悪鬼③~高矢孝知は謝りたくない~
少なくとも正気ではなかった。怪力はメンタルを狙っていると自分で説明したばかりだ。
悪鬼の寝言が高矢のメンタルを一掻きした。高矢が感染している怪力がそれに乗じた。
ずっと定丸に、タラ福に一矢報いたかった。奴の事情が単純だろうが複雑だろうがどうでもいい。肉体を乗っ取られたことが悔しくて、涙鬼に負けてしまった上に助けられたのが悔しくて、このわだかまりにケリをつけたかった。そんな機会は訪れることはないと思っていた。
するとどうだ。あのこんちくしょうが幅屋に“弱点”として取り憑いているではないか。定丸がただの人間ではないと薄々気づき始めていたくせして未だに女々しく未練を抱いていたクソデブにも苛ついたが、どうやってヤツを引っぺがしてぶっ殺してやろうか頭を悩ませる日々だった。
自分が感染している事実は千堂魁次郎の口から告げられたものであった。自分で自分を祟らないように、正気を保たなければならないのだと教えられた。
加賀重豊の存在を知った時は興味深かった。自衛のために自ら呪いをかけるなんて正気ではない。矛盾している。
あれはかなり年季の入った呪いだ。実際あの男は老人になっても無事でいて、自衛は奇しくも成功している。が、後悔ばかりの虚しい人生に違いない。
生き方を間違えれば命を蝕む怪力だが、高矢は相手の弱点を知ることができるこの力はどちらかといえば好ましく思っていた。
たとえば日比谷あずまは元々クソデブよりも劣悪な性格をしていたが矯正されたらしい。高矢は意外過ぎて信じられなかったが、真性のいい子ちゃんではなく大人の手で作られたものだったと知って、どおりで日比谷の言動はイラつく訳だ、と最後はすとんと腑に落ちたのだ。
もしこれを千堂にバラしたらどんな反応をするだろう、と興味が尽きない。弱点を人知れず握るのはおもしろい。
問題なのは、弱点を知ったところでどうにもならないことがある、という点である。それが高矢自身の弱点でもあるのだろう。例えば敵の弱点は膝だと知って、膝を狙えなかったら意味がないし、例えばピーマンが死ぬほど苦手だと知って、わざわざ用意して口にぎゅうぎゅう詰めにするのは暇人がすることだ。
この【粗探し】の弱点は、幅屋が定丸を追いやって悪鬼を飼い始めたことで浮き彫りになった。どうやらこのブタは目が覚めて、ワルガキだったことを後悔して反省して、だからまともな人間になったのだと信じているらしい。自分が日比谷あずまに感化されて眼鏡を弁償したいと思ったそれは認めたくはないが本物だし、ブタが増岡の家に通うのを決めたのもいい心がけだと思う。
それでも、はたしてそれで自分たちはまともになったのかと問われれば正直言って反吐が出る。人格が矯正された訳ではないのだ。同じクラスになってしまったのはもう変えようがないが、高矢は極力あずまと涙鬼に近づきたくないと思っていた。和解できるはずがないし、手のひらを返したみたいでダサすぎる。
いっそのこと最後までワルガキを貫けばよかったじゃないか。饗庭はもう放っておいて、日比谷のことも無視してやって、ふたりでつるんでいりゃあよかったじゃないか。
もう誰かを狙わない。それだけで充分だったじゃないか。余計な真似をするからややこしくなったんじゃないか。
下手にいい子になろうとするから、理想と現実との差に苦しむんじゃないか。幅屋お前は、ワルガキの方が性に合ってんに決まってる。もうそのイメージが定着してんだから諦めようぜ。
そう宣告してやるのは容易だ。でも言うのを我慢してずっと様子を注視していたのは、そう、いつか自分で心変わりして、また女々しく定丸を呼び戻してくれるんじゃないかって期待していたからだ。それなのにあのデブは。
寝言は寝て言え。デブはデブらしくふんぞり返って脂肪の塊を揺らしてりゃあいいのだ。ブタはブタらしく醜く鼻を鳴らして笑っていりゃあいいのだ。なぁにが、元気があればなんでもできる、だ。ずっと腹をぎゅるぎゅる鳴らしてんの耳障りなんだよ。
常軌を逸した脳波だったのか。電流で揺さぶられた頭蓋骨。衝撃は首から肩、肩から腕、拳へと強引に連動させた。眼球の奥底に置かれていたはずの力までもが四肢へと押され伸ばされていった。
