第92話 非日常はフィクションでいい 14
青が、涙で滲んだ視界で、遥か遠くに見える青空だけが、俺の心を唯一安らがせる物だった。
それ以外は全て、俺の心を折るための何かで敷き詰められていた。
「……はぁ、はぁ、はぁっ。ん、んんんっ! もう、一度ぉ!」
どっ、という鈍い音と共に右腕に差し込まれるのは、真っ青な槍の切っ先。
どういう素材で出来ているのかは不明だが、重圧の権能を具現化させたそれは、ほんの少しでも俺の肉に食い込むと、体全てを内側から無遠慮に掻き毟られるような激痛を与えてくる。
「ぎ、ぎぎぎ、が、あっ」
「ああ、あああっ、我慢しているのだな、見崎神奈ぁ。大丈夫だ、楽にしろ、そうだ、もっと力を抜け。そうすれば気持ちよくしてやるから……なっ!」
「っづあぁあああああああああ!!」
加えて、槍から伝わってくるのは激痛だけではない。
青い天使が感じている醜い嗜虐心が、情欲のような何かが、どろどろと精神に直接注ぎこまれるような悪寒を感じてしまう。
まるで、心を無理やり犯されているような最悪な気分だ。
無事に生きて返っても、エロ関係は和姦モノオンリーになりそうなぐらいの、最悪な気分。
「なぁ、ここか? ここが痛いのか? ほら、ここを刺されちゃうと死ぬぞ? なぁ、命乞いはしないのか? どうするんだ?」
「……こ、の――――」
それでも、俺は諦めない。
針のむしろに投げ入れられたかの如き苦痛と、汚泥に沈められたような不快感の中、反撃のっ手を探る。どうにか、一撃でも加えてこの状況を脱しようと考える。
「はは、残念だったな! 加圧を緩めたのはわざとだ! よぉし、そこかー。そこに隠し武器があるのだな? ははは、悪い奴だなぁ、見崎神奈。これは、おしおき、だっ!」
「あっ! ああああああっ! やめ、ろぉっ!」
「やめるわけがないだろう? 貴様がさっさと諦めないから、こうなるんだ。心配するな、悪いようにはしない。ただ、貴様が無駄な抵抗をしないように……ちょっと四肢を動かなくするだけだからな」
けれども、この変態天使は本当に厄介だった。
変態であるからこそ、俺を侮らない。俺をしっかり観察して来る。俺の一挙一動を見逃さず、反撃も逃亡も許さない。
俺に回復系の装備やアイテムが無いことを確認してから、きっちりと四肢に槍を突き刺して動きを封じるという、偏執的なまでの徹底さだ。
正直に言えば、この時の俺に勝算などは無かった。皆無だった。ただ、こんな変態に殺されるのだけは御免だ、という意地だけで精神を保っていた。
「ふぅ、ようやく大人しくなったな、見崎神奈」
「ぐ、う」
「動けないだろう? 動けないな、うん。そうか、そうかぁ……」
粘着質な歓びを現す声を上げると、ゆっくりと【失墜の青】は兜を外して、自らの顔を晒した。それは、とても美しい容姿をしていただろう。美を追求したらしい、【黒色殲滅】よりも鮮烈さは劣るが、人類では到底及ばない美少女の顔だ。青い髪に金色の瞳。女性的な美しさを持ちながら、戦士としての凛々しく、苛烈な気性も感じさせるクールビューティな容姿である。
何の因果も無く、街中ですれ違っていたら一目惚れでもしていたかもしれない。
――――その顔が、情欲で蕩けて、艶やかに歪んでいなければ。
「んちゅ、ん、んんぷはぁ……ははは、おかしいなぁ。汚らわしき人間の血液のはずなのに、何故だか、とても甘美に感じる。いつまでも、何度でも、こうしていたい」
風呂上りのように上気した顔で、【失墜の青】は槍の切っ先に付いた俺の血液を舐める。
はしたなく、何度も。
切っ先に唾液を、粘膜を絡ませて。
「何度も、何度も、何度もぉ!」
「――――――ぁああああああああああああああああ!!!?」
情欲を叩きつけるように、何度も、何度も、何度も、俺の体に槍を突き刺した。
殺さないように、けれど、痛みを感じる部分を探して。
肉を貫く程度の、気圧されて居なければ、四肢を貫かれていなければ、反撃すらも可能な程度の怪我が、精神を陵辱する最悪の痛みと屈辱を与えてくる。
「あ、ああっ! ああああっ! 駄目だ、これは駄目だ! 駄目になってしまう! はぁっ、はぁ、はぁっ! 気持ち良すぎるぞ! あははは! こんな快楽を知らないなんて、他の同僚は損をしている! あはははは!」
「…………あ、が」
時間にしてみれば、たった十分ほどだったかもしれないが、俺にとっては一夜よりも長い。ひしひしと、絶望が精神を手折ろうと冷たい手を伸ばし、今や、異能の維持すら難しくなってしまっていた。いや、一瞬でも気を抜けば、意識を手放してしまうだろう。
