第165話 見崎神奈の人間関係 7
意外とフィクションによって常識が毒されていることが多い。
例えば、人を殺した後や、生き物を殺した後、慣れていない奴はよく吐き気を催す描写があるのだけれど、あれは人それぞれ、千差万別である。吐き気を催して、即座に気持ち悪くなる奴も居れば、翌日になって思い出したかのように体調を崩す奴も居る。もちろん、まるで全然問題なく、同族殺しに対する忌避が無い奴だっている。意外と多いのが、吐き気を催すよりも、足元がふわふわとおぼつかなくなり、動悸や息切れ、奇妙な浮遊感に襲われ、夢遊病のように現実感を失う者が多い。これらの症状は、訓練に訓練を重ねた軍人でも出ることがあり、それらを緩和させるために、精神安定剤――一種の麻薬――を処方する軍組織も少なくないのだとか。故に、これは気合いの問題というよりは、相性と慣れの問題だったりする。
…………さて、このようにシリアスな豆知識を長々と語っている理由は、もはや明白だろう。そうだ、その通り――――それっぽい感じのシリアスな豆知識を語っている間は、己の恥ずかしい過ちから、僅かの間だけ、逃避できるからである。
「う、うごごごご……」
俺は股間を抑え、ベッドの上で蹲っていた。
両目からは生理的な反応として、涙が流れ、視界が歪む。
「だ、だいじょうぶなのですー? ミサキさんー。んもう、ばかあねー!」
「なによ、私が悪いの!? そうよ! さっきの私が悪かったわ! でもね、これだけは言っておく! ローション付きのゴムってすっごく滑るの! めっちゃ、つるつるするわ!」
「ばかあねー! それは、こかんをきょーだするいいわけには、ならないよ!」
「大丈夫! 潰してないわ!」
そう、フィクションだったんだ。
エロ漫画でよくある、童貞と処女がその場の空気でセックスする感じのあれ。あれはフィクションだったんだ。本当は、あんなにさくさく、セックスが進むはずがないんだ。だって両方とも初心者だもん。初体験だもん。そりゃあ、予習として色々な資料を調べていても、いざ実践になれば、戸惑うわけだ。
俺は今日、一つ学んで賢くなった。
エロゲーや、エロ漫画はフィクションなんだ。
どれだけ淫靡な雰囲気で事前に盛り上げていたとしても、いざ、実践というところで手痛い失敗をすると、両者ともやるせなさで泣きなくなるものなのだ。
「ううー、なんでぇ? なんで、こんにゃことにぃー」
「泣いては、泣いてはいけないわ、妹! 最後まで、最後までやるまで心は折れてはいけない! なんかもうすでに、色々台無しだったとしても、よ!」
思えば、前戯と呼ばれる段階までは良かったと思う。
多少の不意討ちはあった物の、エロエロな雰囲気を保てて、お互いに気持ち良く慣れていたのだ。けれど、悲劇はその後、やって来た。じゃあ、いよいよ本番。避妊具を付けよう! という段階で、俺が自分で付けようとしたのだが、ローション付きの奴はつるつるしていて、あれ? これどーすんの? と蕩けた頭の俺がさらに大混乱。
「ふふふ、しょーがない人ね? 貸してみなさい」
そこに、テンションが上がっていたフシが代わりにやってあげよう、ということで、選手交代。俺はとても恥ずかしかったのだが、今更だということで、大人しく託したのだけれど、その結果が、あの悲劇に繋がったのである。
「あれ? 意外と難しいわね、こ、れっ!? え、あ?」
「ふっ、ぐぉおおおお!!?」
擬音に直すのなら、つるんっ、すぱーん! という文字が相応しいだろうか?
白魚のように美しいフシの指先が、見事に俺の玉をダイレクトに弾き、俺は即座に悶絶してしまったのである。先ほどまでの余韻も、頭の蕩けさも吹っ飛ぶ勢いで。
そこからはもう、大変だった。
怒るツクモ。
泣きながら、逆切れするフシ。
静かに、回復を待つ俺。
怒り過ぎて、泣けてきたツクモ。
妹に泣かれて、がっつり凹むフシ。
そろそろ真面目に、回復系の魔法薬を使用しようか悩む俺。
もはや、寸前まで感じていた淫靡さなどはどこにも無く、あるのはただ、現実だった。ここには現実しかなかった。そう、セックスとは現実だったのである。童貞期間が長い俺や、地味に乙女思考が入っていた美人姉妹は気づけなかったが、セックスは現実である。
現実だから、失敗することもある。
エロゲーのように、好感度を上げて事前準備だけすればいいわけじゃない。きっちりと、本番用の対策として、色々考えなければならなかったんだ。
――――だが、これ以上、フシとツクモに恥をかかせるわけにはいかない。
俺はアイテムボックスから回復用の魔法薬を取り出して、服用。二人が争っている間に、完全回復を遂げる。
そして、争う二人に対して優しく声をかけた。
「大丈夫だ、二人とも。俺なら、まだ、大丈夫だから。だから、続きをしよう」
「で、でも、ミサキさんー」
「大丈夫? ぶっちゃけ、もう、そういうことをする雰囲気ではないのだけれど?」
「いや、俺はしたい。だって、君たちみたいな美人姉妹とエッチなことが出来る機会なんて、今後は訪れないだろうからな」
