第167話 道化師は嘲笑う 1
嘲笑の超越者、クロエは無敵である。
どのような相手であっても、敗北することは無い。
けれど、逆に、どのような弱者が相手でも完全に勝利することは出来ない。
――――何物にも捉えられない。
それこそが、クロエが所有する超越者としての理だ。そのため、どのような概念攻撃もクロエを捉えることは出来ないし、超越者の理すらも当てはまらない。
どのような相手でも、絶対に勝利出来ない無敵の存在。
されど、その対価としてクロエは他者を直接害することは出来ない。自らの手で命を奪うことは出来ない。出来て精々、甘言を弄する程度である。
もっとも、その甘言と嘲笑によって数多の強者がゴミ屑のように死に、あるいは、弱者が圧倒的強者に対して僅かな光明を掴んだりするのだが。
故に、嘲笑の超越者を知る者は大抵の場合、彼女に対して中立的な態度を取る。
機嫌を損ねてはいけない。
されど、へりくだってもいけない。
彼女の玩具にされぬよう、どうしようもない災害をやり過ごすように、頭を下げて相手にしないのが一番彼女の対処法としては効果的である。
「あああああああああ! テメェ、俺の暗殺を予告しやがっただろ!? ああ!? おかげで、敵の実力者が雁首揃えて待ち構えていたわ! 死ぬかと思ったわ!」
「くふふ、そこで死なないのは流石だねぇ、カンナ君」
「あああああああ! むかつくぅ、めっちゃムカつく! 殺そうと思っても攻撃はすり抜けるわ! マクガフィンを使って同等の存在になろうとしたら、危うく人間を超越して化物に成り果てるところだったわ! もう、最悪ぅ!」
「えー、そこはうっかり人間を辞めて、私のお仲間になってから死ぬほど後悔するところじゃあないかい? まぁ、この状態になると死ねないわけだけど」
「あっぶねぇ! 間一髪だぜ、俺、めっちゃ危ない! あー、でも、あれか? 化物に成り果てても、その力で皆を守れるのなら――」
「ちなみに、私は無敵の代償として直接的な干渉は非常に限定されているよ。他者の命を奪うことなんて、到底出来ないねぇ」
「つっかえねぇ!」
だから、まともに相手をしてしまう対応は逆効果だ。
構えば構うほど、嘲笑の超越者は図に乗る。調子に乗る。お気に入りの玩具を見つけたようにはしゃぎまわり、様々な七難八苦を授けるだろう。
さながら、神話の神々が英雄に試練を課するように。
そう、普通に生きて、普通に死にたいのであれば、見崎神奈は嘲笑の超越者などと関わるべきでは無かった。
「くふふ、さぁて、どうする? この窮地、猫の手も借りたい状況じゃあないかい?」
「猫の手を借りても、道化の手を借りるのはどうかと思う」
「おや? そこは、悪魔の手を借りるとは言わないのだね?」
「悪魔は別枠で居るんだろう? 前にお前が話していたじゃねーか。けど、考えれば悪魔よりもひどいよな。手を取ったら、最後の最後まで道化芝居に巻き込まれそうだ」
「悪くない物だよ? 観客を嗤うのも、嗤われるのも」
「――――どっちだっていい。肝心なのは、ここで手を取らなければ、ハルたちが死ぬかもしれないってことだ。なら、俺は手を取るよ。例え、お前と同類に成り果てたとしても」
「く、ふふふ、そうかい、そうかい! じゃあ、遠慮なく、私は手を差し伸べよう!」
道化師の手を取らなければ、数奇な人生を送ることは無かっただろう。
英雄として活躍したとしても、超越者殺しとして名を馳せることは無かった。
超越者殺しという、運命の雁字搦めにされた配役を請け負うことは無かった。
「名前?」
「そうそう、私の名前だよ。君に考えて欲しいんだ」
「考えて欲しいって、お前、自分の名前は?」
「無いね。私は『嘲笑の超越者』か『道化師』としか呼ばれない。勝手に他の異名を名付けられる時もあるけど、そういう奴らほど長続きしなかったねぇ、うん」
「お前…………名無しなの? 生まれて来た時とか、誰かに名付けられただろう?」
「そうだったかもしれない。けれど、それはね、遠い遠い……ずぅーっと昔の出来事だったんだ。だから、もう自分の名前すら憶えていないんだよ、私は」
「…………ん、まぁ、じゃあ、考えておく」
「うん、期待しているよ」
しかし、もしも嘲笑の超越者に名前を付けなければ。
見崎神奈が、不承不承に、けれど割と真面目に色々考えて、名前を考えなければ。
「クロエ? ほう、クロエかい」
「んだよ、悪いか?」
「悪くない、悪くないよ、むしろ良い。さて、名付けられた側としては、名前の由来みたいなところをぜひとも知り合いのだけれども?」
「はん、別に? 適当にネーミングセンス辞典を開いて、ぱっと目についた単語を名前にしてみただけ」
「ほうほう、なるほどぉ。猫のようだから、昔の好きだった猫の名前を付けたのかい。やぁ、ひどいなぁ、猫の名前を人に付けるなんて。くふふ、これは『俺のペットになれ』という遠回しの告白かい? しょーがないなぁ、そういう趣味は無いんだけど、どうしてもと言うのならばやぶさかでもないよ?」
「死ね!」
「死ねないんだよねぇ、残念ながら」
きっと、全世界はあっさりと滅んだだろう。
ぱちんっ、とスイッチでも切るように。
あるいは、夜空に咲く花火の如く。
