第89話 非日常はフィクションでいい 11
ごぉおおお、というガスバーナーの音が実験室で鳴っている。
ガスバーナーから吹き出ているのは、青と赤の中間の色をした炎。それが、金網の敷かれた台に乗っている、ビーカーの底を熱する。ビーカーの中には、琥珀色の液体が六分目まで注がれており、それがこぽこぽと気泡を立てて沸騰していた。
「んぎぎぎ、物資が足りないわねぇ、やっぱり」
目の前でビーカーの中の液体が沸騰しているというのに、眼前に居る人物は全く気付いていない。
ぼさぼさの茶髪を、がしがしと左手で掻き毟り、右手はノートに何やらペンを走らせている。ノートの内容を覗いてみたが、難し過ぎて何が書いてあるのか、よく理解できない。
…………仕方ないな。
「おい、沸騰しているぞ、お前の淹れたコーヒー」
「金属は足りてんのよ、金属は。もっとさぁ、たんぱく質。たんぱく質が欲しいわね。でも、食料は貴重だし……アメリカ産のモンスターを何匹か飼って、家畜にすれば……」
「駄目だ、聞いてねぇ」
こういう時のこいつは駄目だ。自分の思考に集中し過ぎて、外部の情報をまったく受け取らない。そのため、基本的にこいつは戦闘では無く、装備の生産担当だ。
もっとも、そういう消極的な理由だけで裏方になっているわけではない。こいつの異能はとても応用が利く物であり、ぶっちゃけ装備やアイテムの開発はこいつ一人の双肩にかかっていると言っても過言では無いほどには重要な人材なので、些細なことで怪我をさせるのは惜しいのだ。
「……はぁ」
なので、渋々俺が動くことに。
木製の実験ばさみで熱されたビーカーを掴み、コーヒーカップに沸騰した中身を半分ぐらい注ぐ。そのまま出すのも気に入らないので、ちょっとした悪戯心でクリームと角砂糖を限界までぶち込んだ。
うん、これで良し。
「ほら、熱いから気を付けて飲めよ、久城」
「ん」
こいつ……久城は、渡されたコーヒーカップを何の疑いも無く掴み、そのまま口元でゆっくりと傾けた。
「…………んー」
そして、おもむろにこちらに手を伸ばし、角砂糖をがっつりと鷲掴み。そのまま、コーヒーにぶち込み、じゃりじゃりと音が鳴るほどの量を銀のスプーンで混ぜ込んだ。
おい、溶け切ってねぇぞ、それ。
「じゅるるるるる、んんー、閃いた」
「何が? つーか、大丈夫? 頭が痛くなるほど甘くない? それ」
「これが私の飲み方よ。それで、見崎。頼みがあるのだけれど?」
「とりあえず、言うだけ言ってみろよ」
「改造人間を造りたいから、秘密裏に人材を――」
「却下だ、馬鹿が」
びしぃ、と俺は異能を使い、相手の正面に居ながら相手の意識からはずれた状態でデコピンをかますという、無駄に高度な技術で久城に制裁を下す。
「いたぁ!? この、異能を使ってまですること!?」
「痛く無ければ反省しないだろ、お前は。そして、異能を使わないとお前は絶対、異能で抵抗する」
「はぁ!? 当たり前じゃない。貴方の肉体に干渉して、TSさせてやるわ!」
「やめろや」
久城は涙目で額を抑えながら、こちらを睨んでくる。
俺は実験室のテーブル越しに一定の距離を取りながら、嘲笑を返す。間違っても、こいつの射程内で煽ることなど出来ない。
久城の異能は、改変、改ざん、干渉、改造と、とにかく物質に何らかの手を加えることに特化した物だ。
異能名は【ワールド・ハンド・テイスト】という。
効果は、その手で触れた物に対して、異能の強度が及ぶ範囲で干渉を行うという者だ。直接触れなければ干渉は出来ないという限定された条件下ではあるが、普通の学生服に防弾防刃の効果を付与したり、死にかけの人間の肉をどろどろに溶かした上で、健康な状態に再構成するなど、知識と想像が及ぶ範囲で、絶大な効力を発揮する異能だ。
その気になれば、ガチで俺をTSさせることすらも可能だろう。
そう、改造人間とやらを生み出すことさえも。
「久城、脳を酷使しすぎだ。効率的な判断を優先して、倫理観が欠如しているぞ? 大体、最後に寝たのはいつだ? 風呂に入ったのは? お前の異能で無理やり脳を冴えさせて、体を浄化させて、色々と省略しているんじゃないか?」
「倫理観が欠如したのは悪かったと思うわ。機会があれば貴方を美少女に変えてやろうとは思うけど。でもねぇ、見崎。今更、今更じゃない? ねぇ、今更、倫理観程度に拘っている程度の狂気で、あの超越者どもに対抗できると思っているの?」
じゃりじゃり、と溶けかけた砂糖を齧りながら、久城は苦言を吐く。
「今月に入って、戦闘班の奴らが三人死んだわ。私たちの学校出身で、一つ上の先輩たちよ。彼らは、大きなミスをしたわけじゃなかった。何かを間違えていたわけじゃなかった。ただ単純に、自分よりも強い上位眷属と戦って、他の奴らを逃がすために順当に死んだの。強ければ、もっと強ければ、生き延びることが出来たの。倫理観だけじゃ、人は強くならない。今、私たちに必要なのは、倫理でも道徳でもなく、力よ」
