第146話 人よ、夜明けを目指せ 2
美味しいパンは幸せの味がするらしい。
かつて、大戦前に近所のパン屋のおばちゃんが言っていた言葉だ。
美味しいパンは、人を少しだけ幸せにしてくれる。
それが、出来立てのパンだったら、そこそこ幸せにしてくれる。
そして、真心を込めた出来立ての美味しいパンだったら、一時間ぐらいは幸せな気分になれるらしい。少なくとも、そういうパンを作れるようにおばちゃんは二十年間研鑽を重ねていたのだとか。
当時、生意気盛りだったガキである俺は、『なぁーにが、幸せの味だよ! 台詞が大げさだぜ』とか思っていたのだが、そんな反抗心とは裏腹に、一週間に二度はそのパン屋に通っていた。
理由は簡単。
美味い上に、安いのだ、そこの店のパンは。
バニラエッセンスが少なめで、少しミルクの臭いのするふかふかのクリームパン。
レタスとハンバーグをからしソースで味付けした具の、ハンバーグ。
細長いパンに、薄くクリームとあんこを混ぜた菓子パン。
その他、多種多様のパンはなんというか、ヘルシーで健康な味わいの美味なるパンだったのだ。しかも、学生でも腹いっぱい食べられるように、と、三百円ぐらいでパンをお腹いっぱい食べられるという素敵な仕様。
決して多くない小遣いをやりくりしていた俺としては、そのパン屋の存在は助かっていた。
――――もっとも、そのパン屋は大戦を超えることが出来ず、店は物理的に潰れ、おばちゃんも死んでしまったのだけれど。
以来、俺はそのパン屋と同じ味の物を食べたことが無い。
そのパン屋よりも美味しいパンはたくさん食べたことがある。
しかし、違う。幸せの味じゃない。どれだけ世界を巡って、色んなパンを食べても、俺はあの時の幸せの味を得ることは出来なくなっていた。
まったく、お笑い種だと思う。
幸せなんて物は失ってからでしか、実感が沸かないなんてありきたりな言葉を、この身でこれ以上噛みしめることになるなんて。
だからまぁ、嘘偽りなく言えば、期待はしていなかった。
繁盛しているらしいし、美味しいんだろうな、とは思っていた。
「…………幸せの味がする」
鶏肉の揚げ物が挟まったパンを、大口を開けて、噛みしめた瞬間、脳裏から懐かしい記憶が呼び覚まされた。
学校の帰り道。
両親の居ない休日の昼。
弁当を用意できなかった、忙しい朝。
かつて、平穏だった日常と共に在った味を、俺は今、完全に思い出せた。
そう、これが幸せの味だ。紛れもなく、俺が幸せだった時に、噛みしめていた味である。
「そう、か。もう二度とは味わえないと思っていたけど、そうかぁ。こういうこともあるんだな、うん」
涙は、自然と頬に流れていた。
やれやれ、まさかこの俺が、今更になって感動のあまり涙を流すなんて真似ができるとは思わなかったぜ、まったく。
「え、ええと、ミサキさん? どうしたんですか? とてもびっくりなのですが! いきなり泣かれると、その! 胸がどきどきして、変な性癖が生まれてしまいます!」
俺が突然、パンを食べて涙を流しているので、隣に居た赤毛の少女――リズが戸惑い、気遣うように声をかけて来てくれる。
「性癖……? ん、まぁ、それは置いといて。悪かったな、いきなり泣いてしまって。なんというか、その、懐かしい味だったんだよ。もう、味わうことが無いと思っていた、味だったんだ」
「そ、それはその! 美味しかったと思っても、よろしいのです?」
「もちろん、幸せの味がしたぜ。こんなパンを毎日食べられる奴はきっと、とてつもない幸せ者だと思うぜ?」
「ぱ、パンを毎日――ひゃうううう!!?」
「何故、そこで顔が赤くなる?」
《そこは察するべきですよ、この鈍感》
