舞前ベノワ優祐はトラウマから抜け出せない
饗庭はもう大丈夫。だから舞前は正直なところ、幅屋がいるクラスを受け持ちたかった。優先度を作ってひとりの児童ばかり特別構うのは良くないが、それでも今一番に注目したかったのは幅屋のことなのだ。
遅刻してきた幅屋の情緒は不安定だった。彼の心は迷っている。自分が本当に反省しているのかわからなくて泣くなんて。
ずっといじめているのを見ていたから、最後まで見届ける責任がある。心に芽吹いた光が無事に育つには見守り、時に手を差し伸べて正しい方向へ導いてやらなければ。だが正直なところ完全に手探り状態にある。
殊久遠寺が郡司を傷つけた負い目を持ち続けているのと同様に、反省はできても自分自身を許すことは困難だろう。仮に増岡たちが許してくれたとしても、その懐の深さに打ちのめされるかもしれない。それとも、打ちのめされるべきなのか。
増岡の元へ通うよう指示した手前、一組の担任に協力をあおいだが反応は芳しくなかった。不登校児が解消されるのは学校側としても好ましいが、他の教員に今更ほじくり返されたくはないのだろう。
すべて舞前が独善の判断で進めたことにするのを条件に、幅屋の贖罪は始まった。
増岡の様子も知る必要があった。けれども三組の副担任が家庭訪問するだなんて、不審がられるに決まっている。
なんだか勇み足をしている気分になった。
舞前はひとりになりたくなって、魔法瓶を手に国語資料室に落ち着いた。シロップ入りのコーヒーを一口含んだ。
こんな時こそ、認識阻害の術が使えたなら。
小さく波打つコーヒーの黒を見下ろしながら、嫌に懐かしさを覚えた。
ぽたり、と。コーヒーが波紋を作った。
別に泣くつもりはまったくなかったのだが。舞前は片方の指で目元を拭い、放心する。
「え?」
指の腹が黒い粘着質の液体で汚れていた。
舞前はその日のうちに加賀重豊医師に診てもらった。
「どうせ伝染しているんだろう。潜伏期間が終わって発症した、それだけだ」
加賀重豊医師は尊大に本革の椅子の背もたれを軋ませながら、突き放すように言った。
「治るんですか?」
「せいぜい寛解止まりだ。それに専門外だ。俺にはどうすることもできん」
「じゃあ、誰か紹介してもらえませんか?」
「紹介? ふん! それは病気ではない。一体どこの誰を……陰陽師でも紹介しろとでもいうのか?」
「でも伝染って」
舞前は混乱しながらも、黒い粘着液が人間ならざる分泌物――タラ福の体液を模したものであることは本能的に理解できていた。いや、理解させられているというべきか。
「便宜上、伝染だの感染だのと呼ばれているに過ぎん。お前は妖怪に寄生されていたんだろう? 元より素質があったか、耐え抜いた結果だ。一度発症してしまえば自然に乖離することはほぼない。遺伝子に組み込まれたと考えろ」
支配から抜けたと思っていたら。“えんがちょ”をしなかった結果なのか。
「それじゃあ一生このままなんですか……?」
「コントロールすれば日常生活に支障は出ん」
「コントロールって、一体どうすれば」
「病は気からだ。むしろとことん活用してやればいい。この俺が言っても説得力に欠けるだろうがな」
「ちょっと待ってください。遺伝子に組み込まれたというのはどういう意味ですか? 遺伝するんですか?」
「乖離しないと言っただろう。末代まで呪うだの、ありがた迷惑なふざけた執念でもなければな。もし周りにうつしたくないと配慮したいなら潔く死ねばいい」
医者にあるまじき発言に絶句する。
「死にたくないならコントロールしろ。今度はお前が支配するつもりでな。できなければ力に負けて変死する。これは脅しではない」
「そんなぁ」