「力ね。じゃあ、どれだけ強くなれば、俺達は勝てるんだよ?」
「…………それは、少なくとも、あの機械天使を倒せる程度には――」
「あいつらの権能に匹敵するほどの改造人間を、お前は造り出せるのか? 倫理観を一切無視した末に、あいつら一体分の戦力でも造り出せる保証があるのか?」
「…………無い、わよ、くそが」
忌々しく顔を歪めて、久城は己の頭を乱暴に掻き毟る。
機械天使。
機械神が造り上げ、権能を分け与えた美しき眷属たち。
彼女たちの力は、上位眷属すら軽々と上回り、俺達の異能を凌ぐほどの能力を機械神から与えられているのだ。
例えば、我らが怨敵である【黒色殲滅】の機械天使に与えられている権能は『空間支配』。全ての空間を支配し、自在に干渉することが可能な恐るべき能力だ。
奴の前では、どれだけの頑丈さを持った存在であっても、空間ごと破壊される。また、どれだけの破壊力を持った力であっても、空間を遮断すれば通らない。千里の距離が隔てて居ようとも、座標さえ把握していれば、即座に空間を転移することだって出来るのだ。
…………正直に言えば、戦える異能者の中で、奴ら機械天使に対抗できる存在は、石神だけだ。それ以外は、話にならない。戦う以前の問題である。
「落ち着けよ、久城。結論だったら、最初から石神の奴が言ってただろ? 俺達は、精神を狂わずに保ったまま、高みに上らないといけない。あらゆる困難に折れず、己の精神を成長させることこそが、唯一にして最大の効率だ。仮に、お前の案を採用して戦力が上がったとしても、最終的に機械天使すら上回る、機械神を討たなければ無意味なんだ」
「…………………………知ってる。最初から」
「ああ、俺だってお前が罪悪感で苦しんでいることも知っているさ。直接戦闘に出る戦闘班に対して、自分が安全な拠点に居ることを申し訳なく思っているんだろ? でもな? そんな俺達を支えているのは、間違いなくお前が作った装備や、アイテムだ。誰一人として、お前に文句を言う奴は居ない。そんな奴が居たら、俺が背後から蹴り飛ばしてやる」
「見崎……」
「もちろん、石神の奴の代わりに、だけどな?」
「――――んんあ!?」
しゅぼ、と歪んでいた久城の顔が一瞬にして真っ赤に染まった。
くくくく、いやぁ、分かり易いなぁ、こいつは。
「本当だったらこういう会話も、石神にしたいし、石神に諭されたいと思うが、まぁ、奴は忙しいんだ。今は、この俺で妥協しておけ。そうだな、もうちょっと戦況がマシになったら、思い切ってデートに誘ったらどうだ? 石神はお前に、悪い印象は抱いてないみたいだし」
「んあ、んあなななあああああああああにお、いってりゅかぁ!」
「落ち着けよ、久城。コーヒーをぼどぼど零している」
「う、うっさい、ぼけぇ!」
「おっと」
俺は投げつけられた中身入りのコーヒーカップを華麗に避ける。
かしゃん、とカップが割れるが、あの程度の備品を修理することなど、こいつにとっては造作もないから問題ないな。
「なんでわかった!?」
「見てりゃ分かる」
「嘘だ!?」
「本当だ。だってお前、石神とそれ以外の奴だと空気の『ふんわり具合』が全然違うもん。というか、勘が鋭い奴だったら大体察している事実だし――」
「うわぁあああああ! 出てけ、ばかぁ!」
「はいはい、わかったよ」
興奮状態の女子とまともに取り合ってはいけない。肩を竦めて、さっさと実験室から出ていくことにしよう。
…………これで、少しはストレス発散になればいいんだがなぁ。
「やぁ、相変わらず仲が良いんだか、悪いんだかだよね、君たちは」
「なんだ、聞いていたのなら、入って来ればよかったのに」
俺が実験室へと出ると、すぐそこに石神が苦笑して待っていた。
学生服姿で、汚れ一つ見つからない完璧な身だしなみ。
顔色も健康そのもので、問題は無い。
「僕じゃあ、宥めることはできるけど、奮起させるのは難しいからね。君がやってくれて助かったよ、見崎」
「お前にやれないことをやるのが、俺の仕事だからな、石神」
「あははー、うん。頼りにしているよ、凄く」
「…………ああ、任せておけ。だから、お前も少しは休め」
だが、俺には何となく分かってしまった。
互いに罪を分かち合う共犯者であり、友達であるから、分かってしまった。そういう風に装っているだけで、確実に見えない部分に疲労を隠しているのだと。
「機械天使の一人でも殺したら、思う存分休むとするよ」
「んじゃ、その内、俺がぶち殺してやるよ。まずは、黒色の首を刎ねてやる」
「あははは、そりゃ楽しみ」
いつの日か、また前のように他愛なく笑い合える日が来るだろうか?
いつか打ち倒さなければならない絶望に怯え、苦しまない日が来るだろうか?
――――運命のあの日から三ヶ月経った今でも、俺達はまだ、具体的な希望の一つも見つけられずにいた。




