幅屋圭太郎は心配されたくない
右目の充血と顔の腫れは一晩の氷嚢のおかげである程度引いたようだった。幅屋は顎の大きな絆創膏をはがしてから顔を洗い、新しい絆創膏を用意した。
日比谷になんか言われたら転んだって言おう。
幅屋はあずまの優しさを思い出して心がむず痒くなる。唇をモゴモゴさせて、頬を叩く。日比谷は千堂のことだけ優しくしてればいいんだ、とほだされかけつつあった心に叱咤する。
洗面台の鏡に映る少し背中をそらせた自分の顎を下目づかいに、絆創膏を貼り直して、顎をなでる。ふと、目を合わせる。絆創膏の大きさにばかり気がそれていたが、よくよく見てみると、右目の瞳孔が朱色になっている。
この朱色は……“怒り”ではないか。まさにあの瞬間、高矢の“怒り”が瞳孔に焼きついてしまったのだ。
これは治るのだろうか。眼帯をするべきなのか。いや、それは涙鬼を愚弄することになりそうだ。
……まあ、そんな目立たんだろう!
自分の顔なんか凝視する奴なんてそんなにいないだろうし、指摘したい勇気のある奴は尚更だ。そもそもこの変色は普通の人に見えるのか。実は見えないかも。なんて、幅屋は気楽に考え始める。もし高矢には見えたとして、ちょっぴり心を痛ませるかもしれないが、失明はしていないのだから何も問題はないはずだ。笑い飛ばしてやろう。
母親のお仕置きが続いていて朝食もいつもより少なかった。以前に父親の珍しい心配で食事の量を減らされていたのがさらに減っている。まあ、どうせ学校に着いたら吐き出すので逆に多くなっていようが関係なかった。
「おい、またやせたんじゃないか?」
指摘してきたのはまたしても父親だった。いつも新聞紙を広げて朝から顔を合わせようとしないのに。視野が広いのだろうか。圭太郎は「ダイエットしてんねん」と自然に受け答えをして食卓に着く。悪鬼をぶくぶくと太らせて住処を広げたくなかったし、別に嘘ではなかった。
「食欲がないのと、ダイエットがしたいのとは別だ」
「今は、ダイエットしたいの」
「無理すると倒れるぞ」
「だいじょーぶ」
心配されるのは何だか慣れない。圭太郎は心がゾワゾワするのをごまかして、軽く受け流しながら朝食をバクバク食べる。
すると、本当に“心配”が顔をくすぐってきた。まだうまく調節ができていないのか“心配”が強いのか。
父親は新聞紙から顔を上げてじっとこちらを見つめていた。真正面から父親の顔を見たのはいつぶりだろうかと圭太郎はぼんやりと思った。
「その目どうしたんや」
圭太郎は息を詰まらせた。
「今日、眼科行って見てもらえ」
「でも、学校あるし」
「んなもん……んなもん、休めばええやろがい。予約して行け」
予約は勝手にやれと。また新聞紙に顔を沈めた父親に、圭太郎は苦笑いするしかなかった。
その時、電話が鳴った。対応した母親が子機を手に険しい顔を出す。
「圭太郎……ッ。あんた先生から電話……ッ」
声を潜めて手招きされた。子機を受け取って廊下に出た圭太郎は耳を傾けた。相手は学校の先生ではなかった。
『俺だ』
「え、おじいさんっ? あれっ?」
『フン! お前の母親には菜の花小学校の教師だと名乗ってある。だからお前もそういうテイで話を聞け』
「う、うん。わかった、せんせい……」
ゴールデンウィークは初めてできた友だちである加賀の家に通うと、あらかじめ母親に報告していたのだが。
『フン! 馬鹿正直に名乗ってみろ。茂と殴り合ったのかと勘違いされたらどうするのだ』
受話器越しに胸の内を読み取られて、幅屋は思わず納得してしまった。そういえば、新しくできた友だちとさっそくケンカしたのかと疑われなくてよかった。両家族との話し合いが勃発して加賀老人が拒絶されでもしたら。幅屋の頭の中で最悪の展開がぐるぐると繰り広げられた。そして些細なことにも気を使ってくれたおじいさんに感謝したくなった。
「あ、そ、その……ありがとう……」
わずかな間があって、加賀老人はさらに大きく鼻を鳴らした。
「えっと、それで、なんで電話したんですか……?」
『もうひとりのガキから朝っぱらから電話があった。茂との約束に遅れが出るかもしれないんだろう?』
「エ?」
『しらばっくれるなッ。負傷しているんだろう?』
ふしょう……フショウ……。
幅屋は一瞬何のことかわからなかった。
「ああ、えーっと。転んじゃって……」
『みてやる』
「へ?」
『今日もこっちに来い』
「あ、じゃ、じゃあ学校の帰りに」
『ふざけるなッ。俺は暇じゃないんだ。予定が入る前に今すぐ来い!』
半ば一方的に通話を切られて。ゴールデンウィーク中は暇だったんだなぁと幅屋はぼんやり思った。
そのまま学校にも行けるようにランドセルを背負っていく。まさか果たし状を用意する前に館にもう一度訪れることになるなんて。その道のりでちらちらと顔に視線をもらったが、赤の他人なだけあって“心配”は一本もなかった。