既に幅屋への【粗探し】は無意味のはずだった。既に“弱点”である悪鬼の存在は確認できていて、他に何を探せというのか。つい昨日、胃袋から取り除こうと思ったはいいが悪鬼に触れることは叶わなかったではないか。それとも、つい見逃してしまった隙間があったのか。焦りすぎて、気が動転していて、だから失敗したのか。
だとすれば、この瞬間は何だったのか。感染が目から拡大してしまったのは、自分のメンタルの弱さのせいなのに。
胃袋という鉄壁の防御があったのだ。それなのに。
幅屋と、奴の胃袋の中で胎児のように丸まっている悪鬼とが。狂ったのだ。映像の遠近感が。
いつもは幅屋の映像の後ろに悪鬼の映像があって、それを透かして同時に見るか、切り返して見るかだったのだ。
それが、まるで悪鬼の映像の後ろに幅屋の映像が透けて見えたのだ。手前から悪鬼、胃袋、幅屋の順に層がわかれ、悪鬼は幅屋の胃袋よりも大きくなっていた。
悪鬼が薄らと目を開けた。同じ土俵に立っていると気がついた。ならば、高矢はこの時どこに立っていたのか。すべては“バチリ”の一瞬のことだった。
丸め込んでいた、枯れ枝のようにしなびた体を悪鬼は伸ばした。ぱきり、ぱりき、とひび割れた肌がめくれ逆立っていく。内側の真新しい乳白色の薄皮もぷつりと切れて、紅色の貴重な血肉があらわになる。
ウーンと間延びした鳴き声。胸骨が波打つ。骨と皮だけの痩身長躯の脚を一歩、内股に大きく進ませると、純白に光り輝く細い腕が背後からどこからともなく伸び、しなやかに抱きしめられた。
よしよし、いい子よ、と。光の手が我が子をあやすように悪鬼の頭を優しくなでるのだ。しかし、悪鬼はそれを払いのけた。光の手が粉々に砕け散った。
『ドウシテ オレヲ シンパイ スルノ?』
『ドウシテ オレニ ヤサシク スルノ?』
『ジヒハモウ イラナイ』
胸骨が波打ち。悪鬼は仰ぎ。首を直角に折り曲げて涙する。
顎が外れ。喉が隆起して。口から無数の目玉がひり出されていく。口から産卵された目玉は足元で形崩れ山になっていく。
『オレッテカワイソウカ?』
悪鬼の首がねじれ、高矢に向かってニタリと。繊月の笑みを見せつけた。これは悪夢か。
『オギャギャギャギャギャギャギャギャッッ』
高矢は床を蹴った。悪鬼は目玉の山を蹴って飛び退いた。高矢は目玉の雨を払いのけ追いかける。無我夢中だった。
悪鬼はけたたましい笑い声を上げ続けている。細長い両足を一つにねじり、元に戻ろうとする反動で上へ上へと飛んでいく。
高矢も、飛んだ。
「元気があればなんでもできる!」
光の手が次々と踏み台になって現れて、彼の足の裏を押し上げては消えていく。
「いち!」
逃げるのをやめた悪鬼の体に無数の切れ目が入った。
「に!」
切れ目が開き目玉が一斉に高矢を見た。高矢が力強く足を踏み込み跳躍するたび、光の手も力強く持ち上げた。
「さん!」
目玉は鋭利な刃物になった。剣山になった悪鬼は体を丸め、ゆっくりと高矢に目がけて落ちていった。
高矢は力の限り叫んだ。弓を引くように腕を振りかぶり、本来は幅屋を死に誘う役割をしていた剣の塊へと飛び込んだ。別に覚悟した訳ではなかった。彼にとってそれが瞬時に導いた最適解だった。
光の手が背中を押した。高矢はぎゅっと目を閉じた。
「ぶぎゅうッ!」
ブタが鳴いた。幅屋が頭を戸にぶつけて尻餅をついた。
「いてェーッ! 急になにすんだよォーッ!」
幅屋は頬を押さえ、のたうち回った。
「チョーいてぇ……!」
ボタボタと涙を落とし光らせた。床にこぼれた涙の結晶は音もなく蒸発していく。
「なんで自分を大事にしねぇのって、まずお前に大事にされてねぇッ! 答える前に即殴るってどういうトラップなんだよッ!? 短気にもほどがあるやんけ!」
買い物客でたまに見かける子どものように足をばたつかせた。
「ヒーッ、ちくしょう! うったえてやるゥ!」
フゴフゴと息巻いて、へそを曲げ、横向きにうずくまった。
「……悪かったよ」
高矢は無愛想に見下ろした。
「態度悪いぞ」
「だから悪かったつってんだろ」
「いたいいたいいたいやめてごめんてもうやめてあやまってくれてありがとう! ね! ね!」
脇腹をぐりぐり踏まれた幅屋は懇願した。涙目でありながら、憑き物が落ちたみたいに晴れやかな顔色をしていた。