俺は現在、リズが家族と共に営むパン屋で夕食を取っている。
リズ。
黒剣背負いのリズ。
いいや、『元』が付くか。黒剣を背負い、俺と共に馬鹿げた黒竜討伐を成し遂げた英雄の片割れは現在、革鎧の代わりにエプロンを。剣の代わりに、パン生地を捏ねて生活している。
いつかまた会おう、みたいな別れをしたものの、最近まで異界渡りの仕事が忙しく、加えて、別れ際に物凄いキスをされた記憶があり、ヘタレの俺は中々リズも元へ赴くことが出来なかったのだ。
しかし、英雄としての責務を降ろし、弟子と後輩への指導も順調で心の余裕が生まれたので、ここらで一つ、きちんとリズに挨拶へ向かおうと思ったのが本日の朝である。
弟子と後輩には既に、課題を与えてある。何かあれば、直ぐに連絡できるように端末を残しているので、問題ない。諸々のやるべきことを終えると、俺はこっそりとリズが住まう街の中に潜り込み、気配を消して、昼頃からリズが働くパン屋の様子を伺っていた。
オウルからは《ストーカー行為ですか? みっともない真似をせず、堂々と尋ねて行けばいいでしょうが。何を恥ずかしがっているのですか、このヘタレは》などと辛らつな指摘を受けたが、心の準備というものがあったのだ。それに、満面の笑みを浮かべて接客しているリズの姿を見ていると、自然と和んでしまうので、ついつい声をかけるタイミングを逃していたのだった。
その結果、俺がようやく声を掛けられたのは、夕暮れ時。店中のパンがほとんど売り切れ、リズが閉店の準備をしている頃合いだった。
「あー、その、よぉ、リズ。久しぶり――――」
「み、ミサキさん! ミサキさんですね!? わぁい!」
数か月ぶりの再会にも関わらず、リズは俺の事をしっかりと覚えてくれていたらしい。まるで、あの時、別れてから感情の熱が全然下がっていないような、情熱的なハグ――常人が受けたら、全身の骨が砕けて死ぬ――をかましてきてくれた。
「えへへへ! お久しぶりなのです! 元気にしていましたか?」
「あっはっは、俺が頑丈でなければ、さっきの抱き付きで元気じゃなくなっていた所だぞ? 大丈夫か、お前の日常生活における力加減」
「大丈夫です! こ、こんなことをするのは、幼馴染の女友達数人と、ミサキさんぐらいですから」
頬をほんのりと赤く染めて言うリズの言葉を受けて、俺は胸の中がほんのりと暖かくなる。俺の人生で好意を示してくれる女子の大変は大抵、好意の示し方がどこか拗れていたり、色々とキャラが濃い所があるので、こういう素直な行為の示し方はちょっと嬉しい。
それはそうと、リズの幼馴染の安否が微妙に心配である。生きてる? まぁ、この世界の住人は昼間の内は滅多に死なないし、大丈夫であると信じたい。
「それは光栄だな。あと、遅れてすまない。仕事がようやくひと段落したから、ちょっと遊びに寄ってみたんだが、急に押しかけて迷惑だったか?」
「とんでもないです! お布団、引っ張り出してくるので、是非とも止まってください!」
「お、おう、ありがとう……あー、それとこれ、お土産」
「わぁい、燻製肉だぁ! 日持ちして、便利な奴です!」
「んでもって、折角だからこの店に残っているパンを全部買っていいか? お前が作ったパンを、一通り食べてみたいんだ」
「ぜ、全部!? ミサキさんは相変わらず、突拍子もなく凄いことを言い出しますね?」
「それはお前も同じだろうが、『黒剣背負い』?」
「あはははー、もう、冒険者は引退ですよー」
とまぁ、このような流れで売れ残ったパン――ほとんど無かった――を買い占め、ご賞味に預かり、現在に至るというわけだ。
いやはや、まさかこんなことになるとは俺も思わないからびっくりである。