「「…………うなぁ」」
言うのだ、どんな甘ったるい気障な台詞だろうとも、二人の心を癒せるのならば。
微笑むのだ。不格好でも、勇気づけるために。
リードするのだ。不意討ちされた時ならともかく、回復と解毒を終えて頭が明瞭な今だからこそ、年下の女の子をリードするのだ。
誰でもない、この俺が、見崎神奈がやるんだ。
「だから、仕切り直しってことで。もう少し、良い気分に浸りなおしたいんだけど、いいか?」
「え、あー、わるくないですがー」
「おてなみゅ! お手並み! 拝見ね!」
余裕そうな外見を繕って。
けれど、頭の中では走馬灯のように今までの過去から、この状況に適用できる情報を必死で集めて。そう、例え、機械天使ならざる人間の矮小なるスペックの脳しか使えなくても、せめて、初体験を迎える二人の美少女ぐらいは幸せな気分にしてあげたいから。
「じゃあ、改めてよろしく。フシ、ツクモ」
白鳥の足掻きの如く。
俺は余裕ある年長の男性を演じつつ、再び、初体験へと挑んだ。
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「結局、どうして俺だったんだ?」
「んー、それはまー」
「打算とか、下心とかはもちろんあるけれど」
「ボクたちに、しょうりしたからですかなー? あれは、しびれました」
「格好良かったわよね? こう、胸がきゅうんってなった。ああいう風になりたいって思った。だから、なんというか、ここで貴方と夜を共に出来たら、特別になれると思ったの」
「…………特別なんて居ないさ。特別なんて居ない。あいつは凄い、特別だ! と尊敬していた同業者でも、しばらく見かけない内に死んでしまっている。そういうことがよくある職業だぜ?」
「もちろん、しょうちのうえー」
「けれど、それでも浪漫を求めるのが異界渡りでしょう?」
「すくなくともー、おじけづくようならー、ボクたちはー」
「ええ、私たちはあの塔から出ようと思わなかったもの」
「そうかい。んじゃあ、精々、先輩として務めさせてもらうよ、これからも」
「えへへー」
「ふふふー」
童貞を卒業すれば、男として一皮むける、と学生時代に大人の男たちはよく言っていた。
学生時代の俺は、『そんな単純なものかよ』と笑いつつも、実際に、やってみれば何かが変わるんじゃないかと思っていた。
けれど、実際に体験した今になると、俺はつくづく思う。
そんなこと、本人が分かるもんか、と。
一皮むけるとか、男として成長したとか、そういうことを気にしているような余裕なんて、皆無なのが、俺にとっての初体験だったのだから。
俺はとにかく、頑張った。
出来る限り、美人姉妹たちが最初の失敗を思い出さないようにロマンチックな雰囲気を探りつつ、流れで上手く出来なさそうな部分は、一端、両者とも少し落ち着いて、ホテルに備え付けられてある『これで安心! 初めてのセックス! マジで一読推奨!』を読みながら不安を解消しつつ、実践。行為中も、出来る限り二人が気持ちよくなれる様に、色々探ったり、時には魔術的なあれやこれやを組み合わせ、ようやく性交――誤字ではない――を果たしたのである。
頑張った。童貞にしては、本当によく頑張ったと思う。
無論、気持ちよかったし、嬉しかったし、フシやツクモと一緒になれたのは幸せな気持ちにもなれた。この日のことは、中々忘れがたいと確信できる。
それでも俺は、だからと言って『俺はもう童貞じゃない』と胸を張れるような気分にはなれなかった。むしろ、知っているからこそ、次は上手くやれるのか心配になるし、次があるのならば、もっとフシとツクモを凹ませることなく幸せな気持ちにしてあげたい。
「とりあえず、これからの仕事はどこに行く予定だ? そろそろ、[に:11番]世界から違う場所に移るんだろう?」
「ええ、異界渡りとしての初歩も経験出来たし、世界の存亡を賭けた戦いも乗り切った。しばらく、あの世界は復興で忙しいでしょうし、次の世界に行こうと思うわ」
「つぎはー、だいとかいにいってみたいのです」
「大都会ね。となると、二択だな。比較的平穏で、人類の脅威が少ない世界か、それとも、人類の脅威とバリバリ殴り合いながらも、どんどん成長していく波乱の世界か」
「ふん、そんなの、答えは決まっているでしょう?」
「ふほんいながらー、こういうとき、ばかあねといけんはあうのでー」
そんなことを取り留めも無く考えながら、俺はベッドの中に居る。
一糸まとわぬ裸体で。
同じく、裸の美人姉妹と一緒のベッドの中で。
ピロトークと呼ぶには、あまりにも実務的で、エロスより浪漫に焦がれる乙女たちとの会話を楽しんでいた。
「「波乱と、浪漫を!!」」
童貞を卒業したからって、何か変わるかなんてわからない。
だけど、これだけは分かる。
俺が最初の一夜を共にした相手はきっと、これからたっぷりと冒険を謳歌する、素晴らしい女の子たちだって。
「まったく、落ち着きのない後輩だ」
そんな彼女たちと、今、こうしていることが、俺はとても嬉しいんだって。
それだけは、胸を張って言える。