第97話 勿忘草を摘みに行こう 4
金はとても大事だ。
俺はそのことを幼少時から、よく理解していた。
なぜなら、
「ほら、今週の分だよ。無駄遣いしたら、ぶつからね?」
物心ついた時から、俺の生命線は常に金によって決まっていたのだから。
最初の記憶は、むせ返るようなゴミの臭い。
碌に掃除もしない同居人――一般的には母親と呼ばれるらしい存在――が溜め込んだゴミの臭いが、俺が覚えている限りの最初の記憶だった。
そいつから、愛情と呼ばれる物を受けて、育った覚えはない。
いや、正確に言うのならば『育てられた記憶』は存在しない。
何せ、俺は自分の年齢すら正確に把握していない。そう、実はこの俺、小学校低学年までは学校に通えていなかった。そいつはどうやら学校が嫌いらしく、俺に通わせるという思考が無かったらしい。というか、俺の存在を出来る限り意識せずに暮らしたがっていた節すらある。
「お金あげるから、出来るだけ帰ってこないの? いいね?」
週の始まりに千円札を握らされて、俺は外に放り出される。
そいつの意図としては、『その千円札で一週間を生き抜け』ですらなく、『さっさと何処かへ行け』という短絡的で刹那的な物でしかない。子供が……いや、大人でも千円だけで一週間を生き延びるのは困難だ。まして、その千円も毎週渡されていたわけじゃない。こちらから要求しなければ絶対に渡さないし、要求したらしたで、必ず殴る。殴ってから、まるで悪いことをした子供を叱る様に俺に言うのだ。
「お前は本当に駄目な子供だね。そんなに私を苦しめて楽しい?」
まぁ、なんつーか、こういう屑が一定する居るわけよ。
千人ぐらいの人間と顔を合わせると、その内の三人ぐらいは屑。勿論、住んでいる場所の治安にもよるけど、大体、このぐらいの割合で屑が混じってる。働きアリの法則ならぬ、人間の屑の法則。
当然、そんな屑だからまともな仕事は出来ない。
そもそも、仕事なんてやってたのかね? 推測だが、男をあの汚い部屋に連れ込んで、色々金を絞り取ってたんだろうな。それぐらいしか、あの屑が金を手に入れる手段なんて無かっただろうし。
その時の俺は、まともに言葉も話せず、ただ、金の価値だけしか理解してなかった。
野生動物のように、常に何かに怯えながら、コンビニで金を払って飯を食うか、適当に盗みやすいところで商品を盗んで、飢えを凌ぐ日々。
「君、ちょっといいかな?」
もちろん、そんな糞みたいな日常が長く続くわけがない。
栄えある我らが日本は法治国家だ。お巡りさんもきちんと仕事をしてくれる。即ち、この俺みたいに悪目立ちしていた子供が、いつまでも放置されるとは限らない。
「ふざけんな! ふざけんな! お前、お前ぇ! なんでこんなに私を――」
「はーい、お母さん、ちょっと落ち着いてね。こっち来て話そうか」
「ち、ちがっ! 私は違う! 私は悪くない!」
覚えているのは、醜く喚き散らすそいつの姿。
暴れて逃げ出そうとして、婦警さんたちにあっさり組み伏せられて、捕まっていた姿。
無様という言葉がそのまま服を着て歩き出せば、きっと、そいつの姿になっただろう。それほどまでに、醜かった。
そいつの醜い有様を見て、俺は初めて『人間の屑』という存在を理解したのである。
「ご、ごめんねぇ、ごめんねぇ」
「どうしてこんなになるまで……」
屑が捕まってから、俺の生活は一変した。
どうやら屑はとある田舎の大地主の娘だったらしく、学生自体に馬鹿な男と駆け落ちして、俺を身籠ったというクソみたいな流れで破滅したようだ。しかし、屑の親でもまともな人の情は持ち合わせていたようだ。俺は祖父母の家に引き取られる形で、住居を移すことになった。
そのため、ホームレスか野生動物みたいな生活を強いられていた当時の俺は、ようやくまともに衣食住を保証される生活を手に入れたのである。
「あれが、あの……」
「まるで獣だ」
「育ちだけでなく、血も悪いのだろう」
と言っても、子供が健全に過ごせる環境からは程遠かったんだけどな。
何せ、大地主の家には祖父母以外の住人も居たわけで。長男家族は露骨に俺を避けて、嘲る始末。屋敷を掃除する使用人だって、当然の権利のように俺を見下していた。
でも、その時の俺は別に困ってなんかいなかった。
腹いっぱい飯を食えれば、他人の悪感情なんて気にするにも値しない。しかも、罵倒されている通り、育ちが悪かったので、迂闊に手を出して来た奴を俺は容赦なく殴り、噛みつき、蹴り飛ばして自己防衛したのだから、評価は大体、自業自得だったんだよね。
「やはり、あの男の血が」
「母の愛を知らぬ子どもは、ここまで狂暴になるのか」
祖父母から俺に向ける感情が、憐憫から恐怖に変わるのにそれほど時間はかからなかった。
当たり前と言えば、当たり前か。
所詮は駆け落ちして、勝手に産んだ命。
まともな教育を施されていない子供。
虐待とネグレクトの合わせ技で、年相応の知性も持っていないガキ。
そんな物を喜んで受け入れる奴なんて、余程性格がどうしようも無いほどお人よしの奴しか居ない。
そんな奴は――――――俺は、たった一人しか知らなかった。
「ヘーゾー、絵本の時間だよ。さぁ、私の隣で一緒に読もう?」
彼女だけが、俺を受け入れて、愛してくれた。
俺に愛を教えて、まともな人間にしてくれたんだ。
…………どうして、今まで忘れていたのだろう? 彼女の名前も、顔も、思い出してしまえばこんなにも胸が焦がれてしまうというのに、どうして、俺は。
あの時、約束を破ってしまったのだろう?
