第150話 人よ、夜明けを目指せ 6
薄暗い闇の中。
唯一の灯りは、ゆらゆらと頼りなく揺れる蝋燭の火のみ。
木造のテーブルの上に置かれた燭台が、部屋の壁に映し出すのは二つの影。
「これでよかったのでしょう? 導師」
「ああ、これでいい。注文通りの、素晴らしい仕事だ、宵闇の女王」
「…………そこは魔王と呼んでもらえるかしら? そちらの方が、今の状況に適した呼び方でしょう?」
「ふむ、一理ある。例え、私からの命名呪詛を嫌った儚い抵抗だったとしても、その変更を受け入れよう、宵闇の魔王よ。貴様のおかげで、この世界は生存競争の引き金を引かれた」
一つの影は、赤い髪をなびかせる美少女の物。
一つの影は、襤褸切れを纏う、隠者の物。
「光と闇が食らい合う、素晴らしき闘争の試練だ。奴の前には、前座にすらならない程度の物だが、危機感を取り戻させるのにはちょうどいいだろう」
「ふん。一つの世界の存亡が前座にすらならないなんて、よっぽどなのね」
「くははは、そうとも、よっぽどだ。貴様も、それを理解しているからこそ、無駄な抵抗を止めて、私に従ったのだろう?」
「そうね。とてつもなく気に食わない事だけれど、私では貴方には敵わないみたい。もっとも、こちらに対する利益が無ければ、協力なんてせずに、命を賭した禁呪で殺すところよ」
「貴様がそういう思考なのは当然、理解している。把握している。管理者の記憶を奪ったからな、これ以上なく正確に貴様の事は理解している。だから、安心するがいい」
一つの声は、艶やかで心地良い女性の物。
一つの声は、淡々と紡がれる擦れた無性の声。
けれど、女性の声は何処か苛立ちを隠し、無性の声には余裕があった。
「貴様の愛する子孫は、必ずやあの英雄が救ってくれるだろう。くくく、貴様の思う形とは、随分違うかもしれないがな?」
「…………まったく、思わず我が身を省みたくなるほど、意地が悪いわね、貴方は。きっと友達とか居ないでしょう?」
「信念と使命こそが、我が友だとも」
「へぇ、それは大層なことで。それで、その使命とやらはなんなのかしら? 一度、無理やり床に這わされている時に聞いた気がするけど、もう一度仰ってくれないかしら? 今度はきちんと、馬鹿にしてあげるから」
「やれ、私よりも若いのに、もう健忘症かね? ならば仕方ない、今度こそしっかりと、我が使命をその魂に刻むがいい」
無性の声は、嗤いながら言う。
己すらも、嘲笑いながら、掠れた声で、堂々と言う。
「私の使命は、全世界の救済だよ。さぁ、存分に馬鹿にしたまえ、常闇の魔王よ」
荒唐無稽が過ぎる言葉を。
酔っぱらいの戯言だろうが、麻薬中毒の狂人だろうが。
ここまで荒唐無稽な言葉を吐く奴は中々居ないだろうという、言葉を。
しかも、本人が自嘲しながらも完全に正気で、本気なのだから性質が悪い。
「…………狂人め」
常闇の魔王は――恐るべき魔女は、生まれて初めて畏怖という感情を抱く。
己の創造主である管理者にでさえ、抱かなかった畏怖を、眼前の隠者へ抱いていた。
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なるほど、そういうことか、と納得したことがある。
リズが大婆様から伝えられていたお伽噺。
剣を取って戦おうとした理由。
それらが、ぴたりとピースが嵌ったかのように一致した。
常闇。
闇の眷属を生み出す、光主と相反する存在。
管理者に生み出されたこの世界のシステム、その一部。
そして、光の加護を持つ傭兵王との間に子供を作った、恐るべき魔女。
「恐るべき魔女、ね。考えてみれば、繋がっている。『恐るべき子供たち』はその名の通り、『恐るべき魔女』が生み出した眷属ってわけか。むしろ、気付かない方が間抜けだったか?」
《いえ、ミサキ。この世界では『恐るべき』という修飾語は、野生動物や強大な魔物にも付けるケースがあり、一概に狙って付けた異名とは言えないのかと》
「そうかい。んじゃ、悪趣味な偶然だな、これは。運命の女神さまは、さぞかし意地が悪いんだろうよ」
《ミサキ。この世界の神は恐らく、頼りにならない上に、外見はオッサンですよ?》
「知っているよ、ただの愚痴だ。愚痴でも言ってなきゃ、やってられんさ」
俺はため息を吐きつつ、ベッドの上で寝息を立てているリズを眺める。
自暴自棄になりながら、「私が、私が、大婆様を止めなきゃ」とうわごとのように呟き始めたので、強制的に意識を落とし、魔導具を使って眠らせていた。
あまりにも、過酷な運命だと思う。
黄昏の口を作ろうとした、勇猛にして愚かなる傭兵王。
魔物を生み出し続け、光と闇のバランスを取り続けて来た常闇。
二つの血の混じった子孫は、今、世界を救わなければならない使命を帯びている。
「概念防御はあるだろうな、それも恐ろしく強固な」