一瞬だけ煌めいて、異例に全世界は終わったのかもしれない。
けれど、これはそうならなかった現在だ。
「さぁ、さぁさぁ! 愛しい私の為に、丸一日考えてくれた名前で呼びたまえよ!」
「やだ!」
「そこをなんとか!」
「断る!」
「君がちょっと難儀している相手の弱点を教えてあげるよ?」
「…………さっさと、教えろ、クロエ」
「くふふふ、ああ、もちろんだとも!」
見苦しく、綺麗に終わらず、足掻くしかなくとも。
抗うことを選んだ、現在だ。
●●●
「全世界が滅びるとは、穏やかじゃねーな」
俺は辛うじて、口元に笑みを浮かべて虚勢を作ることが出来た。
だが、どくん、どくん、という胸の鼓動は止まらない。先ほどから湧き上がってくる嫌な予感が止まらない。上手く笑みを作れているのか、たった数秒の間でも不安になる。
無意識に、狐面を掴もうとしたが、手は虚空を切って、無様に自らの頬に触れた。そういえば、狐面は外していたんだった。
なんだろうな、もう。表情を隠したい時ほど、狐面が役に立っていない気がする。
「くふふ、そんなに動揺しなくても大丈夫だよ、カンナ君。さっきの言葉はちゃんと真実だからね。この私が君に無意味な嘘を吐くわけがないとも」
「……何が、大丈夫なんだよ、おい」
「どんな時でも私が君の傍に居るから、大丈夫ということだよ」
にやにやと、こちらの心の動きを全部見通しているかの如き嘲笑。
何も知らない者から見れば、可愛らしい少女の悪戯な笑みにも見えるだろう。
だが、俺は知っている。こいつは、あどけない幼子が無惨に拷問されている時でも、同じような笑みで、同じような言葉を吐くことが出来る異常者であると。
「はんっ、生憎その枠は既に埋まっているぜ、愛しの相棒でな」
《ミサキ。当然のことを当然のように言っても私は全然嬉しくありませんが?》
「オウル。お前の照れ隠しも随分分かり易くなったな?」
《…………恐らくは、相棒の影響でしょう》
だからこそ、こういう時、俺はオウルと軽口を叩く。
何でも無いように。
B級映画の主人公のように。
気取って、余裕を無理にでも滲ませて、相棒と言葉を交わす。すると、最初は虚勢だったはずの態度が、意外と本当になってくるから不思議だ。
「やれ、相変わらず、仲睦まじい様子だね、ご両人。カンナ君の契約者としては、嫉妬を隠しきれないなぁ」
「にやにや笑いながらよく言うぜ。というか、さっきの言葉が虚言じゃないなら、説明してくれないか? 何がどうして全世界が滅ぶ――――なぁ、クロエ」
「なんだい、カンナ君」
「全世界ってのは、ひょっとして、あれか? 『人類が観測されている世界線上に存在している世界』って意味か? それとも」
「くふふ、君の予想通りだとも。ああ、全てだよ? 人類が存在していようが、していまいが。創造神が造り出した、無限に近しい多元世界の全てが、滅んでしまうのさ」
「…………つまらない、冗談だな、おい」
「おや? 珍しいねぇ、聞き分けが悪いなんて。仕方ないから、もう一度、きっちり言ってあげよう。【近い未来、全世界はあっけなく滅びる】とね」
真実だ。
クロエとの付き合いもそこそこ長くなった俺だからこそ、分かる。
クロエは今、紛れも無い真実を言っている。
他愛なく、どうしようもなくくだらない嘘を吐く時はあるかもしれないが、こういう場面でクロエは嘘を吐かない。
となると、困ったな。
本当に滅ぶのか、全世界。
「おいおい、それじゃあまるで、あの『導師』は全世界の滅びを食い止めようとするヒーローだと言っているようなもんだぜ?」
「ヒーローというか、そういう存在なのだよ。創造神から遣わされた、救済を探す天使だかね、彼の本領は。もっとも、全世界の救済のためには手段を択ばず、世界の一つや二つ、躊躇いなく滅ぼす奴だけれども」
くふふ、とクロエは笑う。
嗤わず、笑う。『導師』とやらの生き方に対して、呆れと勝算の混じった笑いだった。
――――まずい、どんどん真実味を帯びていく。全世界が滅びるという、よくわからない終わりを前提として、話を続けている。ごく自然に、それが当然であるかのように。
ならば、俺がやるべきことはこれ以上の現実逃避じゃない。
それが起こりえるという可能性を認めて、少しでも多くの情報をクロエから引き出すことだ。
「ふん。その所為で、俺の世界は尊い犠牲になったのか。まったく、苛立たしいことこの上ないけれどな、クロエ。今のところ、全世界が滅びるってことはお前の言葉だけの前提だ。こちらとしては、それを真摯に受け止めて対応したいんだが、何か根拠となる説明は出来るのか? 全世界が滅びることを、証明できるような何かを、お前は知っているのか?」
「くふ、くふふふ、くふふふふっ」
クロエは嗤う。
嘲笑う。
無知なる俺を嘲笑い、ご機嫌な気分で問いかけてくる。
「気付かないのかい?」
悠々と右手を上げて、ドアの向こう側を指さす。
まるで、芝居の如き仰々しい態度。
道化師の格好に相応しき所作。
「――――外、静かすぎると思わないかな?」
されど、俺は道化師を前にして笑うことは出来ない。
例え、冗談だったとしても、その言葉はあまりにも性質が悪いし――――真実だとすれば、救いが無さすぎるから。