第110話 モラトリアムは霧の中 5
私の好きな、少年漫画のヒーローについて語りたいと思う。
その少年は、普段はヘタレで弱っちくて、不良にもペコペコ頭を下げて殴られてしまうような男子高校生。だけど、ヒロインの美少女に色仕掛けをされて、『お願い』されてしまうと、どんな強い敵や、恐い相手にも一切怯まずに立ち向かっていくヒーローになるのだ。
そう、その少年はスケベ心を高めることによって、普段とは比べものにもならない強い力を発揮するスケベヒーローだったのだ。
『うぉおおおおおっ! パンチラの為に、道を開けろぉ! 雑魚共ぉ!!』
ヒーローは戦う、己が信じるエロスのために。
そして、ヒーローは必ずヒロインの敵を倒すのだ。何度倒されても、最終的には必ず、エロスの力を滾らせて勝利をもぎ取る。
ただ、ヒーローは毎回、毎回、美少女のヒロインに色仕掛けで『お願い』されるんだけど、最後の最後では何故か邪魔が入ってしまい、ご褒美はお預け、という定番の流れで終わる。
ヒーローは大抵の話で、コミカルに涙を流して、エロエロできなかったことを全力で悔やむ。
そんな強くて情けないヒーローが、私は大好きだった。
少年漫画らしく、熱い部分も格好いい部分もあるけれど、対称的に人間らしい弱い部分、駄目な部分が見えるコミカルなヒーロー。
弱くても、駄目でも、最終的に滑稽だったとしても、自分が望むエロスの為に全力以上の力を発揮できる人間になりたいと、私は常々思っていたのだ。
「おめでとうございます、桐生さん。今回は全教科80点以上という素晴らしい結果でしたね。これからも油断せずに頑張ってください」
だからこそ、私にとってこの結果はとても誇らしい物だった。
期末テスト。
全教科80点以上を取るという偉業を、私は成し遂げたのである。
テスト結果が良かった場合、ミサキに巫女服姿で色んな所を優しく足蹴にしてもらうというご褒美の為に。
「………………ま、あ。うん、性癖は個人の自由だから別に好感度下げないぞ。本当に、テスト結果が良ければ、結実姉さんを労ってあげたいという気持ちは本当だし」
狐面を被って表情を隠していたが、私にはわかる。あれはいける。本当に好感度が下がらず、こっちのプレイに付き合ってくれる顔を仮面の下に隠していると、照れ隠しだと、私は信じていた。
故に、私は頑張った。
頭の中で、少々嫌そうな顔をしたミサキが、純白の足袋で私の頬を踏みつけている姿を妄想するだけで、いくらでも気力が湧いてきた。
普段だったら全然頭の中に入って来ない教科書の内容も、自分でも驚くほどスムーズに覚えられた。いつも一時間も連続して勉強できなかったというのに、ご褒美のことを思うだけで三時間続けて勉強に励むことができた。
そして、その結果が全教科80点以上という誇らしい成績である。
「しかし、今回は教員側で謂れも無い疑いを掛けて申し訳ありませんでした、桐生さん」
もっとも、何時もは平均で60点ぐらいの成績なので、あからさまに教師陣からカンニングを疑われて、職員室に呼び出される問題に発展してしまったのは、少々面倒だと思ったけど。
「あー、いえ、普段の成績がダメダメな私が悪いのでー」
「いいえ、違います。カンニングを疑うということはつまり、テストの監視を行っていた教員が自分は生徒の不当行為を見逃してしまった無能であると自己主張することであり、とても情けないことなのです。それが、本当に実力で高得点を取った生徒に対しての誤解であったのならば、恥ずべきことでしょう。本来でしたら、疑った本人たちに頭を下げさせたいのですが、どうにも大人と言うのは年を取ると悪い方向に頭が固くなってしまいますので」
「いやいや! 皆森先生が謝る事じゃないですよ、ほんと!」
けれども、幸いなことに私のクラスの担任は『規律を重んじる合法ロリ』こと、皆森先生だったので、そういう疑うは直ぐに晴らされた。
皆森先生は控えめに言っても中学生が大人ぶってスーツを着ているようにしか見えないのだが、あれでも二十八歳という立派な大人である。
担当科目は数学。
小さく可愛らしい外見とは異なり、無表情で淡々と、けれど否が応でもこちらの頭の中に数式が刻まれるように教えてくれる優秀な教育者だ。
そんな彼女のモットーは信賞必罰。
正しい行いには、正しい報酬を。
間違った行いには、正しい罰を。
いつもは皆森先生に『貴方はもうちょっとまともに勉強しなさい』と怒られてばっかりの私だけど、今日ばかりは違う。きちんと皆森先生は私を庇って、他の教員を全員説得してくれたのだ。
「貴方がどうして急に頑張ろうと思ったのか、私は分かりません。ですが、理由がなんであれ、貴方が為した結果を私は尊い物だと思います。よく頑張りましたね、桐生さん」
「えへへへー、ありがとー、皆森先生っ!」
しかも、今日は慰めてくれているのか、特別優しい。
小さい背をつま先立ちして、精一杯手を伸ばして私の頭をなでなでして来る。何故か、無表情で。
これが皆森先生名物、『無表情なでなで』である。
