の謝罪は絶対条件であり義務であるはずだった。
心境の変化は確実だ。その要因が“祟り目”にあるのか、たずねてみようにも場所が悪かった。高矢が幅屋の背後で一瞬見せた反応からして、彼は“祟り目”について知っているのだろう。家に泊まったあの日に、父親か祖父か、誰かしらから聞かされるタイミングがあったに違いない。問題は聞かされた話をそのまんま幅屋に伝えているのかどうかなのだが。
怪力は目にもらいやすいというのは涙鬼も常識のように教わっている。いつの間に幅屋はもらってしまっていて、“祟り目”になってしまうまで追い込まれてしまっていたのか。
いや、高矢と一旦教室から出ていく直前まで顔色が悪かったというのに。帰ってきたら血色が良くなっていて、祟りから脱却しているのは明白。幅屋の右目のそれは“祟り目”ではないのだ。
だから、いくらこっちが許さず憎み続けようが、幅屋はすんなり受け入れてしまえるのだろう。息をするようなさりげなさで筆ペンを贈ろうとしたほどに。それが涙鬼には納得できなかった。
絶対に許すことはない。ところが邪心が一切感じられない態度でお詫びだと言われてしまえば、コレをもらってしまうしかないのである。
いっそのこと幅屋をまねて目の前でゴミ箱に捨ててやることもできたはずだ。きっと戸上もざまあみろと言わんばかりに称賛してくれただろう。でもあずまに「よかったね」とニコニコと言われてしまって、モヤモヤしたまま筆ペンを筆箱に入れざるを得なかった。