第79話 非日常はフィクションでいい 1
「馬鹿なことをやったねぇ、君は」
嘲笑う声が聞こえる。
深い、深い、夢の根底。足掻くことの出来ない薄暗い水底にも似たそこで、俺は道化師の少女――クロエに嗤われていた。
「そもそも、存在を分割して認識を分けている時点でアウトだね。人間は本来、主観を一つしか持てない。複数の主観を持った場合、脳が矛盾を受け入れられずに自我が崩壊することだってあるんだよ? 君がある意味で曖昧な異能の所持者でなければ、分割した時点でアウトだった。けれど、まぁ、君が無茶するのは今更だね。ただ、今回ばかりはその無茶の範囲が大きすぎた。ねぇ、分かるだろう?」
ほとんど何も見えないはずの、薄暗い空間。
しかし、クロエが嗜虐的な笑みを浮かべて俺を見下す姿は、良く見える。夢なんてそんなものかもしれないが、奇妙な気分だ。
「よりにもよって、君の分身は深度4にまで異能を進行させた。そして、終いには出会って一か月も経たない少女を助ける為に、文字通り、自分の身を削って異能を使い切ってしまった。だから、君の下に分割した認識が戻ることはない。既に別物になってしまっているからね。まったく、君って奴はどこまで愚かで、何処までお人よしなのだろう? 誰かを見捨てるということ知らないのかな? んん?」
俺を言葉で詰りながら、クロエは嘲笑と共に俺の頬を思いっきりつねってくる。
おいおい、夢の中なのに痛いんですけどぉ?
「痛くしているから当たり前だとも。痛くしなければ人は学ばないだろう? もっとも、君は痛くしても学ばない愚か者だけれどね」
というか、え? 何? 意識が繋がってんの? いつの間に繋げたの? 夢かと思ったけど、白昼夢系のアレじゃん、これ。契約の縁を辿って、精神に干渉してんの?
「大体合っているけれど、正確に言えば違うよ。君の魂には既に、私の因子を植え付けてあるから、それを基点にして別次元を経由して君に干渉しているのさ」
うん、さっぱり理解できねぇわ。
「私も君が理解できるとも思っていない。大体、こうして干渉するのも私としては不本意なのだよ。君が愚かさの果てに朽ち果てて、私の下に戻ってくるのは喜ばしいが、その過程で君があまりにも変質し過ぎるのは頂けない。君自身の選択の末に変わるのはいいかもしれないが、今回のように認識が欠けてしまうと、突然、人格が大幅に変わってしまうこともあるんだ」
そこで、クロエは人を嘲笑から、無邪気な笑顔へと表情を変える。
だが、俺への攻撃の手は緩んでいない。むしろ、べしべしと、俺の頬をひっぱたいたり、首元にチョップを入れてきているのだ、これはガチで怒っている時の表情だと理解。
クロエはガチで怒ると良い笑顔になるから怖いのだ。
しかも、精神的地雷の位置が微妙に分かりづらい。
俺が愚かな選択をすると『流石、凡愚の極みだねぇ』と嬉しそうに俺を嗤う時もあれば、『は? なにやっているのかな? 君は』と今回のようにガチギレする場合もある。
やっぱり、超越者の思考は理解するには奇妙過ぎる。
「人の事を言えた立場ではないと思うよ、君は。何せ、この回の件、実の所、まったく後悔していないのだろう? 仕事の途中で、こんな様になった癖に」
そりゃあ、な?
きっと、分身の俺は俺であることを全うして消えたんだから、むしろ誇らしいぜ。つか、お前との契約が無ければ、俺が自分を対価に世界を安定させてそれで終わりだったんだがなぁ、おのれ。
「その件に関してだけは、君の仲間からガチでお礼の言葉を貰ったことがあるよ? 私はその愚かさも好きだけれど、流石に、今回みたいなことが何度もあると怖いから、反省してもらいたいのだけれど……ふうむ」
ぴたり、とクロエが攻撃の手を止めて、何やら思案を始めた。
まずいなぁ、これは。脊髄反射の如き勢いで大体、全ての出来事をノリで決めているクロエが、考え込むということは即ち、ろくでもないことを企んでいるということだ。
俺はさっさとこの白昼夢から覚めようと、精神世界の中でも己の異能を使って無理やりにでも覚醒しようとする…………のだが、うまく異能が働かない。
「今の君は半ば、私と意識を融合させた状態だから異能の使用は不可能だよ。さて、そうだね、、良いことを思いついた。痛い思いをしても懲りないのならば、『君以外の嘆きと痛み』を思う存分、振り返ってみるといい。そうすれば、少しは命ある現状のありがたみという奴が、理解できるんじゃないのかな? うん、これは名案だ」
嫌な予感は見事に的中した。
クロエがとても優しい手つきで俺の頭に手を乗せてくる時点で、もうろくでもないことになることを俺は確信していたんだ。
「私が君の認識を補っている間に、君は過去を追体験してみるといい。君がまだ、『どこにでもいる男子高校生』から、英雄になるまでの道程を、今の精神で振り返ってみるといい」
ぽん、と優しく俺の頭が叩かれると、そのまま俺はより深い水底へと沈んでいく。まるで、底が抜けて、水が抜け出ているかのような急速な沈み具合だ。
先ほどまで静かだった空間が、途端に荒れ狂う水流で騒がしくなってしまう。
「さぁ、存分に楽しんでくれたまえ。君の黒歴史を。死臭漂う、青春時代を」