「フン。いざという時は千堂家にでも泣きつけばいいだろう。あそこは呪いを一点に寄せる術を知っているからな」
ふと、加賀重豊医師は振り返った。診療室として使っている部屋は常に解放されていて、入り口に少年がぽつんと立っていたのだ。
短髪で手首足首が細い、青白い肌をした白痴美の少年だ。やや目が吊り上がっているが、高矢と比べるとまるで覇気も生気もなく、子どものマネキンが突っ立っているようにも見えた。
加賀重豊医師は「どうした」と、つっけんどんな態度はそのままに声をかけた。
「……石灰がなくなる」
「わかった。すぐこっちを終わらせるから音楽でも聴いて待っていろ」
「……わかった」
少年は大きいスリッパの下底を引きずりながら音もなく去っていった。
「お孫さんですか」
「書類上では息子だがな」
「はぁ」
父親に似て愛想の欠片もないなぁと舞前は思った。
まさか、後日に幅屋から加賀少年のことを電話で聞かされることになろうとは露知らず。
結局、手も含めて経過観察という診断結果。気休めに目薬をもらったが、病気じゃないと断言されたのではプラシーボ効果も期待薄だ。
加賀重豊医師が言うには、伝染しても潜伏し続けたまま気づかずに生涯を終えるのがほとんど。発症するにはカガク反応が重要なのだとか。カガク反応に必要不可欠と言っても過言ではないものがコンプレックスで、心の隙間を埋めるかの如く妖力が入り込み定着するのだとか。
要するにトラウマがあると陥りやすい。なんだか傷口に塩を塗られた気分だ。やっぱり病気の一種ではないのか。心の病気の延長線だ。声を大にしたところで医学界は鼻で笑うだろうから、これは病気じゃないと加賀重豊医師は言っているのだろうが、腑に落ちるには時間がかかる。
帰路にあった女性向けの雑貨屋にふらりと入った。
慌てて使うなんてことがなければいいけれど。そう思いながらサングラススタンドを適当に回し、手頃なボストン型を買った。
帰宅した舞前は洗面台の明かりを点け鏡と向かい合う。
生徒を苦しめたタラ福の力を羨んだのがスイッチになってしまったのか。これは試練なのか。
トラウマを克服するために黒い涙をのまなければならないのか。放置すれば涙どころではなくなるのは想像に難くない。
舞前は深呼吸をして目を閉じ、明かりの方に顔を向けた。
明るいまぶたの裏に、墨流しのような影がうねっている。こいつだ。
ずっと指をくわえて外の光景を眺めていたのが、立場が逆になった気分だ。
ついほくそ笑んでしまうと、影はぷわりぷわりと不規則に黒い花を咲かせ連ね、また端の方から弾けて渦を巻く。
舞前は目を開けて排水口に栓をする。洗面器の縁に手をかけ、再び目を閉じる。眉間にしわを寄せ、前頭部を意識する。
前頭葉から咽頭。肩帯から上腕へ。生物学、生理学から逸脱した内分泌。第二のリンパ系。第二の血液。つるりつるりと流れ落ちていくところをイメージする。
薄らと目を開ける。十本の黒い筋が爪の生え際から排水栓へと縞模様を描いていた。ハッと手を離して後ずさると、分泌物は爪先からちぎれて純白の洗面器を汚す。
ああ、と名状しがたい感情の溜め息がこぼれる。
分泌物が洗面器の上で躍りだし跳ね上がる。両手をかざして顔を守った。瞬く間に分泌物が爪の生え際から体内へと吸収された。
指がしびれる。顔を引きつらせると乾いた笑い声が出た。
散々みんなを苦しめた力だ。
「ごめん千堂くん。高矢くん。殊久遠寺さん」
それをもはや手放せないのだ。断絶することができないのだ。
「ごめん、みんなぁ」
両手で顔を覆い、前屈みになって震えた。
贖罪に役立てるために。いや、死にたくないのだ。
舞前の中のトラウマが震え上がる。かき寄せた勇気で鏡を見れば、深く眉をひそめて悲哀の表情をした中将の能面をひっつけた男が立っていた。