第168話 道化師は嘲笑う 2
ふと、悪魔と呼ばれる超越者との決着を思い出した。
「は、はははは、お見事です、ミサキ様。至らぬ身でありますが、慎んで賞賛させていただきます」
悪魔。
それは、文字通りの悪魔に近しい行動を行う存在だった。
契約によって、力を人間へと貸し与える。
契約が達成されたことが確認されれば、悪魔と契約を結んだ人間は魂を奪われる。
奪われた魂は何に使っているのか不明だったが、クロエ曰く、『無駄な事に費やしている』と半笑いで言っていたので、多分、あまりよろしくないことに使われているのだろうな、と思っていた。
「うるせぇ、死ね。さっさと死ね。本当にもう、死ねよ……どれだけ、逃げれば気が済むんだよ、お前は」
「はははは、罪の無い――もとい、罪のある一般市民を殺しながら私を追従し、ついには私の肉体を完膚なきまでに破壊するとは。いやはや、これでも数百の蘇生術式と、数千の魔道具による防壁を張っていたのですが」
「とても大変だった。ああ、とても大変だったぞ、くそが!」
古今東西、悪魔の姿は美形か偉業と相場が決まっている物であるが、その悪魔はスーツ姿のおっさんだった。下腹部がぽっこりと不健康を示すかのように出ていて、頭頂部が剥げている、ごく一般的な悲しき中年サラリーマンの姿をしていた。
威圧感など皆無。
どこからどうみても、戦えるようには見えない。
態度も卑屈染みているほど、腰が低く、常に困ったような笑みを浮かべている。
されど、強い。
とても強い。
悪魔は数多の人々の欲望を叶える為なのか、あらゆる魔術に通じ、多くの魔道具を所持しているので、弱点という物がほとんどなく、真っ当に強い。
今から思えば、その強さは『導師』のそれと似ているのだけれども、多種多様では悪魔が一枚上。それぞれの練度では、『導師』が一つ抜き出ているような感じだろうか? ともかく、本当に悪魔の対処には骨を折った。物理的も実際に折った。
「強い癖に、なぜ逃げる!?」
「この私程度が強いだなんて、そんな、そんな……実際、貴方様に心臓を貫かれて、見事に退散させられているわけですし……はぁ、このまま完全消滅できればいいのに。千年単位で、どこかの世界で、自動的に蘇生させられるとかやってられません……創造神、マジブラック……」
「訳わかんねーこといってんざねーぞ、おい! ああもう、これだから超越者は嫌いだ! 言葉が通じている癖に、意思疎通が出来ねぇ!」
「は、ははは、超越者相手に会話を試みることがそもそも、自然災害に対して『待て、話し合おう』と語りかけるレベルの愚行では?」
「否定できねぇ! つーか、いい加減死ね! しぶといんだよ、死ね!」
「今回は億単位の年月を過ごしてしまった肉体ですからねぇ、致命傷を受けて助からないのは分かるのですが、死ぬまでがとても暇です。ああ、私如きのゴミ、速やかに消え去ればいいのに」
「本当にな!」
悪魔の行動は実に悪魔らしい。
人々を誑かし、望む力を与え、絶望と共に契約を完了させる。
悪魔と契約した者のほとんどは、望む力を手に入れたというのに、自らの願うまま行動したというのに、心の底からの絶望と共に魂を奪われていた。
されど、そこに悪魔本人の趣味趣向は、反映されていない。
あくまでも、悪魔らしくするためのルーチンワークとして一連の行動をしているだけであり、本人は欠片も悦んでなどいない。
むしろ、一か月全て連勤させられてしまったブラック会社に勤めているサラリーマンみたいな、疲れ切った虚無の目をしているので、本意では無いことが推測できる。
だが、交渉は無意味である。
どれだけ腰が低く、卑屈であろうとも、絶対に悪魔は行動を止めない。
否、止められない、のか? 今となっては分からないことで首を傾げるが、当時の俺にとっては悪魔の意志などどうでもよく、一か月近くに及ぶ戦いに決着がつくことで頭が一杯だった。
だから、今まで忘れていたのだろう。
「では、消えるまで暇なので、英雄殿へ悪魔からの――いいえ、死にぞこないからの忠告です」
「……なに?」
「虚言と思っていただいても構いません。戯言と切って捨ててくれることすら、望みます。されども、もしも、超越者の頂に手をかけ……それ以上の存在に至ってしまった時。そして、気付いてしまった時、貴方は思い知るでしょう、本当の絶望を」
死に際の妄言ではない。
この戯言では無い。
「けれど、貴方ならば、あるいは――――真なる超越者を討つことが、出来るかもしれません。それが、貴方にとっての幸いであるとは、限りませんが」
悪魔が死に、消え去るその瞬間。
縋るように呟いた言葉を、何故か今、俺は思い出していた。
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静かな異常が、そこにはあった。
「…………っ!」
駆ける、駆ける。
きぃん、という音が何度も鳴り響き、その直後に、駆ける。
空間転移を繰り返して、『港』内全てを駆け巡る。
本来、人が居るべき場所を全て、確認する。
「…………くそ、が」
三十分ほどかけて、『港』を全て確認したが、人の姿は見当たらなかった。
代わりに、そう、人が居たであろう場所に、静かなる異常があった。
黒く艶やかな、卵に似た形をした何か。
人間大の、漆黒の卵。
材質不明。
触ろうと手を伸ばせば、とぷんと、手が沈み、触れられない何か。
実体であるかどうかも、理解不明な何かが、そこにはあった。
《駄目です、ミサキ。私以外のサポートAIも動いていません。いえ、それどころか、『時計の針』すら動いていません》
オウルからの報告を受けて、嫌な予感がさらに高まる。
何だ、何なんだ、これは?
