第94話 勿忘草を摘みに行こう 1
夢を見る。
とても大切な約束をした、幼い頃の夢を。
「ヘーゾーは、怖くないの? 私の事」
「怖くないよ! 全然っ!」
声だけは思い出せる。
顔は思い出せない。
赤い着物を着た、美しい黒髪の少女だったと思う。
大人びた声の少女で、幼い俺よりもずっと物を知っていて。分からないことがあると、直ぐに少女に訊ねていた。すると、少女はどこか楽しそうな声で俺の疑問に答えてくれるのだ。
「ヘーゾーは知りたがりさんだね。将来は学者さんになるのかな?」
「ううん。俺はね、ヒーローになるんだ! 困っている人を助けてあげるの!」
「ひぃろぉ? ああ、ヒーロー! それは偉いねぇ。きっと、ヘーゾーだったらなれるよ。たくさんの人を助けてあげてね?」
「うん!」
子供の馬鹿らしい夢。
現実も碌に知らない、馬鹿なガキの夢も、あの子は認めてくれた。本当にそうなるんだと、信じてくれた。
嬉しかったのだと思う。
誰に言っても、心の底では「あー、はいはい、そうねー、なれるといいねー」なんて馬鹿にされる夢だったから。
今の俺が同じ言葉を聞いたら、間違いなく他の大多数と同じよう言葉を返してしまうような、馬鹿らしい夢だったから。
まー、ほら、だからね? 俺があの子を好きになるのは当然だったのかも。
「たくさんの人を助けるけど! 一番、助けたいのは■■だからな! その、そこら辺を忘れないで欲しい!」
「ん、んんんー、嬉しいけどね、ヘーゾー。ヒーローなら、誰か一人を贔屓しちゃ駄目だよ。そうなったらもう、皆のヒーローじゃなくなっちゃうから」
「じゃあ、俺は■■だけのヒーローになる!」
「えぇ……方向転換早いけど、いいの? 夢じゃなかったの?」
「夢だけどー、えっとね? ■■をずっと守ってあげられるような大人になりたかったから。ヒーローになりたかったの」
「…………そっかぁ」
一体、小学校何年生の話だったかねぇ? 我ながらこっぱずかしい告白したもんよ、もう。今だったら、もうちょっと洒落た言葉でも添えるんだがね。夢の中の俺はそれで手一杯。顔が熱いわ、手はじんじんと痺れるほど固く握っているわで、マジでダサすぎ。
「なら、ヘーゾー。約束してくれる?」
「約束?」
「そう、大切な約束」
そんなダサい俺にも、夢の中の少女は失望しなかったようで。
なんつーか、定番というか、お約束の事をしてくれた。
優しい声で、小指をそっと俺に差し出してきて。
指切りげんまん。
「ヘーゾー。もしも貴方がね、私の事を大人になっても忘れないでいてくれたら――――」
ゆびきりげんまん。
うそついたらはりせんぼんのます。
ゆびきった。
「うん、わかった! 俺、絶対に忘れないよ! ■■との約束!」
顔も名前も覚えていない、少女との約束。
でも、肝心の約束の内容は覚えちゃいない。
覚えているのは、赤い着物と、黒くて美しい髪。
少女の周りに咲いている、青い花。
ああ、そういえば、あの花の名前はなんだっけか? 前に少女から教えてもらったのに、覚えてねぇや。
はは、最悪だよなぁ、俺。
クソッタレだよなぁ、俺。
ヒーローとは無縁の大人になっちまったよ、俺。
合わせる顔なんて、ありゃしねぇ。
こんなピュアな思い出なんて全然似合わない大人になったってのに。
…………どうして俺は、まだこの夢を見ているんだろうな?
