余談~みさ子の結婚相手について①~
一九八一年五月下旬。
その日、琥将は浮かない顔をしていた。アリスが活動停止の記者会見をおこなったかららしい。よくある音楽の方向性のせいである。
まだ猶予はあったが、終わりが定まっていることに奴はショックを受けていた。別に以前からソロ活動していたし、引退する訳でもないのに何が違うんだと思ったが、この考え方は奴には気に食わなかったらしい。
「あのな、もうそろってやらないってことなんだよ。もう集まらないんだよ。それがすげーショックなんだよーああー」
琥将は学校の屋上でゴロゴロはしたなく転がり、ラジカセを女々しく抱きしめた。丸まった肩を魅来さんがなでる様は大きい猫と飼い主である。
「ぜったいラストコンサート生で見るんだぁ。学校さぼるぅ」
「どうせいつか再集結するだろ」
「うううううううううううううううううううううううううううううう」
「うるせー! 甲子園かよ!」
手すりに背もたれ風を心地よく感じていた魁さんが眉尻を上げて声を荒げた。
「うゥ…‥‥ハッ!?」
琥将は『ひょっこりひょうたん島』に出てくる人形のように口をガバリと開かせ上体を起き上がらせた。
「管先輩に占ってもらおうかな。復活してくれるかどうか」
魁さんは「しょーもな」と呆れ顔になった。
「アリスはしょーもなくない」
「自分の立場を忘れたのか」
「忘れてない」
琥将はしょんぼりとして、またラジカセと添い寝した。魅来さんはなでた。
僕たちは三年生であった。管先輩と藤八先輩は既に卒業していて、関与しないと改めて宣告されていた。管先輩は占い師として本格的に活動を始めると言い、一方で藤八先輩は“きつね軒”を引き継ぐために調理学校に通いながら店の手伝いをするらしい。
魁さんは僕たちと同じ青天高等学校に進学した。身体能力の高さから、たとえ“千堂の妹”であっても運動部からの勧誘が絶えなかったが、か弱い姉と無茶をする琥将を守るためにピンチヒッターすら断り続けていた。
ますます体格はたくましくなり、野茨中出身の奴らからも一目置かれ、寅子さん以来の泰京の女帝君臨を囁かれ始めていた。精悍な顔立ちと男勝りの性格と相まって女子からそういう目で見られることもあるようだ。魁次郎さんが思い描いているような形とは異なるにしても、千堂家は忌み嫌われて当然の風潮も人間の間では風化しつつあるらしい。
「いい加減その図体してへなへなした態度になんのやめやがれ。結納は来年だかんね。お前は千堂辰郎になんだよ。タツローおにいちゃん」
つんけん言われて琥将はますます丸くなり、耳を赤くした。魁さんは「生娘かよ」とますます呆れかえった。魅来さんは涼しい顔だ。
結納、といってもこれは正式なものではなかった。琥将の勘当は決まり切っている。琥将家の当代が自ら姿を現して、泰京市のたんこぶである千堂家と取り交わすことはないのだ。これは寅子さんを筆頭とした、四家の在り方として革新的な考えを持った人たちとの顔合わせであり、あくまでも非公式なものとされた。
秘密裏、といっても四家の情報網は馬鹿にできない。“間違いなく”当代が目をつぶっていてくれているからこそ成立できる場であり、過敏に空気を感じ取った寅子さんも唇を噛む思いをしているようだ。
既に琥将を息子だと思っていないのか、恩を売って逆らえなくする魂胆か、どちらにしても腹の虫がおさまらなかった彼女は舎弟と共に愛車を真夜中かっ飛ばし吼えた。なぜ僕がそれを知っているかというと、彼女の女帝としての威厳は未だ学生の間で衰えを知らないということだ。
「なあ……かっちゃん。みさ子さんどうすんの?」
唐突に、琥将は情けない顔を僕に向けた。
「何がだ」
情けない顔のまま、そのくせして真面目な声でこいつは言った。
「タヌキんとこが、みさ子さんを嫁にもらいたがってるって話」
凪いだ。
「……ハ? はぁ~ッ? なにソレ、初耳……っなんだけど!?」
我に返った魁さんは肩を怒らせ、琥将の腕の中のラジカセを引っ張り取り上げてスイッチを切った。
「ハタチになったらって」
「まってまって! すんごい寝耳に水! かっちゃんは知ってた? 知らないね、その顔だと」
魁さんは灰色の瞳をぎらつかせて狼狽し、つま先を琥将の脇腹に食い込ませて転がした。情けない琥将は舌足らずに「ミクちゃんミクちゃん」と手を伸ばし助けを乞うた。魅来さんは奴の手を握っただけだった。
