イージッピージー朝飯前
* イージッピージー easy peasy とっても簡単! という意味です。
指で押し潰したホースの先端からほとばしる水が、陽射しを受けて眩しい。
もんどりうった蛇のようなしぶきをぬって、からかうようにトンボが飛んでいた。赤くなる前の赤トンボだと思う。アキアカネなのかナツアカネなのかはよく知らない。
コンクリート打ちっ放しの球技場から急に懐かしい匂いがした。夏の雨の最初の数滴が当たったアスファルトから立ち昇る、噎せるような熱気に似て。
どこで嗅いだのだろう?
蘇る緑滴る映像。この明るい懐かしさは、大粒のにわか雨にも仲間と笑いながら濡れていた大学時代のロードワークだ。
長身を活かしてバスケをやった。ユニバーシアードに出られたというのに、英国にプロリーグはあっても超マイナーでテレビ中継もない。
今水かけしているコートだって実はネットボール用だ。ネットボールのほうが世界的には知名度は低かろうが、バスケのゾーンディフェンスのままドリブルと身体接触無しに、相手のリングにボールを入れる競技だと思ってもらえばいい。
自然、私の進路はアメリカNBAへと続いていった。
でも、向いてはいなかったな。
何もかもクールに決めて、スタメン外されても苦笑い、故障をしてもバカ笑いしておかなくてはならないチームの雰囲気が肌に合わない。
それからあれだ、夏の試合後の選手控室、あの匂いだけはいただけなかった。ビー・オー、Body Odourのキツいことといったら……。
国籍で見ても10数カ国、「何系」という出身を考えたら数え切れないほどの匂いが混ざっていた。汗をかくと、普段食べているものが如実に体臭に現れるのが逆に可笑しくて。
――ふふっ。それでもあれが私のピークだった。スタメンに何かあったときだけ出られる一軍選手。
今では地元の小さな小学校の校長をしている。37歳で若過ぎると思うかい? 英国ではそう珍しくはないんだ。
ヘッドマスターと言うと偉そうだが、ヘッドティーチャーと呼ぶ学校もある、単に先生のトップで外からの矢面に立つ役、というだけだ。
膝の故障でアメリカから戻り、リハビリがてら資格試験の勉強をした。学位はあったから楽な選択だった。平教師になってから今まではあっという間だ。
今朝、秋からの新任教員の面接を行ったが、面白いヤツが来て。
「陸軍でアフガニスタン従軍後、庭師をやってみたけど儲からない。将来に繋がる職につきたくて集中コースに行った。資格取ってほやほやだけど情熱には自信がある」とのこと。
きびきびした立ち居振る舞いには似合わない人懐っこい笑顔が印象的な、ひと回り年下の男。
ずんぐりむっくりに見えるが、ビシッと張ったワイシャツの下は全部筋肉。袖をまくると両腕にイレズミ、耳にピアス。それでいて持っている資格の対象年齢が4−5歳だというんだから。
幼児だか学童だかわからない可愛い怪獣たちに懐かれ、両腕、背中、両脚に纏わり付かせて泣き笑いする姿が目に浮かぶ。
7歳の娘がいるといっていた。独身の私より女児の扱いに慣れているかもしれない。とんだ掘り出し物の逸材だ。
同性の同僚がいると私も気が楽、仲良くしてくれるといいのだが。
うちの学校規模は全校児童60名前後、それに対し自分も含めて教師4名、ティーチング・アシスタント2名。
4歳から11歳までという日々成長する子どもたちに対応するには、それでも手が足りない。
夏の小学校は子どもたちを送り出し、閑散としている。学年の切れ目でもあるから誰のものでもない感を醸し出す。
プールも校庭も開放していない。スポーツに真面目に取り組む児童は学外の専門のクラブに所属していて、水泳、体操、陸上、サッカー等、それぞれに励んでいる。
濡れたコンクリートの匂いが水っぽく変わった。どうして水撒きなんかしているのか、自分でも忘れるところだった。
面接を終え溜まっていた事務処理を片付け、夕方涼しくなったところでバスケのシュート練習でもして遊ぼうと思い立ったのだ。
シャツを脱ぎ捨てTシャツになってコートに足を運んでみると、コンクリートの上に砂利やら枯れ葉やらが落ちていて、どうも足を滑らせそうだ。今度膝をぐねったら十字靱帯がどうなってしまうかわからない。
子どもたちの足、膝を守るためにも屋外用床素材を敷きたいのだが、予算がつかない。父兄に直接寄付を募るか、イベントでも企画してお金を集めるべきか。
また話が脱線した。
目につく小石を拾ってからホースを引っ張ってきて、プレッシャーウォッシャーのように砂埃や葉っぱを水で吹き飛ばして今に至る。
ホースを巻いて片付けると、夏のコンクリートコートは見る見るうちに乾いてきた。
校長室から持ってきていた赤茶色のマイボールを拾い上げる。
手に吸いつくドリブル感がいい。ランニングシュートをいくつか決めて、といっても小学生ネットボール用リングは低いからどれもスラムダンクになってしまう。
――イージッピージー*、朝飯前。
せめてあの新人君とワン・オン・ワンできればもっと楽しめるだろうに。
スリーポイントに替えた。
しかしリングにバックボードが無いからリバウンドもせず、面白くはない。入れば真下に落ちるが、リングに当たり跳ね返ったボールは無様にフェンス近くへと転がっていった。
「夏は淋しいですね」