特別頑張った生徒や、心に傷のある生徒を褒めたり慰めたりする時に使用する必殺技だ。これをされると、どれだけ思春期を生徒がいたとしても、一発で落とされてしまうのだから威力がすさまじい。そう、普段クールな皆森先生が頑張って真面目になでなでしてくれるから、とても気分が良くなってしまうのだ。
「いいですか、覚えておいてください、桐生さん。どんな理由であれ、現状から前に進もうとする意志を私は尊いと思います。いつまでも、貴方たちは学生では居られない。けれど、それは決して悲しい事ではないのです。願わくば、貴方が胸を張って未来に進めることを、先生は期待していますよ」
だから、私に言い聞かせるように呟かれたその言葉が、妙に優しくて私は少しだけ戸惑った。
皆森先生はいつも、一生懸命、教育者として生徒と向き合ってくれる。でも、そこには私情はできるだけ含まれておらず、あくまでも先生としての立場で助言してくれていた。
なのに、その言葉だけは少しだけその範疇からずれているような気がしたのである。
ほんの少しだけれど。
皆森先生は、私が『何者か』になろうと前に進むことを個人的に望んでいるような、そんな気がした。
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「えへへー! そんなわけで、今の私は超ご機嫌なのでした! なので、今日のカラオケは祈里の分まで奢っちゃう! ふふふ、どんどん褒め称えてくれていいんだよ?」
「…………えぇ」
「おっと、祈里。なんでそんなにドン引き顔?」
放課後、私と祈里は帰宅部なので、一緒に並んで駅前の通りを歩いていた。
目的の場所は駅前にあるカラオケ店。平日でも、夕方四時過ぎあたりから段々と混んで部屋が取れなくなってしまうので、出来る限り四時前から部屋を取っておくのがベスト。休日だと出来るだけ午前中に行った方が良いね。
まー、今日は平日だし、何より、帰ったらミサキが待っているからあんまり遅くならない程度に、二時間ぐらい歌ったらそのまま帰る予定。
「いやいや、親友が突然ロリコンになったら、そりゃドン引きだよ」
「えー、皆森先生は、見た目はロリだけど、れっきとした大人だよ?」
「違うの、そっちじゃない。ミサキって女の子に巫女服着てもらって、踏んでもらうって、アンタ、ちょっと性癖拗らせすぎじゃない?」
「そんなことないよ! 年頃の女の子は大体、皆同じように年下の綺麗な女の子にコスプレさせてえっちなことをしてもらいたいと思ってる!」
「少なくとも私は思ってない」
「祈里…………どんなに変な性癖でも、私は貴方の親友だよ?」
「私の台詞じゃない、それ?」
「ん、つまり両想い?」
「…………はぁ、こういうことを真顔で言うんじゃないの、ばか」
「あてっ」
私と祈里は他愛ない会話を交わしながら、隣合わせで歩いていく。
祈里は友達が多い。
見た目が綺麗だし、社交性が私よりも格段に上だ。ちょっと天然で馬鹿な所もあるけど、あざといわけじゃなくて、毒気が抜かれてしまうような人に好かれる馬鹿だ。
あまり人と沢山関わらない私と親友なのは、傍から見ていれば不思議だと思うかもしれない。
でも、私も祈里も互いに親友であることを不思議だとは思わない。
「おー、シャイなのかなー、祈里は」
「その通り、シャイなのよ、私は。そういうことを言いたいなら、二人きりの時に言いなさいっての」
「二人きりの時だと、私の倍以上は恥ずかしいこと言うじゃん。そうなると、私の方が不利というか、恥ずかしくなっちゃうじゃん」
「あら? 当然の事を言っているだけのつもりだけれど? それとも、結実は私と同じ気持ちじゃないの?」
「お、同じ気持ちだけどさー!」
例えば、趣味が合う。
カラオケで歌う曲とか、小物のセンスとか、好きな漫画やドラマとか。
例えば、息が合う。
何も意識していないのに、時々、言葉がハモってしまうほどに。
そんな風に、私と祈里はいろんな部分で噛み合うことが多いのだ。他の友達だと、意識して合わせないといけない部分が多いのに、私たちだと自然体で無理することなく噛み合う。息をするのがとても楽になる。
真顔で、青春っぽい恥ずかしい言葉だって言い合える。
だから、私と祈里は親友なのだ。
「んじゃ、その気持ちをこれから個室で確認し合って…………結実。ちょっと、こっち」
「え、あ、いきなり、何を――」
「早く」
だから、私は基本的に祈里の行動を疑わない。
カラオケという行き先を変えて、いきなり駅の通りにあった喫茶店へ向かって手を引かれた時は、戸惑いながらも直ぐに応じた。
――――結果として、祈里の行動は間違ってなく、また私の判断も正しかった。
『目覚めよ』
『目覚めよ』
『霧の中より、目覚めよ』
『停滞の檻を破り、新たなる生を見いだせ』
『終焉の獣が、我々を食らい尽す前に』
私たちが喫茶店へ入った直後に、霧が、雲が空から降りて来たみたいな濃霧が、辺り一帯を覆ったのだから。
霧の中から、真っ白な宗教装束に身を綴んだ老若男女の集団が淡々と、よくわからない言葉を揃って唱えながら歩いてきたのだから。
――――そう、『無貌の仮面』を被った、如何にも怪しげな宗教団体が、私たちの平穏な日常を壊しに来たのだった。