舞前ベノワ優祐は大丈夫だと信じてもらえない
最初に変わることを決意したのは饗庭真帆志だった。学校という縮小された社会の中で生き抜く術を持っていた彼だ。元々は幅屋から涙鬼に乗り換えようという打算的な考えだったのかもしれない。
けれど五年生になった彼はいつの間にかヘラヘラと媚びへつらう真似をやめ、相手の顔色をうかがうのを控えるようになった。まずは印象を見極めるかのように相手の目を見据えたかと思うと、人懐っこい笑みを浮かべるか、そろそろと距離を取るかをし始めるのだ。
舞前が三組の教室に踏み入れた時も、饗庭はガマガエルのように目を大きく開かせながらも口一文字にして見据えてきた。心の中まで見通された気がした舞前は緊張したが、すぐに饗庭はあからさまに表情を崩し、警戒心を解いてくれた。おかげで肩の力が抜けたので微笑み返した。饗庭の隣の席の女子が赤面した。
自分がハンサムであることは舞前も自覚していた。手袋のせいで『鬼の手が封印されている』だの奇妙な噂が流れたりはしているが、特に女子からの評価は上がっている。が、殊久遠寺和子の懐疑的な目はいつまで経っても収まることはなかった。
実は体を妖怪に乗っ取られて操られていました。だからなんだというのだ。
最後まで諦めずに抵抗して助けようとしていたことに感動した涙鬼は許し、尊敬すらしてくれたが、殊久遠寺の反応も当然の範疇であった。むしろこれまで酷い対応をしてきたというのにコロッと同情心に変わった涙鬼の方が異常なのかもしれない。
とにかく、授業で出来を褒めても、機嫌を損ねた『となりのトトロ』のメイちゃんのように稚拙な態度で、殊久遠寺は唇を尖らせてうつむくのだ。頭部とヘアゴムの大きなサクランボしか見せてくれなくなる。
そっと職員室に呼んだこともあった。言うことを聞かないことだってできたのに、素直に来てくれたからきっと話し合えばわかり合えると舞前は信じていた。
「郡司くんにケガをさせちゃったことを気にしてるんだね?」
優しく静かに答えを探る。本当は人の目がある場所でたずねる内容ではなかった。しかしふたりきりだと余計に身構えられると思ったのだ。
殊久遠寺は「ちがうもん」とスカートの裾をぎゅっと握り締めていた。
「ワコは悪くないんだもん」
「そうだねぇ。そのとおりだよ」
あれは定丸が悪いのだ。
「でも心のどこかで自分のことを責めちゃってるんじゃないかなぁ?」
ヘアゴムのサクランボに声をかけている気分になりながら諭した。
「……先生はどうやって顔を割ったの?」
と、サクランボが言った。
「割れたのは日比谷くんのおかげだよ。彼が千堂くんのお父さんを呼んでくれたからね」
「でももう少しで割れてたもん」
「あれはずっと出ようって思って叩いてたからね。殊久遠寺さんも出ようとしてたの?」
サクランボは押し黙った。なぜ自分は自力で割ることができなかったのか、怪我を負わすのを阻止できなかったのか悔やんでいるのだ。
「殊久遠寺さんの場合あれは急なことだったし、あの中の壁ってものすごく分厚いんだ。おとなの僕ですら半年かかったからね。だから思いつめる必要はないよ。郡司くんだってまったく気にしてないじゃない」
殊久遠寺はスカートの裾をくしゃくしゃと握り続けた。
「先生はもう気にしてないの?」
舞前は言葉に詰まった。
「ずるいもん」
殊久遠寺が許してくれないのは、自分自身を許すことができないから。自分のことを許したら舞前のことも許さなければならないから。
僕は許されたいのか?
