波の砕ける岩場へ
飲み物も頼んでいたツマミもなくなっていた。
「ここで夕食でもどうですか? 予約していないので空席があれば、になってしまいますが」
「いえ、夕食はうちの冷蔵庫に入ってるので」
カレンが肩を竦める。私は彼女がどうしたいのか、ちっとも読めない。
バスケのパスもチェスの戦略も、敵を読むことは得意だと思っていたのだが。
「じゃ、帰りますか」
明るく言って席を立とうとした。
「潮の香りがしません」
「え?」
「ここからでは海の画像を見ているのと同じです。テレビと一緒」
私は目を丸くして、もしくは少し頬を引き攣らせていたかもしれない。
「あなたは海を見に行くと誘ってくれたのだから間違いではないですけど、ちょっと物足りない気がしません?」
――何かの駆け引きなんだろうか?
敵は読めても、こと恋愛が絡むと男女のやり取りは私には難し過ぎる。鈍感、疎い、というのが一般的な評価だ。
――もう少し一緒にいたいという意思表示? それともつまらない人ね、という揶揄?
とりあえず会話を続ける努力をした。
「海自体は余り匂わないものですよね。海藻とか棄てられた貝殻だとかのほうがよっぽど臭い」
相手は何の作為もなさそうな笑顔で答える。
「牡蠣の産地ビズタブルなんて浜一帯が海臭いです」
「そうそう。あちこち牡蠣殻の山で」
「出身なんです」
「あ、そうですか、知りませんでした」
作家が著作のために田舎に引きこもり、彼女はそれに付き添ったパートナー、都会出身だろうというイメージを持っていた。
ビズタブルなら州を縦断して北上、ここから行けない距離じゃない。とはいっても。
「今からじゃ、深夜になってしまいますね」
カレンは笑いながら首を横に振った。
「故郷に連れてって下さいなんて我儘言ってません。マリーナの向こうに海水浴場があるじゃないですか。その外れに岩場があって波が洗ってる、あそこらまでいけば、ちゃんと海らしいと思うのですけど、歩くのは嫌ですか?」
これも初体験だった。今まで、こっちが「少し歩こう」と言って女性が「えー、車で行けるとこがいい」と答える、そんな相手ばかりだったから。
少し自信がなかった。掴みどころはないけれど惹きつけられている相手とふたり、ロマンチックにそぞろ歩いて自分を御せるかどうか。手は出さないにしても、教師として後々まずいこととか口走りそうだ。
「波が当たる磯がご希望ですね? 時間はまだいい? 20分車で走らせてもらえませんか、オススメのビーチまで」
「まだ8時前です。9時まで明るいんですから連れて行ってくださるなら喜んで」
にっこり笑いかけられて腹を括った。
イギリス海峡を見降ろす白亜の岸壁を下る一車線の急な坂。ジグザグの度に対向車が来ないか確認し、もし来たならどちらかがバックして道を譲り行き違う。最後のカーブを曲がり切ると、目の前に水平線。
自分の運転に自信がなかったら来れるところじゃない、レッグスペース重視で選んだメルセデスEクラスなどで。
辿り着いた平地は細長く岸壁に貼りついている。たった一軒のパブがあるだけで、後は小さな駐車場だ。砂浜と岩礁に寄せ来る止めどない波の音に圧倒される。
「うそ、こんなとこ、来たことない、同じ州出身なのに!」
カレンは車を降りるや否や、少女のように声を上げた。瞳がきらきらしているのは夕陽をあびているせいだけじゃない。
「北部人は南には下りて来ない」
「あなたは南部人?」
「ええ、生まれも育ちも。南部人は北上もする。ビズタブルにもよく行きますよ?」
カレンはにこっとするとくるりと背を向けて、砂浜に駆け下りた。
「待って、危ないって、転ぶよ!」
焦って丁寧語どころじゃない。
サンダルの中に砂が入るのも気にならないようだ。
やれやれ、と大股で後を追った。娘を見守る父親の役どころ。
彼女はまず、波打ち際で両手を浸し、指をぺろりと舐めた。
「こっちのほうがしょっぱい」
「ビズタブルはテムズ川の河口に近いから薄いんだろ。舐めたりしたら身体に悪い。牡蠣が育つのもロンドンから養分がたんまり流れてくるからだ」
一人称「私」なんて使えない。表面的には同じIなのに、心の持ちようが全然違う。先生語が話せなくなった僕に、カレンはまた笑いかけ次は岩場のほうに近付く。
「滑るから、ほんと気をつけて!」
「海育ちの私にそんなことよく言えるわ!」
――そんなに海に来たかったのかよ、連れてくるのは誰でもよかったんだろ?
海に嫉妬するわけではないが、まんまと利用された気分になった。それでも急に生き生きとした彼女が見られて、嬉しいという思いも湧いたのだが。
カレンは潮だまりのひとつひとつを覗いている。
バッシュ履いてきてよかった。海藻を踏んづけて滑らないよう気をつけながら、彼女に近付いた。
前屈みのカレンの視線の先を、自分も同じ格好で重なるようにして上から見下ろした。
「ウニでも見つけた?」
「ウニ?」