失ったはずの幸せの味を、異世界で見つけることができるなんて。うん、こういう発見があるから、異界渡りは止められないぜ。
《ミサキ。感慨深く頷いていないで、早くリズにフォローを。というよりも、どうして、仮面を外しながら食事を?》
『ん? ああ、リズにはもう素顔がバレているし、他に誰も居ないからいいかなって』
《その所為で妙な性癖の拗れが生まれそうになっていますが? それと、恐らく貴方のその行動は、無意識にキスを期待しているが故の物なので、自重しなさい》
『うわぁ、無自覚でヘタレ童貞っぽい行動をしていたことを自覚すると、死ぬほど恥ずかしい』
《リズも無自覚に口説き文句を言われて恥ずかしい状況なので、お互い様でしょう》
結局、俺がパンを全部食べ終わるまで、リズは恥ずかしそうに顔を赤らめながら俺の表情をちらちらと確認していた。
なんだろう? 久しぶりに実家に帰った時、飼い犬が少しずつ、懐き直していく過程に似ていてちょっと面白いぞ。
面白いが、ううむ。
「ふぅ、ごちそうさまでした。とても美味かったぜ、リズ」
「えへへ、お粗末様なのです、ミサキさん。明日の朝は、出来立ての一等美味しい奴を食べさせてあげますので、是非とも美味しさゲージを更新して欲しいのですよ!」
「ほほう、それや楽しみだな」
にこにこと満面の笑みを浮かべるリズを、これから傷つけると思うと、俺の心が痛む。偽善的な罪悪感で、痛む。しかし、それでも偽り続けて良いことじゃない。こちらに好意を向けている相手に対して、せめて、誠実であれるように。
「あ、ミサキさん。それで、ミサキさんが売れ残りのパンを全部食べてくれたのは嬉しいんですけど、そうなるとお腹が膨れて、今晩の食事は――」
「リズ、大切な話があるんだ」
「は、はい?」
笑顔で今後の予定を話そうとするリズの言葉を断ち切り、俺は意を決して話し始める。
「今日、ここに来たのはその話をするつもりだったんだ。少々、突飛な話になるが、驚かずに、いや、驚いてもいいから、最後まで聞いてくれ――――実は俺、男なんだ」
「…………はい?」
そこから俺は、出来るだけ分かり易く簡潔に、俺の事情をリズへ説明した。
この機械天使の肉体の事。
自分がどうして、魂を移しているのか。
俺の本体である男の姿の映像を見せて、真実を確認してもらう。そして、異界渡りという仕事に関しても合わせて説明し、出来る限りのことを洗いざらい話した。
「これが、俺がお前に隠していたこと全てだ。言い訳はしない。話すタイミングが無くて、ついつい後回しにしてしまったが……お前が何か罰を求めるのなら、俺はそれに応じようと思いう。そのつもりがなくとも、俺はお前を騙していたんだから」
やるべきことはやったと、俺はリズの反応を待つ。
まったく、都合の良い話だと思う。散々、美少女面してあれこれした癖に、まるで梯子を降ろすみたいに真実をばらすのだから。
けれど、それでも、何もかもを偽ってリズと共に在ることは認められなかったから。結局、俺自身のエゴでリズを傷つけようとしている。
「…………え、えっと、じゃあ、ミサキさん」
リズは俺の話を全て聞き終えた後、しばしの間茫然としていたが、やがて、目に光が戻った。
やはり、強い。信頼していた人間が、自分を騙していた事実に向き合って、即座に向き合うことが出来る奴は、とても強い。
なので、俺はその強さを受け入れよう。
例え、どのような罰を受けることになったとしても、それが、俺自身が取れる最低限の責任という奴だから。
さぁ! 百叩き叩きだろうが! 黒剣で撫で切りだろうが、どんとこい!
「――――私、貴方の子種が欲しいです」
………………あ、あるぇー?