余談~みさ子の結婚相手について③~
爆走。
これに尽きた。
夜へ急ぐかのように深紅のフェラーリは境区の街を行く。
僕は年下でまだ高校生であったが男女二人きりドライブである。まあ、監視の目はあったのだろうが。恋人の方には何も告げていないのかと、助手席に乗り込まざるを得ない時に一応尋ねてみたが、「彼のハートは豪快なの」と未来の“新・トラの足”の夫の器量は計り知れなかった。
走り屋の寅子さんは交通量を把握しているらしい。のろのろ走る邪魔な車もなく、時に道をするりと魔法のように譲られて、赤い信号とぶつかるまで速度が落とされることはなかった。
エンジン音と海外のロック音楽のけたたましさに胸と鼓膜が破裂しそうな気分だった。まさかこんなロマンチックに程遠い状態で恋人とランデブーをするものか。ラジオを聞きながら海辺沿いを走ってうんぬんと、うっとりしながら言っていたではないか。
僕は唖然としながら、彼女の真っ赤なマニキュアが光る手元や、黄色のセンターラインに視線を落とした。将来的に車を買うとしても左ハンドルは選ぶまいと、気味の悪い乗り心地がした。
ドライブ中に話をする気は毛頭ないのだ。声をかける気分にはならなかった。ヘッドバンキングでもしてくれていた方がまだマシだった。赤信号の明かりに照らされた無言の横顔は狂気染みて浮世絵のように美しかった。たとえスピード違反でパトカーに目をつけられたとしても、トラの尾を踏まれたとばかりに威光を爆発させる危険性も孕んでいるように見えた。
青天高等学校らしき屋上が街路樹の向こうに見えた。青天も境区にある故に、琥将もそこへ進学を決めたのだろう。
誰が言い始めたのか、境区には夢があり、自由があるという。未だに埋め立ての計画は進んでおり、泰京湾から生えるクレーンが夜を突き刺していった。
未完成の南大藤ジャンクションをあっという間にくぐり抜け、フェラーリは海浜公園の駐車場にて停車した。
エンジンが切られ、しん、としたらしたでこれからどうなるのかと不安という名の牙が首筋にひたりとさせた。
僕はおとなしく寅子さんの後を追った。
「ムカついたことがあるといつもここに来るの」
潮風に髪をなびかせて、寅子さんは一服をした。火はほのかに点滅し、風力発電のプロペラを眺めながらうまそうに煙を吐いた。
「境区ってさ、まだ四家のどこにも割り振られてないのよ。元々埋め立ての話は潰すつもりだったんだって。土地が広がればそれだけ守りも固くしなきゃならないし、揉めるのは目に見えてるし。白霊山の力だって薄くなるはずよ」
唐突に「これもおごり」と気楽に缶を放り投げられ、僕は慌てて手を伸ばした。ブラックコーヒーだった。
寅子さんはフェンスに両腕を乗せ、タバコを片手にぶらつかせたまま缶コーヒーを飲んだ。
僕も渋々プルトップに指をかけて、コーヒーを口に含めた。くそまずかった。ウッと顔をしかめそうになるのを我慢して、海面が揺らめいているのをにらみつけた。深い紺青色はみさ子さんの瞳を連想させた。
初めて慈悲について知らされた日から早数ヶ月。寅子さんは新たに情報を得ていた。
「どうやら昔、サルが本気で泰天家の娘のために慈悲について研究してたみたいでね、それを藪蛇がかっさらって秘匿にしたみたい。だけど重豊さんが写しの一部を保管していてくれて、それで知ることができたわ。百貫デブはどこから仕入れたのかわかんないけどね」
こうして前置きされて明かされた、原水留金成の思惑。そして僕は改めて上野大國が底知れぬ愚か者であることを思い知ったのだった。
憎き慈悲はどこまでもみさ子さんの人生を弄ぶつもりらしい。強欲な“タヌキの腹”は聖子が存命だった頃から慈悲がもたらす利益に目をつけていたのである。
大前提であったはずの“泰天家の娘は短命”というのがそもそもの間違いであった。慈悲という名の自己犠牲……愛情という名の生命力……。『ヨハネによる福音書』によれば、友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない……だそうだ。それを独自の解釈の元で模倣された、祝福だというのか。
愛する人のために命を捧げることが至福だから、娘たちはみんな満足気に笑みを浮かべてこの世を去ったというのか。娘ばかり命が儚いのは、妻は夫を立てるのが当たり前で、女は出しゃばらないのが当たり前で、女は男のために尽くすのが当たり前で、女は清楚に微笑んでいるのが当たり前で、男は……。
命がけの愛を押しつけられて、男は当たり前のように享受していたとでもいうのか。
いや、これは悲劇だと気がついた者がいたからこそ、泰天家は滅びの道を選んだのではなかったか。
「こんなこと知ったら、辰郎は間違いなく泣くじゃん」
寅子さんは眉尻を下げて切なげに目を細めた。「ねェ?」と、おどけながら煙草を再び加える口角は歪に吊り上がり、煙は潮風に溶けていった。
慈悲は幸運と長寿をもたらす。いや違う。譲ってくれる、だ。
金成の愛人か、後妻か、釜遊弟氏との婚姻か、愛人か。だから金成が釜遊弟氏に化ける可能性を寅子さんはあっさり認めたのだ。
泰天聖子は金成になびかずに上野大國を選んだため、金成は上野家を取り込む方に舵を切ったらしい。
あの男が『エイトチェンジーズ』に足しげく通っているのも、みさ子さんの見合い話も兼ねていたのだろう。妻に似た女の腰を抱いて愛を囁きながら、内心では愛する妻を死なせた元凶の面倒をもう見ずに済みそうでほくそ笑んでいたに違いないのだ。
“慈悲を失わせたいなら冷酷な人間となれ。慈しむ対象をすべて根絶やしに。悲劇を作り出し、慈悲を怨恨に変えればよい。愛を憎しみに。それがお前の愛ならば”
加賀さんのぶっきらぼうな声が脳裏に響いた。
「かっちゃんにとってキツイ話かもしれないけどね。釜遊弟に確認したわ。かっちゃんの命を狙っていたのはタヌキだけど、最初にそれを依頼したのは上野大國らしいわ」
頭が痛くなってきた。
「胸糞悪いったらありゃしないわ。実の娘を売る見返りに上野家に今後の社会的支援を約束させていたって」
頭痛をごまかすためにコーヒーをあおった。むせた。「ちょっとだいじょーぶ?」と寅子さんは喉から苦笑した。
「……大丈夫なわけないじゃないですか」
「よね」
しばしの沈黙が訪れた。小さい風の音を聞いた。