舞前は逡巡した。
現段階では殊久遠寺からポイントを稼ぐのは絶望的だろう。舞前は時の流れに身を任せるしかなかった。
ただ、なぜそんなにも先生の優しさを台無しにするのかと、やんわりとだったがクラスメイトが責めた時があったのだ。自分が嫌われたままなのはいいが、そのせいで彼女が孤立するようになってはまずい。郡司吉祥が別のクラスに割り振られているのが悔やまれる。
「舞前先生は大丈夫だよ。本当に大丈夫だよ」
饗庭が場に気づかう始末である。殊久遠寺は「もん」と頑なに聞く耳を持たない。
「みんな崇城先生きらいなくせに。崇城先生が担任じゃなくてよかったって。それとおんなじなだけだもん」
「崇城先生はいい人だよ。僕ちゃんと知ってるよ」
悲しそうな声音の饗庭に、余計に場が気まずくなったのだった。
いじめは駄目だ。そんな当たり前なことなのに、どうすれば予防できるのかも収束できるのかもわからない。子どもたちが何を抱えているのかひとりひとり透視できたらいいのに。火の粉を振り払おうにも、その力加減すら判断できやしないのだから。
「殊久遠寺さんがいじめられないように見ててくれる?」
「え、うん、いいよ」
後々こっそり饗庭に協力を頼むと快く請け負ってくれた。
「でも、たぶん大丈夫だと思うよ。この前ね、廊下で囲まれてた時があったんだけど」
「えっ」
「だからねこの……」
饗庭がおもむろにポケットから出したのはゴキブリの死骸だった。
「おもちゃをね。セロハンテープで作ったんだけど」
よく見たら角張っていて形も歪だが、茶色のマジックペンをふんだんに塗っているせいでより黒光りしていて気持ち悪い。そういえば去年の夏休みの課題で、彼はセロハンテープとほぐした毛糸でタランチュラを作って物議を醸していた。女子からのポイントを気にしていると言いながら、根本的なところは変える気がないらしい。
「足元に投げ入れてキャーキャー言わしてやろうって思ったんだけど、その前に高矢がわざとひとりに肩をこう、ぶつかってさ、ジャマだどけってイライラしてた。だからポイント落とさずにすんだ」
「そうなんだぁ……」
「教室でも囲まれてた時あったんだけど、その時はいきなりドンッてでかい音がして、見たら高矢がドアを蹴ってて、みんなびっくりしちゃって、それでおしまいになってたから」
「そう、なんだぁ……」
舞前は“画面越し”の高矢の素行が脳裏によぎった。彼の切れ味抜群の三白眼は小学生とは思えない迫力がある。直接に手出しをされなくてもその眼力だけで心臓をつかまれ、心を殴られた気にさせられるのだろう。
歩み寄られるのを拒む眼力の一つの所以として、家庭環境に難があったのは崇城の調べで知ることとなり、つくづく担任失格であったと痛感する。
とはいえ彼の被害者からすれば、殊久遠寺の感覚で言うなれば『だからどうした』なのだが。
それに“画面越し”では女子に対して乱暴を振るわない、生半可にも冷血漢にはなり切れない印象であったのだが、どうやらそうでもなかったようだ。遠回しに殊久遠寺を助けたつもりなのかどうか意図もはっきりしないし、尋ねてみたところで否定するに決まっている。
「やり方はこわいんだけど、高矢も半分大丈夫になってきてるから、大丈夫だと思うよ」
「だいじょうぶ……」
「ウン。信じていいよ」
ニシシ、と空きっ歯で饗庭は笑った。さすが、悪童三人組の中でいち早く精神的な成長の兆しを見せただけあって、自身が抱える怯えに折り合いがついて、心に余裕ができているようである。
「そうだ、僕ね。びっくりしたんだけど」
「なぁに?」
「図書館でね、図鑑見るついでにどうやったら女子にモテるようになるか調べてたらね。レディーファーストって、女の人を盾にすることやったんやね!」
世紀の大発見とばかりに饗庭は目を真ん丸に見開いた。
「上からウンコが落ちてきたら服が汚れるから、女の人を盾にしてたって!」
「中世のヨーロッパの話だね」
「あと銃で撃たれるかもしれないから先に行かせるんだよ。だからレディーファーストはやらない方がいいんだよ。女の人を優しくしてるように見せかけて、実は自分のことを一番に考えてる嫌な奴に思われるんだよ。だから先生も気をつけた方がいいよ」
舞前は舌を巻いた。時に子どもは大人よりも大人になる。真理を突く。