心臓の鼓動の如き、喧しい水流に飲まれながら、俺の意識はどんどんと流されていった。
まだ、俺が何者でも無かった、あの頃の回想へと。
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大体の男子高校生はそうだと思うが、この現実という奴は何もイベントを用意してくれない。
まず、美少女の幼馴染なんて居ない。仮に、ちょっと可愛いなぁ、という女子の幼馴染が居たとしても、幼稚園や小学校に通う頃には一緒に遊ぶことなんて、ほとんど稀になり、接点など無くなってしまう。
そもそも、小学生というのはどうにも男子と女子の間で諍いが起きやすく、男子が女子と、あるいはその逆で、女子が男子と遊んでいると反感を買いやすいのだ。多少は成長してから振り返ってみると、当時の言動などは愚か過ぎて思い出したくないくらいだ。
だからまぁ、少なくとも、俺の周囲では生まれた時からずっと仲のいい幼馴染なんて存在は、ほとんど居なかった。
居なかったのだが……ううむ、やはり高校生にもなると世界が広がる物だな。
「ハル、ハル! 放課後、一緒にカラオケ行きましょうよ! 新しい曲が、今日入ったらしいの! 一緒に歌いに行きましょうよー」
「ええぇ、僕は普通に部活動があるんですけど?」
「あのハーレム部に行くの? 今日も?」
「ハーレム部言わないでよ、文芸部だよ……確かに、僕以外の男子は幽霊部員だけどさ」
「駄目よ、ハル! 不健全だわ! 私という物がありながら!」
「ないよー、全然ないよー、ことっちゃん。友達以上はちょっと辛いよ、君は」
「友達以上は辛いの!? 幼馴染なのに!?」
まさか、漫画やライトノベルのように美少女の幼馴染が居る男子を発見することになろうとは思わなかったぜ。
ハルと呼ばれていた彼の本名は石神 春渡。
中肉中背で、茶髪。中性的な顔立ちのベイビーフェイスだが、水泳の授業などで確認すると、意外と細マッチョだったりするという、『どこの主人公だ、お前は?』って思わず、言いたくなるような奴だ。
成績は中の上。運動だってそれほど悪くない。部活動は何故か、石神以外の部員が全員美少女というよくわからないシステムの文芸部に所属している。
なんというか、マジかー、お前、マジかー、みたいな経歴の男子だ。
ぶっちゃけ、俺も含めた男子の大半からは。嫉妬するよりも先に、どん引かれている。何せ、何もイベントが起こらないクソつまらない日常を繰り返すのが俺たちの現実だったはずなのに、いつの間にか別のジャンルから乱入してきたとしか思えない存在が、そこに居たのだから。
もちろん、嫉妬しないわけじゃない。むしろ、嫉妬は男として物凄く感じるが、それ以上に近寄りがたい物がある。
そう、彼の、石神の近くに行くとまるで、自分自身が『なんともつまらないモブ』として劣等感を覚えてしまう。
何せ、大抵の男子高校生と言うのはこの石神とは違い、つまらない現実をどうにかやり過ごして、何のイベントも起きない日常の中で、懸命に足搔いているのだから。
目の前に『主人公』が居ると、やるせなくなってしまうじゃないか。
「おおい、何やってんだよ、神奈」
「さっさと駅前のラーメン店行くぞ、おい」
「お前が例のジャンボラーメンに挑戦したいって言ったから、態々人数揃えたんじゃねーか」
「あれ、凄いよね。態々特注のラーメンどんぶりを使っているらしいぜ?」
だけど、まぁ、それでいいんだと思う。
俺には平凡で退屈な日常しかないかもしれない。
部活に熱心に打ち込むこともせずに、だらだらと放課後と友達と一緒に馬鹿なことをやるだけの、どこにでも居るようなつまらない人間かもしれない。
「ああ、わりぃ! 今すぐ行くぜ! さぁ、ジャンボ激辛ラーメンを俺達の手で攻略してやろうぜ! 各々、財布と胃薬の準備は良いか!?」
「おーう」
「うーい」
「馬鹿だよな、俺達」
「でも、他にやることも無いからいいんじゃね? 別に」
でも、傍から見たらつまらない事この上ない日常でも、悪くはない。
きっと、悪くないと思うんだ。
週刊誌の新連載で呼んだ漫画は面白いから、新しく毎週の楽しみが出来たし。
少しばかりお金を出せば、コンビニで美味しいスイーツと肉まんだって食べられる。
友達と馬鹿話で、そこそこ盛り上がれる。
家に帰れば、少々奇抜な性格だけれど、愉快で優しい両親が居る。
ああ、そうさ。俺の日常はありきたりで、つまらなくて、平々凡々のクソみたいな現実かもしれないけど、悪くはない。
このまま、退屈と安寧の中で、日々の楽しみを見つけていくだけの日々を、妥協しながら愛してやるのも、それなりに良い物だと思えて来たんだ。
「…………けど、なにか一つぐらい、面白い事が起きないかねぇ? なぁ、つまらないクソッタレの現実を用意してくれた神様よぉ」
ただ、それはそれとして、何かイベントを望む欲望は当然のようにあったのだけれど。
冬にこたつの中でアイスを食べたく思うように、当時の俺は、いいや、俺達は平穏のありがたみを何となく自覚しつつも、それでもスリルと非日常を求めていたんだ。
それが、どれだけ悍ましい物なのかを、知る由もなく。




