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「夏は淋しいですね」

「は?」


 ボールの行方を追っていて、金網の向こうの女性に気づいていなかった。


 夏は明るく楽しいものじゃないか?

 4月を残酷な月だと言ったのはどの詩人だったか……。

 いつも以上に私の意識は飛び散らかっている。


 波打つこげ茶の髪が傾きかけた陽射しに煌めく。ラテン系だろうか。

 近くの小さなスーパーからの帰りらしく、エコバッグを片手にひとつ。

 

 私は急いで頭の中の保護者名簿を繰る。


 ……誰、だっけ?


 向こう三軒両隣のご近所さんではない。だが全くの通りすがりでかけてくる言葉でもないだろう。

 教え子の親のはずだ。

 子どもと一緒ならすぐピンとくるが、保護者という立場を外れて急にひとりの異性として目の前に立たれると、こちらはあたふたしてしまう。

 

 こういうところが、私が37にもなって独身の根源かもしれない。

 身持ちが固いと言っているのではない。現役選手時代は自分から何をするでもなくファンや芸能人が群がってきたから、気が付いたら交際は始まっていて、忙しいと破局した。たいした心の痛みもなくそれを繰り返した気がする。


 アメリカでは英国訛りはチートの一種だ。なぜか「カワイイ」認定される。上流英国紳士路線を狙っても、都会派クールを目指してもだめだった。

 特に酒が入ると女の子たちは皆、「きゃあ、カワイイ、もっと何かしゃべって〜」とはしゃいだ。


 また思考が飛んでいる。目の前で誰かが話しかけているというのに。


「今日は思ったより涼しいですね」

 イギリスらしく天気の話で時間稼ぎしようと思った。

「そうでしょうか?」


 そんな即答で否定されると二の句が継げない。相手は苦笑してから、

「今年卒業したジェイムスの母、カレンです」と自己紹介した。


 ジェイムス。頭を抱えたくなった。なぜ思い浮かばなかったんだろう。

 この5月に英語スペリング全国大会で優勝した本学のヒーロー、短髪剛毛ウニ頭のジェイムス・アーチー・イシカーワのお母さんだ。

 保護者面談でもテレビの中の表彰式画像でも顔はよく知っている。


「お久し振りです。ジェイムスは秋からグラマースクールですね、大学はオックスブリッジに行ってくれるといいな」

「ええ……」


 表情に翳りがあった。嬉しくないのだろうか? 

 グラマースクールは7年制、11歳から大学入学を意識しての一貫教育を行う。ジェイムスなら抱き合わせてオックスブリッジと呼ばれる英国名門二大学に楽勝だろう。


「日本のインターナショナルスクールへ行くかもしれないんです……」

「そんな、なぜ?」

 今度はこちらが即返だ。日本を悪く言うつもりは毛頭ないが、もったいない、と思ってしまった。


「今、父親と向こうへ行っていて」

「そう……ですか」


 何か相談ごとがあって話しかけたのだろうか?

 恩師として? 校長として? それともただ誰でもいいから話を聞いて欲しいだけか?


 大抵の相手なら「ではまた」と言って背を向けている。だがそうするにはカレンは余りに…………魅力的だった。ジェイムスのことも気になる。


「お茶でもしますか?」と誘うもんだろうが、近所にはカフェはなくパブがあるだけ。

 そこには、一杯ひっかけた知人がわんさか束になって集まっている。避けたい。

 校舎の戸締りはもうしてしまっていた。応接室を開けるのも面倒くさい。

 選択肢は限られている。


「ドライブにでも行きませんか?」


 カレンはぎょっとした。そりゃそうだろう、夫と息子が海外に行っていると言った途端、ドライブだなんて。

 でも「淋しい」という言葉を先に出したのはそっちだ。


「よかったら、話、聞きますよ?」

 下心はない風を装った。いやもちろん、それほど深い下心があるわけじゃない。男はいい女を見ればすぐ服の中身を想像する、といった類のものだ。


「海でも見に行こうかと思っていたんですが」

 これは嘘だ。車の運転は好きだが、自分独りで波を数える趣味はない。


 返事がもらえないので引き下がることにした。

「ご主人があんな有名作家なら奥様もセレブか。誤解を生むような行動は慎んだ方が良いですね。失礼しました」


 くるりと背中を向けてドリブルに入ろうとしたら何か聞こえた気がした。ボールはまた私の手を離れ、とん、とととん、と数歩先に転がっていった。


「主人じゃありません。結婚してませんから……」

 籍は入れてないのか。そういうカップルは五万といる。それでも家族であることに変わりない。

「それは重ねて失礼しました。グッド・イブニング」

 さよならの意味で挨拶した。するとカレンは

「あなたがグッド・イブニングをくださるのではないのですか?」

 と、思ったよりはっきりと、でも静かに発音した。


 上半身だけ振り向いていたのを、きちんと相対した。カレンは長い睫毛をパチパチしてから言葉を続ける。

「私はジェイムスの母、カズヤはジェイムスの父、それだけです。もう家族でもカップルでもありません」


 知らなかった。ジェイムスは品行方正で何の問題も起こさないから、幸せなんだと思い込んでいた。両親が別れても不幸せではないかもしれないが、ジェイムスの溌剌とした子どもらしさに家庭問題は似合わない。

 よく父親の話をすると思った。もしかして一緒に暮らしていなかったのか。

 

 私は、シャワーを浴びないと女性を助手席には乗せられないくらい、汗もかいていた。フラットに帰ってきたいというと、カレンは買ったものを冷蔵庫に入れる時間が欲しいと笑った。



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