「はぁ、はぁっ、んんんっ。だ、だめだ、私ぃ。駄目だぞぉ、もっと、もっと味わってからでないと……で、でも、駄目だ! 我慢できないっ!」
「――――――」
そこに、どすりと、堰を切ったかのように、俺の下腹部に槍が突き立てられた。今までの痛めつけるそれではなく、命にすら関わる一撃。灼熱の汚泥が注ぎ込まれたかの如き、正気を失わせる不快感。異物感。
当然の如く、俺は声も無く悶絶した。
抗おうと思う意思すらその時は無く、早く苦痛が終わらないかばかり願っていた。
「――――あ、ああああっ! あああああああああああっ! な、なんだ、この快楽っ! この感情は! 槍から伝わってくる見崎神奈の暖かさが、なんだ? 心地良い? そうか、これが、これがマザーの言う『愛』か! ついに、私は『愛』を会得したのだな!」
雷にでも身を打たれたかのように【失墜の青】は体を震わせると、脳が茹だったかのような戯言をほざく。
「あははは、遂に見つけたぞ、私だけの『愛』を! そうと決まれば、このまま殺すのはもったいない。見崎神奈の首から上を切り取って緑の技術で保存。何度貫いても問題ない肉体を与えるように、マザーに頼み込んでみよう。ふふふ、もちろん、首から下は勿体無いから、出来るだけ楽しんでから、だが。ああ、いいなぁ、これは。『愛』とは素晴らしいなぁ。私を産んでくれてありがとう、マイマザー」
人間離れした青髪の美少女が、歓喜に震えながら自らの生を実感している姿は、傍から見れば美しく感じただろう。
いや、俺ももしかしたら美しいと思ったのかもしれない。口の端から垂れて来た涎が、俺の傷口にぴちゃぴちゃと、入って来なければ。
「…………」
もはや、何の希望も見いだせない絶望的な状況だ。
このまま生きていても、この変態天使の玩具にされるだけの結末が待っている。ならばいっそ自害した方がマシだろうが、四肢は動かせず、舌を噛み切るだけの気力もない。
完全なる敗北が、青の絶望が、俺の精神へとのしかかり、完全に圧し潰そうとしていた。
「じゃあ、君はこのまま何も為せずに死んでいくのだね? 友である彼に、癒えぬ傷と罪を与えて。ふふふ、それはなんて愚かな事だろう? 誰かを助けようとして、結局、大切に思う誰かの足を引く結末になるなんて」
その時だった。
俺の耳元から、どこかで聞いたことのあるような、幼さの残る少女の声が聞こえたのは。
俺の全てを嘲笑うが如き、言葉が聞こえたのは。
「……ざ、けるな」
幻聴だったかもしれない。
血を流し過ぎて、幻聴やら妄想やらがごっちゃになって、本来、聞こえない声でも聴いてしまったのかもしれない。
けれど、結果的にそれが俺にとっての激励となった。
そうだ、俺は知っている。友達が先に死んでしまう痛みを、悲しみを! 苦しみを! そんな物を、そんな最低の気分を、石神に遺していけるものかよ!
「――――ふざけるなぁ!」
「お?」
がちんっ、と頭の中で重々しい何かのスイッチが入ったような感触があった。
あの日、運命のあの日に覚醒した時と似たような感覚。
頭の中に熱いのに冷たくて、妙に視界は冴えている。けれど、それ以外の体の感覚が全て曖昧になって――――――気づけば、俺は手に朽ちたナイフを握っていた。
「あ、は、ははははっ」
倒れていた状態ではない。
立ち上がって、【失墜の青】の左腕を特注のナイフで刻み、焼き焦がしていた。ナイフを振り抜き、槍に貫かれながらも、俺は毅然と目の前の敵を睨みつけていた。
まるで、仮定を省略して、こういう結果だけを引き寄せたかのように。
何が起きたのかは分からない。
何が出来たのかも分からない。
「あははははっ! そうだ、それでこそ、見崎神奈だ! 我が敵対者にして、『愛』の在処! ははは、いいだろう、気付けばもう時間切れだ。貴様の検討に免じて、この場は譲る」
ただ、反撃を受けたはずの【失墜の青】はとても嬉しそうに笑みを浮かべていて。
「では、また会おう、見崎神奈。次は、もっと私を気持ち良くしてくれ」
気色悪い言葉を最後に、その場から転移したのだった。
「…………あ?」
何が何だか分からなかった。
手の中で朽ちて、ぼろぼろに零れていくナイフも。
一瞬にして姿を消した、機械天使の思惑も。
謎の声の正体も。
自分自身が何を成し遂げたのかも分からず。
唯一、理解できたのは体を貫く鈍い痛みと、曖昧な脱力感で。
「なんだよ、くそが」
俺は、悪態を吐いてそのまま仰向けに倒れることしかできなかった。
じわじわと狭まる視界。
先ほどまでの不快感は無く、どこか心地良い涼しさに体が包まれて。
「へぇ、結構やるじゃないか、君」
聞き覚えのある少女の声と、俺を見下す道化師の姿を最後に、俺は今度こそ意識を手放したのだった。