視線が見えるようになって人の非情さ、あるいは無関心というものを知ったが、見えてよかったと思える瞬間もある。
「こっちだ。ここに診察室がある」
相変わらずこの世のすべてに威嚇しているような顔で気難しい態度を取っているのに。暴力的な眼差しからは“心配”の色が強く発せられているのだ。彼ほど矛盾した男はいるだろうか。
「あの、加賀……茂くんは学校に行ってるんですか?」
「休めば虐待を疑われる」
たちまち“悲しみ”の色を放つ。
「どうすれば呪いは解けるんやろう……」
「俺のことよりも茂のことをどうにかしろ。早く座れ愚鈍なガキめ」
診療所の丸椅子にしては高級そうな布地が張られている家具にそっと腰かけた。さすがに押しつぶして壊すなんてことはないが、申し訳なくなってくる。錠前がついた薬品棚に目が奪われたことで余計に恐縮してしまう。
「よく見せてみろ」
「え、あ、ちょっと待って!」
幅屋は慌てて腕を突っ張った。加賀老人は「なんだ」と不機嫌そうだ。
「その、調節したくて……」
「調節だと? できると聞いているが外出前にしていないのか? 命知らずの愚鈍なガキめ」
「え、あ、いやぁ、弱めてはいるんやけど、この、近さやとちょっと……」
そわそわと手を触りながらしどろもどろに言い訳をすると、またしても鼻を鳴らされて「難儀なガキだ」とぼやかれた。“拒絶”の呪いも難儀だろうと思ったが、言わずもがな。
「どいつもこいつも目にもらってしまうとは。それが流行しているのか?」
傷薬を塗られて、改めて顔の状態を確認されて出た言葉である。幅屋は「そうなんかなぁ」と適当に相槌を打つ。
「魔力が発症すれば、二種類の人間に分けられる。自覚がある奴と、そうでない奴だ」
「自覚?」
「魔に蝕まれているという自覚だ。生存本能とも言える。本来は体内にあるはずのないものだからな。特別な力を扱えるようになったラッキーなどと能天気に考えていると足元をすくわれる」
「はぇ……」
力を放置していれば近い将来死ぬだろうと何となく想像していたが、正常な判断だったらしい。
「この程度の見た目ならコンタクトでごまかせばいい」
「コンタクト? 別に視力は」
「色のついたコンタクトだ。ただし、つけたら暴力沙汰から完全に縁を切れ」
「なんで?」
「コンタクトがずれて目が傷ついたら今度こそ失明するぞ」
加賀老人のごもっともな警告はありがたく聞き入れるべきなのだろう。それでも幅屋は「じゃあ、つけたくない」と申し訳なさに委縮した。叱ろうとしたのか口を開きかけたのを止めるためにすぐさま理由も付け加える。
「やっぱりそのぉ! 俺にしかできない助け方って、あると思うし……」
加賀老人は口を閉ざす。
「ほら、あの、なんて言うんだっけ……えっと、あの、そう、きれいごとって言うんかな。ホントはケンカとかよくないんだけど、でも、話し合いとかで解決できないから、茂くんは今たいへんなことになってるから、だから……」
こうして悠長している間にも華奢な加賀茂は狙われているのだ。花の茎をぽきりと無邪気に折るように。それが悪いことだと微塵も感じずに。遊び半分で踏み荒らされている。
「毒を以て毒を制すか?」
「そう! ぇ……そう?」
知らないことわざ出されてピンと来なかった。
「お前の意見はわかった。必要悪になりたいというなら俺は止めん。その代わりお前はひとりだ。誰もお前なんぞに手を貸さん。誰一人味方にはならん。誰かに頼ったり泣きついたりが一切できん。それでもいいなら勝手にやって、ひとり勝手に破滅していくんだな」
ここまで言われて、それでも傷つかなかったのは“心配”の膜が張られているのが薄く見えているからだった。いや、自分のためにここまで心配してくれるのがしんどくなってくる。いくらなんでも心配し過ぎではないか。こんなに心配してもらえるほどの価値が自分にあるのか。払いのけたくなるくらいに幅屋は悲しくなった。
「もしちゃんと茂くんを助けることができたら、今度はどうやったらおじいさんの呪いが解けるのか考える」
「何?」
「どうしたらいいのか全然わかんないけど。俺バカだから。でもバカだから、悩むのだけは得意」
震える“心配”の膜。色が変わって“喜び”になった。
「……とにかく飯はちゃんと食え。吐き戻しているんだろう? もうひとりのガキから聞いた」
高矢の“監視”がここで効いてくるなんて。それとも“粗探し”で見えていたのだろうか。
「でも悪い鬼が」
「健康でいること、免疫力を高めることが自分の体を守る何よりの方法だ。わかったな。お前は自覚がありすぎて逆に諦めてしまっている状態だ。ガキのくせして一人前に諦めが肝心だと思っているのか? フン! 勘違いも甚だしい、まるで虫けらのようなガキだ」
また“心配”に戻ってしまう。本当に心配してあげなければいけないのは増岡たちなのに、自分ごときが心配されるのは、今の幅屋にはきつかった。