《推測を肯定します。世界の命運を管理する存在に対して、管理者はその権能を与えるのを惜しまないでしょう》
「だよなぁ。まー、俺の異能と黒羽のコンボなら、破れなくはないが、その場合」
《リズの大婆様を殺すことになりますね、世界の平穏と引き換えに。傍から見れば、悪くないトレード条件ですが?》
「当然、御免だな、そんなの。例え、この世界の人々にとって怨敵だったとしても」
俺は大義に生きるような人間じゃない。
ついこの間、世界を救ったような気もするが、それはあくまでも個人的な事情のついで。英雄の責務を背負ったのも、親友を解放するため。
大層なことをやっていたのは結局、個人的な感情の延長線に過ぎない。
だからこそ、リズの嘆きを『仕方ないことだ』ともっともらしい言葉で諫め、ありふれた英雄の末路へと足を進めるのを良しとしない。
《ただし、その場合はカインズがまた葛藤を飲み込むことになると思いますので、それだけは忘れないように》
「…………ああ。承知の上で、全部何とかしてやるさ。うん、多分。そのうち。いや、五分。五分経てば、超凄い俺が、超凄いアイディアを思いつくはず」
《ミサキ、ひょっとして、結構追い詰められていますか?》
「ひょっとしてなくても、かなり追い詰められているぜ、現状」
オウルからの言葉に、俺は何度目か分からないため息で応えた。
無限に造り続けられる、魔物による進軍。
問題ない。光主との契約により、魔力を分捕れる立場である俺は、その気になれば、この世界全ての魔物を消し去ることは可能だ。少数の犠牲に目を瞑って。
常闇を倒さない限り、明けることなき夜の環境操作。
問題ない。常闇を探す手段はオウルが模索し、数十通りの方法を試算している。時期に、場所を探知して、いつでも空間転移で乗り込むことが可能になるだろう。
連絡が途絶えた、光主と管理者。
――――問題だ。ここが一番の問題だ。横紙破りで、この明けない夜の問題を解決を図ろうとした場合、必ず、管理者たちに干渉した何者かの攻撃が予想される。
推定、超越者クラスの何者かの、攻撃が。
「超越者クラスの相手は、ほとんど運なんだ。最善を尽くしても、最善を尽くすこと自体が悪手だということもある。最悪……いいや、何かが少し違うだけで、俺は身内である弟子や後輩を、あっさりと失いかねない」
後輩と弟子に語った通り、超越者殺しと呼ばれようとも、英雄だろうとも、確殺でいない存在が超越者クラス。どのように準備を重ねても、たった一つの相性で覆される理不尽だ。
かつて、英雄と呼ばれていた頃の俺ならば。
仲間の命を失いながらも、前に進まなければ絶滅してしまうあの地獄の中ならば、それしかないなら、やるだけだと割り切って勝負に出ただろう。
けれど、今は躊躇ってしまう。
何か一つ間違えるだけで、失ってしまう命の重さに、身動きが取れなくなってしまいそうだ。
「その時、なのか?」
俺は静かに自問する。
異能であるマクガフィンを使い切り、クロエと同等の化物にまで成り果てる時は、今なのかと、問う。
そうすればきっと、数多の幸せは取り逃してしまうが、代わりに大事な身内を守れる可能性は格段に上がるはずで――
「だめ、ですよ。ミサキ、さん」
「…………リズ」
迷い留めるかのように、俺の手のひらに暖かな感触が繋がれる。
見ると、微睡から抜けきることが無くとも、その瞳をこちらに向ける、リズの姿が。
「貴方だけ、つらいのは、だめです。それは、とても、だめです。どうせなら、いっしょにつらくなりましょう。それで、いっしょに、ぜんぶ、ぜんぶ、ぶっとばして、やるんです」
「…………」
「それを――それを、私に教えてくれたのは貴方じゃないですか、ミサキさん!」
言葉を紡ぐたびに、リズの瞳は微睡を掃い、魔術を退け、体を起こした。
未だに、その心の傷は癒えていないだろうに。正直、もうしんどくてたまらないだろうに。それでも、その重荷を俺に背負わせるのは違うと、リズは言った。
《リズに同感です、ミサキ。そして、フシやツクモ、カインズでさえ、きっと同じことを言うでしょう。つまり、『少しはこっちを信頼しやがれ、このヘタレ野郎!』と》
おまけに、追従するように相棒たるオウルからの叱咤が待っていたのだから、もう駄目だ。流石に、この後に及んで、自己陶酔に満ちた自己犠牲をやらかすわけにはいかない。
そうとも、今の俺は英雄じゃない。
「そうか……じゃあ、声を聞かせてくれ。あの時と同じように。報酬ももちろん、あの時と同じように、だ」
「っつ! は、はいっ!」
英雄以上の、大馬鹿野郎だ。
「どうか、助けてください、ミサキさん! この世界の危機ですっ!!」
「おうとも! この俺に、見崎神奈に任せて置け! だから――――俺がしんどい時は、アンタが俺を助けてくれ、リズ」
「はい! もちろんですっ!!」
だから、この狂乱を仕掛けた黒幕に見せてやろうじゃないか。
想像以上に馬鹿げた、ハッピーエンドって奴を。