順序立てた説明を魁さんはきつく求めた。僕に関わる問題だからと、姉の方から既に知らされていると勝手に思い込んでいた琥将は「母さんがしゃべってたの盗み聞きしただけだから詳しくは知らねんだ」とバツが悪そうにして、いきり立った魁さんを筆頭にアポイントメントを取ることもなく寅子さんの元へと突撃することになった。僕には止めることができなかった。
いきなりやってきた四人にさすがの寅子さんもほとほと困ったようで、整然と魁さんをなだめすかしつつ居心地悪そうにしている弟をにらみつけた。ОLの装いをした寅子さんは髪も染めていて、狸蝶よりも別人でまともに見えた。
アフターファイブを約束に、いつものファミレスで落ち合うことになった僕たちの間には辛気臭い空気が漂っていた。
魁さんは魅来さんを最奥のベンチシートソファに座らせると隣に腰かけた。自然に僕は魁さんと向かい合わせになった。
魁さんはトマトミートソースのスパゲティをバクバク食った。飛び散るソースもお構いなしで、スカーフも汚してしまっていた。
琥将が口を滑らしてから彼女の苛立ちは冷めやらず、おかげで僕は客観的に冷静でいられたが、その分に気が滅入った。なぜ彼女はこんなにも腹を立てているのか不可解にすら感じ始めた。
魅来さんは抹茶アイスが乗った白玉あんみつをアンニュイにつついて、すっかり気圧されていた琥将は未だにしょんぼりしながらアイスのレモンティーをちびちび飲んでは片手で額と頬をこすっていた。たまに見せた顔を触る癖に僕は特段指摘する気はなかった。どうせ外見や身分に似つかわしくない情けない顔をごまかしたいという無意識から来ているのだ。
会社から直行してきてくれたらしい寅子さんは僕らを見つけるや、通りがかったウェイトレスにアイスティーを注文してヒールを硬く鳴らした。
「ごめん待たせたわね」
彼女はシャネルのショルダーバッグをずさんに扱い、魁さんの隣に着席した。
「あらためまして、辰郎の姉の寅子よ。魅来ちゃんに、妹の魁ちゃんね。よろしく」
口早に自己紹介をすると「タバコ吸ってもいい?」とシガーケースをスーツの裏ポケットから取り出した。
「臭くなるからやめて」
魁さんの棘のある言い方に眉をひそめながらも、寅子さんは「そう」と素直にシガーケースを仕舞い、ウェイトレスが持ってきた水で唇を湿らせた。
「結納より先にこんな風に集まるなんて……あのババアがみさ子さんのこと話してたんだってね?」
底冷えするような声音に、琥将は「うん」とひたすら情けない声を出して僕の腕をつかんできた。それを丁重にはがした。
「えっと……少なくとも、金成が死んだってニュースになる前だったんだけど」
探り探りの眼差しで琥将は言った。寅子さんは大袈裟に溜め息をつき頭をかいた。
「あたい知ってるよ。金成っつう百貫デブは色狂いで何人も愛人がいんだろ? もしそいつが生きてたら、みさ子さんはそいつの愛人にさせられてたんじゃないの?」
「厳密には……かっちゃんがいなかったら、よ」
魁さんは息をのみ、琥将の方をにらんだ。琥将は首をすくめていた。
僕はこれまで自分の身の危険を感じたことはなかった。寅子さんの言葉で初めて薄ら寒さを覚えたのだ。
「定期的に管家は四家のことを占って、結果を琥将家と相柳家、それぞれの大将に告げに来るんだけど。まあ結果をそのまんま教えてくれるとは限らないけどね。でも今回はちょっと特別だったの。管家んとこの息子さん、辰郎とかっちゃんの先輩だった……竹幸くんが“占い結果を占って”うちにナイショで教えてくれたのよ」
琥将が伏し目で「俺のことはもう助けないって言ってたのに」とぼやいた。おしぼりで手を拭く寅子さんは奴に向かって小さく舌打ちを繰り出した。
「みさ子さんはかっちゃんを選んだから。金成は成り代わろうとしたのよ」
「成り代わるって……」
「カンタンよ。本物を始末して本物になりきる、ただそれだけ。ファッションを楽しむみたいに愛人によって姿を変えていた金成ならやるわ」
ふと僕に視線が集まった。不本意ながら本物だと声を上げたところで証明にはならないだろう。悪魔の証明はご免だ。
「でももう死んだんだよな?」
弟の改まった問いに、寅子さんは「ええ」と澄まし顔でおしぼりを畳んだ。