第32話 そして、剣は振り下ろされた 14
少女の生活は『魔女さん』と出会って一変した。
「さぁ、まずは健康が第一よ」
今まで食事など、一日に二回出来ればマシな方。最低、一日一回、空腹を紛らわすために固いパンを齧り、水を舐めて糊口を凌ぐ日々だった。ご馳走が食べられるのは、盗賊として弱者から略奪した後のみ。それ以外は、惨めで貧相な生活を送って来た。
そんな少女の与えられたのは、『魔女さん』の家庭料理。見栄えも綺麗で、栄養面も考えられた上に、当然、美味いという家庭料理の理想形だ。そんな物を与えられれば、ゴミクズみたいな食生活を送っていた少女が瞬く間に魅了されるのも道理だろう。
美味い上に、後先考えずに食べても健康に害が無い。それどころか、お腹いっぱい食べて、清潔なベッドで寝て起きたら、体の調子がかつてないほどに良くなっている。規則正しい食生活が与える利点を、少女は初めて経験していた。
「健康が整ったら、次はお勉強。安心しなさい、愚かな貴方でも分かり易く教えてあげるわ」
空腹が満たされ、健康面で余裕が出ると、少女は手持ち無沙汰を感じるようになった。
そこを見逃さず、『魔女さん』は少女に対して、様々なことを教え始める。
簡単な計算から、日常の役に立つ物理の演算まで。
世界の歴史や、世間の常識について。
魔術と呼ばれる、世界を操る学問さえも。
手間暇を惜しむことなく、『魔女さん』は少女へ教え込んだ。同年代の子供と比べて、あらゆる物を知らなかった少女であったが、『魔女さん』は、口は悪いが、教師としての腕は一流。また、少女自身の地頭も悪くなかったので、すぐに様々な知識を己の血肉として蓄えていく。
「たっぷり学んだわね? なら、そろそろ実践しましょうか」
知識を蓄えた少女に待っていたのは、『魔女さん』からの苛烈な訓練だった。
少女が自立しても生きていけるようにと、『魔女さん』は今までの優しさが嘘のように厳しく、厳しく、それこそ、少女が『死なせてくれ』と泣いて懇願するほどしごいた。
己が授かった特殊能力の使い方も知らなかった少女は、歴戦の兵士がドン引きするほど苛烈な戦闘訓練を繰り返させられる。たった一人でも、中位の魔物程度であれば確実に殺せるように。
他者から奪うことしか、生きる術を知らなかった少女は、ナイフ一本でも山中で一週間生き延びるサバイバル訓練をさせられた。本気で死にかけた時は、『魔女さん』が無理やり蘇生して、健康面を整えてから、再び、一週間続けてサバイバルを遂げるまでやり直させた。
「ころして……ころして……」
「よし、見事にやり遂げたわね。それじゃあ、これで最後よ」
『魔女さん』のブートキャンプを乗り越えた少女に与えられたのは、一枚の紙きれだった。『魔女さん』と出会う前の少女であれば、首を傾げて終わりだっただろうが、その時の少女は既に理解していた。
それが、己の戸籍を示す証明書であることを。
「貴方の経歴を適当にでっちあげて、作った代物よ。でも、安心しなさい。一応、ちょっとしたコネで作り上げたクリーンな経歴だから」
「ええと、その、これでどうすればよろしいのですか? 『魔女さん』」
「履歴書を書いて、就職先を探しなさい」
「履歴書」
「一定期間の滞在費はこれくらいね。言っとくけど、就職せずに帰ってきた場合、貴方には、また一から私の教育を受けて貰うわ」
「つまり、精神的な死刑……ぜ、絶対、就職して来ますわ!」
少女は街へ向かい、死に物狂いで就職活動を始めた。
今まで培った技術と知識を使い、さらには、盗賊時代で習得したエアリーディング能力で、様々な人との交流を無難にやり過ごす。
そして、何とか少女は就職先を見つけることが出来たのだ。
もっとも、その就職先がまさか教会で、しかも、シスターとして勤めることになるのは、少女は全く予想していなかったのだけれども。
「この眼鏡の効果、とてもすごいですわね、『魔女さん』。誰も私が黄昏の民だと気づきませんでしたわ」
「そりゃあ、私が作り上げた魔導具だもの。たた、見る者が見れば、看破されることもあるから注意しなさいな。ああ、それと、就職おめでとう、レイネ」
「ありがとうございますの、『魔女さん』! 全て、貴方のおかげですわ」
「そう、それはよかった。私も、貴方が自立できるまで成長してくれてとても嬉しいわ。ええ、この後を考えると、とても愉しいわね」
「…………『魔女さん』?」
少女は『魔女さん』の下から解放されて、ついに自立した生活を送るようになる。
最初は不安だった少女も、街での生活は正直に言って『魔女さん』からのしごきに比べれば、温いもので、どのような厄介事が起きても、少女は常に余裕を持って対処できた。
余裕のある態度と、しっかり裏打ちされた実力の所為か、少女は教会の中でも有望な新人株として扱われ、いつの間にか新しく建てられる孤児院の管理を任せられるほどまで成長することに。