超越者からの攻撃。
いや、それにしたって急すぎる。加えて、俺や『港』に在住する戦闘員が一切の感知も出来ない攻撃など、有り得るのか? 確かに、超越者に常識は通じない。世界すら、砕いてしまう理を持つ者すら存在する。
存在するが、いくら何でも、これは理不尽すぎる。
こんな、何も出来ずに――――いや、待て、諦めるな、嘆くな。そんな暇があったら、考えろ。立ち向かえ。向かい合え。
理解不能だろうと、必ず現象には理由がある。
「くふふ、いいねぇ、カンナ君。その目、諦めない意思。だからこそ、私は君のことが好きだよ。ああ、そうとも、愛している」
俺の背後。耳元で、クロエが囁く。
楽しくて、愉しくてたまらない声で。
当然、俺は苛立ち交じりに振り返り、怒鳴りつけるように言葉を吐き出した。
「うるせぇ! さっさと状況を説明しろ! どうせ、ろくでもない情報を伝えたくて仕方が無いんだろ? だから、訊いてやる――――この現象は、一体なんだ?」
「安心していいよ? 大丈夫、今はまだ予行練習みたいなものだから。一時間後には、元の世界に戻っているさ。きっちり、全世界の知性体全てがね」
「…………二度も言わせるな。これは、一体何だ?」
「くふっ、くふふふふっ――――――エンブリオ化現象だよ、カンナ君」
クロエは大仰に両手を広げて、語り始める。
全世界線を辿っても、片手の指程度しか知る者が限られる、世界の真相を。
「そもそもだね、カンナ君。人類とは、生命とは、何のために存在していると思う? 世界は、何のために存在していると思う? 管理者は、何のために管理していると思う? 創造神は、どうして、世界を造り続けるのだと思う?」
「まず、創造神ってのを教えてくれ。そういう信仰があるのは、異界渡りをやっていて理解しているのだが、詳しいことは知らん」
「くふふ、詳しい事なんて知る必要がないさ。あれはただの寂しがり屋。【最初に独りぼっちだった誰か】に過ぎない。それがたまたま、世界を創造し、生命を創造し、人類を創造するだけの力を持っていただけなのだとも。まったく、笑えてしまうよねぇ? それだけ御大層な存在が、天地創造を成し遂げた高次元の創造神が望んでいたことが、まさか『同類(友達)が欲しい』なんて、子供みたいなものだったんだから」
「…………は? いや、待て、情報量が多い――――」
「『アレ』は世界を作る。可能性を産むために。『アレ』はひな型を作る。より正しく、可能性を導けるために。『アレ』は管理者を作る。知性体の魂をより正しく、上位へ導くために。全ては、同類が自分の傍に到達することを願って」
道化師は語る。
薬物中毒の妄言の如き、世界の真実を。
俺たちは、その言葉を、情報を消化しきれず、せめて、聞き逃さないように耳を傾けることしかできない。
「試行回数は無限を超えて、数の概念すら無意味な領域へ。それを気が遠くなるほど長く続けるとだね、『これ』が起きるんだ。『これ』は、本来であれば創造神が待ち望んでいた現象なんだよ。下位の存在が、上位へと昇華するための準備段階。それを、エンブリオ化現象と呼んでいたのさ、かつては。そう、創造神が待ち望んでいた、本来の意味としては、ね?」
意味が分からない。
理解が追い付かない。
だが、予感がする。
これ以上、先にあるのは絶望だけであると。これ以上、道化師の言葉を聞いてはならないと。
されど、それでも、俺は耳を閉ざすことだけはしなかった。
多分、嫌な予感よりも先に、分かってしまっていたから。
「――――今では、破壊神が全世界へ滅びをもたらす為、知性体を爆弾へと作り替える、その準備段階を指しているのさ。そう、長ったらしく言ったけど、つまりだね? このようにして、全世界は滅びるようになっているのだよ、カンナ君」
この絶望は、耳を塞いだところで、何の意味も為さないことを。