●●●
「はい、はいはい、すみません、ええ。原稿料がそのですね、入金されてなくて。ええ。契約書だと今日に入る予定だったんですけど。んー、ああ、わかりました。はい、そういう。わかりました、んじゃ、そういうことで、他の方にも伝えておきますね? え? 困る? いやいや、おかしいですよね? 困るって。普通に確認するだけですよね? んー、知り合いというか、友達です、友達。そうそう、その人の伝手で仕事紹介してもらったんで…………はい、ありがとうございます。後日確認させていただきますね。ええ、もちろん、確認しましたら」
通話を終了すると、俺はそのまま携帯電話をベッドに叩き付ける。
「ふぁーっく! こっちがフリーだと思って見下しやがって、ゴミが。テメェの所だって三流だろうが、カスが。仕事はしたんだからその分の金はさっさと払えってんだ、ったく。次から絶対、この会社の仕事受けねぇっての、バーカ」
散々悪態を吐いた後、俺もまたベッドに倒れ込んだ。
ああ、マイベッド。素敵なベッド。快眠を求めるために、合計で十万ぐらいかけて作り上げた俺のベッド。
日々のストレスも何もかも全部、寝たらすっきり無くなってくれねーかなぁ。
「…………まぁ、まだ昼だし。昼飯食ってねーし。寝るのは早いか」
昼寝は気分が良いが、休日限定にしておかないと悪い癖になる。
つーわけで、俺は平日、渋々きっちり起きて、仕事をする。飯を食う。近所のチェーン店の牛丼を電子レンジで温めて、冷蔵庫から適当に漬物を出して、口の中に掻き込む。
美味いとか、不味いとか、そういうのは二の次だ。
とりあえず、腹が膨れればそれでいい。
栄養面で足りない部分はサプリメント。後は、週に一度ぐらいを目安に鍋に大量の野菜をぶちこんで、とにかく食べればそれで大体オッケー。
心の栄養分? んなもんは、適当に友達に声を掛けて、遊んだり、たまに旅行すればいいだけ。頻度を弁えれば、生活が苦しくなることなんてない。
「うし、ご馳走さんっと。んで、ええと、午後からは…………あー、工事現場だったわ、だっるい。でも、飯付きで自給良いんだよなあ、ここ。金も日払い即金でくれるし。いやぁ、体育会系の仕事はクソだと思ってたけど、こういう面ではマジで信用できるわー。下手にインテリ気取っている奴だと『無駄な経費の節減』とか言って、金を支払おうとしないゴミ屑が多い事、多い事ぉ」
俺は愚痴を吐きながら、てきぱきと昼飯の後片付けをする。
牛丼の器は水で洗った後、プラスチックのゴミ箱にぶち込んで。食器類は水に浸けて放置せずに、もうそのまま洗って、きちんと拭く。一度でも面倒になると、どんどん増えていくからな、こういうのは。
「つっても、体育会系のオッサンたちはとにかく酒を飲ませたがるからめんどいんだよなぁ。酒の交流とか、マジ勘弁。俺は多少飲めるから良いものの、酒、煙草やらない新人さんとか、すぐに辞めていくからね、あれ」
ぐちぐち、だらだら。
口からクソをひねり出す気分で、つまんねぇ独り言を俺は撒き散らす。
誰かが居る前では意地でも出さない。けど、一人ぐらいの時は良いだろ? それに、一人暮らしをするとどうしても独り言が増えるもんだからな、仕方ない、仕方ない。
「さて、と。んじゃ、行ってきます」
部屋着から外行きの服に着替えて、背筋を伸ばす。
心持ち、爽やかそうな印象で。
んでもって、鏡の前で最終チェック。
「ふ、は」
鏡を見て、思わず引きつった笑いが込み上げる。
きっちり根元まで染め上げた金髪。銀色のピアス。その癖、顔つきはヘタレっぽく、覇気がない。優男。多分、顔にタトゥー入れても全然迫力が出ない根性無しの顔だ。
……いや、事実、俺は根性無しのクソ野郎だ。