「ああ、これが幸せということですのね、『魔女さん』」
今日明日の食べる者に困らず。
きちんと身なりを整えて、毎日生活な服で生活が出来る。
仕事場では周囲から頼りにされて、自分も、自分自身の実力に自信を持ち、職務に誇りを持って取り組むことが出来る。
もちろん、人間関係も良好だ。
最初は上っ面だけだった関係も、仕事と生活を重ねるにつれて、段々と本物の情が混じった関係へと変わっていく。
鬱陶しい同僚は、頼りになる友達に。
喧しい孤児たちは、愛すべき子供たちに。
少女が大人になる頃には、いつの間にか、少女は人並みの優しさと愛情を手に入れていた。奪うだけだったはずの少女が、誰かと手を取り合い、誰かに何かを与える立場になれた。
そう、だからこそ、
「――――ああ。これがあの時死んでおいた方が、楽になれるという理由ですのね」
少女――レイネは、今更になって過去の所業に苦しむことになる。
感性が真っ当な物になったからこそ、レイネの心は己の罪悪に蝕まれる。
かつて、己が騙して殺した『愚か/善良』な大人の顔を思い出す。
かつて、己がかどわかした『馬鹿/無垢』な子供の末路を思い出す。
かつて…………瀕死の自分を助け、黄昏の民であることを知ってなお、自分に手を差し伸べてくれた救い主に対して、自分がやった最低最悪の行為を思い出す。
「あの時、死んでいれば……そう、ですわね。確かに、楽になれましたわ」
そこから先、まともな感性を得てからのレイネの人生は、常に苦しみと隣合わせだった。
誰かの笑顔を見る時、誰かの苦悶を思い出す。
誰かの命を救った時、誰かの死を思い出す。
誰かから愛を向けられた時、それを振り払った愚者を思い出す。
幸せな夢を見た後に、己を糾弾する亡者の群れに切り刻まれる夢を見る。
「少なくとも、こんなどっちつかずのまま、生きては居なかったでしょうに」
レイネは、迷っていた。
幸福と苦しみの狭間で、揺れ動いていた。
かつて、最低最悪の所業を為して生きて来た自分が、こんな幸せに浸かって生きていて良いのか? それとも、罪悪感に苦しみながら、誰かを傷つけた以上に誰かを救い続ける日々を遅れうべきか? でも、それで罪を償えるのか? いや、そもそも、罪を償うという発想が間違っているでは無いだろうか? 罪を償えると思わず、それでも、罪を贖うために、何か行動を続けることこそが、今の自分に相応しいのでは? けれど、家族を殺された者からすれば、そんな葛藤すら贅沢なのでは? 今すぐ、首をくくって死ぬべきなのでは? でも、それで子供たちに迷惑が掛かるのは避けるべき、けれど、けれど、でも。
「ワタクシは、どうすればいいの?」
生きるべきか、死ぬべきか。
その答えはまだ、出ていない。
けれども、レイネは思うのだ。
もしも、もしも変わり果てた己を見つけて、過去の復讐を為そうという者が現れたのならば、素直に、その刃を受けようと。
レイネ自身、呆れてしまうほどの優柔不断にして卑劣な考えだと思っていた。
己の答えを、見知らぬ誰かに委ねて、迷ったまま時間を引き延ばしている。卑怯者で、臆病者の考え方だと、思っていた。
いや、それ以前に、周囲の人間にすら過去の経歴を話していないのだから、やはり、自分はどうしようもない悪党なのだと、レイネは自嘲する。
奇跡みたいな救いを求める、どうしようもない屑なのだと。
――――だから、その傷痕を見た時、レイネは動揺を隠しきれなかった。
声が震え、心臓が早鐘を打ち、それでも、何とか取り繕って。
見間違いかもしれない。
勘違いかもしれない。
混乱しながらも、表面上は装って、でも、気になって…………狐面の冒険者から追及された後に、ようやく安堵したのである。
子供の彼の手を、自らの穢れた血で汚してしまうというのに。
安息を得られる資格など無い屑であると、自覚していたはずなのに。
見抜かれて、責められて、詰られて、己の死を突きつけられて、レイネは安堵してしまったのだ。
やっと、復讐者が来てくれたのだと。
報いを受けるべき、その時が来たのだと。
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「おいおい、カインズ。何を生温いことを言っているんだよ、お前は。そいつを殺す前に、もちろんやるべきことがあるだろう? なぁ?」
愚かなことに。
とても、とても、愚かなことに。
罰を受けるのは自分だけであると、自分だけの被害で何もかもを贖えるのだと、レイネは思っていたのである。
「やられた事はやり返せ。あ? ここまで言ってまだ分からないのか? んじゃあ、ストレートに教えてやる――――孤児院のガキどもを皆殺しにしろ、カインズ」
復讐者は、仇に救いを与える存在では、決してないというのに。