●●●
俺の彼女が出会ったのは、神域と呼ばれる場所だった。
これは稀に地方の田舎で存在するしきたりなのだが、山の一部や、村の外れ、人里から離れた林の奥などに、『神が住まう』とされている場所がある。そこは神域として、祭りなどの特別な行事以外では誰も立ち入ってはいけないと決められているのだ。
だが、当時の俺はそんなしきたりなどを理解できるほどの知性は無かったので、誰も人が近づかず、落ち着いて一人になれる安全な場所として認識していた。
と言っても、古ぼけた社とでっかい木々があるだけで、特に何か面白いことがあるわけでもなく、そこに居る時は大抵、俺は暇を持て余していた。
だからかもしれない。
「そこの童よ。この地は我が領域。祭囃子無き時に、何人たりとも足を踏み入れることは許さぬ」
鬼の仮面を被った赤い着物の少女、なんて、如何にも奇妙な出で立ちの存在が突然現れても、とっさに逃げ出さなかったのは。
警戒心よりも、好奇心の方が優ったのである。
「んあ? おまえ、だれ?」
もしくは、俺が馬鹿だったからかもしれない。
白状すると、その時の俺がきちんと、妖怪とかお化けの存在を理解していたのか怪しい。そもそも、神様という存在の概念すらもさっぱりだったのだ。多分、突如として現れた少女の事も、なんかそういう出演の仕方をする珍しい生物ぐらいに思ったのかもしれないな。
「我はこの地を守護する土地神である。童よ、去れ。ここは人が居て良い領域ではない」
「んんー?」
「わからぬのか?」
「なにいってんのー?」
げらげらと、小難しい話し方をする少女を、俺は遠慮なく笑った。
知性が圧倒的に足りてないのである。
「童……君が、ここに居たらいけないってことだよ。お父さん、お母さんの所に帰りなさい」
思わず、少女が意見を極力抑えて、俺に合わせた言葉遣いをするほど、俺は馬鹿だったのである。でも、この後の展開を考えれば、俺は馬鹿で良かったと思う。
「いない」
「え?」
「そんなのいない。ぜーんぜん、いない。だから、ぼくはひとり。ひとりで、じゆうで、いま、しあわせなんだ」
馬鹿な俺は、愚かしくも自由であると、幸せであると語った。
本心だった。
あまりにも劣悪な環境で過ごしていたから、衣食住が保証されているだけでも、とてつもなく幸福に思えていたのである。毎日金の勘定をしたり、明日の食事を心配しなくてもいいことを、自由だと感じていたのである。
「誰か、君を愛してくれる人は居ないの?」
「アイシテクレルって、なーに?」
「…………そっか、うん」
だから、憐れに思ったのだろう。
彼女は元々、そういう神様だったから。
子供を守るための、神様だったから。
「ねぇ、君。名前は? 自分の名前ぐらい言えるでしょ?」
「なまえ? ううーん。あ、わかった! ヘーゾーだよ、ヘーゾー!」
「そうか、ヘーゾーね」
「おまえのなまえはー?」
「私は…………沙耶。うん、沙耶と呼んで、ヘーゾー」
「うん、わかった! サヤ!」
俺が名前を呼ぶと、彼女は――沙耶は鬼の仮面をゆっくり外す。
仮面の下には、今まで俺が見た誰よりも可愛らしくて、素敵な女の子の顔があった。
「ヘーゾー。いつか君が、誰かを愛することができるようになるまで、私が守ってあげる」
沙耶の言葉の意味を、この時の俺は全く理解していなかった。
それよりも、素顔の沙耶の可愛らしさに胸をときめかせて、生まれて初めて感じる、暖かでふわふわとした感情に戸惑っていたのだから。