大学を卒業して、新卒として入った会社が一か月でまさかの倒産。その後、アルバイトをしながら就職活動をしていたけれど、三ヶ月も経たないうちに、就職活動に飽きた。アルバイトで適当に金を稼いでおいて、んでもって、仕事に飽きたり、やる気が起きなくなってきたら、即座に辞めるみたいな生き方の方が、性に合ってるって気付いたわけ。クソ真面目に就職活動して、大して面白くもない仕事をへらへら笑いながらやるよりは、余程。
つまり、この俺、田辺 平蔵というのはどこにでもいるフリーターだ。
どこにでもいる、根性無しで、仕事が続かない駄目人間。
ヒーローからは程遠い人間性の屑。
他者を簡単に馬鹿にする癖に、テメェも同類の屑であることを自覚している、救いようのない馬鹿が、この俺ってわけさ。
「こんちゃーす! 今日もよろしくおなしゃーす!」
と言っても、自覚しているからといってその屑さを前面に出すのはマナー違反。幸いな事に、一年か二年ぐらいなら同じ職場内で『そこそこ真面目な青年』を装うぐらいの器用さはあるわけで。
今の所、どのアルバイトもクビになったことは無くて、自主退職のみ。
毎回、そこそこ退職する度に惜しまれて、『君なら正社員になれるよ』なんて誘われたこともあったが、うん、まぁ、ボロを出す前に辞めるのが正解。惜しまれている内が花って奴だ。
「おう、田辺。今日、一杯、何時の所でどうよ?」
「え? 加藤さんの奢りっすか!? やったぁ!」
「テメェ、奢る前に言うなっての! いや、奢るけどさぁ! この、調子がいいな、こいつは」
「うへへへ、どうもすんません」
憎まれないキャラクターを演じるのはそこそこ得意。
空気を読んで、境界線を見極めて、分かり易い奴になること。
分かり易い顔をして。分かり易く弱点を晒して。分かり易い長所を演出して。分かり易く、頼って。ああ、後は喜怒哀楽をはっきりと。笑顔も良いけど、笑顔ばっかりだと気持ち悪い。不平を言う時は、言える時に空気を読んで。
それさえできれば、よほどひどい職場でもない限り、それなりにやっていける。
カメレオンみたいに色を変えて、擬態して、まぁ、生きてはいけるさ。
「そう、生きることだけなら、なんとか」
俺は工事現場の仕事終わり、さらに、その後の飲み会も終わり、ようやく家に帰って一息吐いた。飯は居酒屋で奢ってもらったから、そんなには要らない。シャワー浴びて。着替えて。歯を磨いて。寝る前に男性用の美容液をぺちぺち顔に叩き付けて。
ベッドに倒れ込んで、今日も終了。お疲れ様。
「…………でも、なんで生きてんだろ? 俺」
あー、駄目だ、これ。こういうことを考え始めたら病んでいる証拠ですわー。余計なことは考えずに寝るに限る。自分の存在理由とか? 生きている理由とか? そういうことを真面目に考えてはいけませーん。なぜならぁ……その答えをはっきりと言える人間の方が珍しいから。だから、誰も言わない。言ってもしょうがないから。こういうことを言うと、「若いな」と言って笑う人間の中にも、きっちり断言できる人間なんて少ない方だ。
だから、良いんだよ、考えるな。
眠れ、眠れ。
良い夢を見るために、今は眠れ。
――――前は、『生きる理由』が明確にあったかもしれないが、今は無いんだ。もう、何も考えずに眠ればいいんだ。
俺なんか、死んでいても生きていてもどうでもいい人間なんだから。
昨日も今日も、そして明日も。
変わり映えのしない、どうでもいい、量産品の日常を送るフリーターのクソ野郎が、この俺なんだから。
「おやすみ、なさい」
いっそのこと、世界なんて終わってしまえという投げやりな気分になるけれど、世界なんて全然終わらなくて。死ぬ気にもなれなくて。
いつか、俺の性根が腐れ果てるまで、俺はこの日常を続けるんだろうな。
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「やぁ、お兄さん。死にそうな顔をしているけれど、これから自殺の予定でも?」
そう、思っていたんだ。
狐の仮面を被った、妖しげな美少女と出会うまでは。




