第102話 勿忘草を摘みに行こう 9
不快な霧の中を歩いていく。
田舎特有の未舗装の道を踏みしめて、一歩、一歩、己の場所を確かめながら。
「…………ふぅ」
もうすぐ初夏にでもなろうかという季節だというのに、口から吐き出た俺の吐息は白く、周囲の濃霧と一緒に混ざり合って消えた。
この霧の所為か、妙に肌寒い。
もしくは、たった一人で異様な空間の中を歩いているという自覚が、己の心を恐怖で震わせているのかもしれない。
『平蔵、策はある。だが、その策は少なからずアンタの協力が不可欠だ。アンタに少なくない危険が及ぶし、失敗したら手痛いしっぺ返しが待っているかもしれない。だが、何もかもを上手く進めるのなら、俺が考え付く最善の方法はこれだ』
作戦があった。
奇人にして、今、最も頼りにしている味方である見崎が考え出した作戦が。
その作戦の中では、俺はそれなりに大変な仕事を任じられているし、こうして、たった一人で『敵の腹の中』へと潜り込まなければいけないリスクもある。
普段の、いや、今までの俺だったら迷わず逃げていた場面だ。
――――だが、今の俺の中に、もはや逃げるという選択肢は存在しない。可能不可能の話では無く、俺の存在全てが『逃げてたまるか』とそれ以外の選択を否定している。
沙耶を巻き込んだこの悪趣味なゲームを、台無しにしてやりたいと心が震えているんだ。
それを考えれば、この程度の逆境など考慮に値しないね。
「へへっ」
歩みを進めていくにつれて、口元に笑みが浮かんできた。
薄暗い道。
所々に頭の部分が砕けた地蔵が置かれてある、気味の悪い田舎道。
明らかに、人が好んで進まない、この道の先に、『シナリオ通り』だと沙耶が俺を待っているらしい。
けれども、俺は既に思い出している。
この道は、如何にも生理的嫌悪感を掻き立てられるこの場所は、間違っても本来、沙耶が住まう祠へと続く道じゃない。
「…………舐めやがって」
笑みを浮かべたまま、小さく俺は呟いた。
そうだ、そうだとも。こんな未舗装で見すぼらしい道のはずがないじゃねーか。途中でボロボロの注連縄で区切られてはいたが、そもそも、違う。本来の場所の隣に、温泉宿なんて隣に無かった。もっと人里から離れた林の奥に祀られていた。しかも、こんなにボロボロじゃない。気味悪くない。神域とは言え、定期的に専門の神職の人たちが道を整えて、さらには祭囃子が聞こえる頃には社も毎回綺麗に掃除され、補修されているのが沙耶の居場所だった。
忘れ去られても無く、人々から覚えられ続けている優しい神様こそが、俺の知る沙耶だった。
「馬鹿にしやがって」
なのに、見崎が教えてくれたNPCからの情報は、全て、俺の知る沙耶を貶めるために考えてられているような物だった。
大体、俺が依頼されたオカルト事件の噂からしておかしい。
沙耶は人の願いを叶えない。ただ、辛いことや苦しいことから守ってくれて、もう一度、歩き出すまで傍に居てくれる神様だ。
だから、安易に人の願いを叶えない。というか、叶えられない。どれだけ美辞麗句でご機嫌を取ろうが、無理な物は無理だときっぱりと言い切るだろうし、仮に、罵詈雑言をぶつけられたとしても、沙耶が人を神隠しに遭わせることなど無い。
何もかもが、間違っていて。
何もかもを、歪めるかのような悪質な情報。
これらは全て、沙耶を忘れていた俺を苦しめるための、偽装の情報だろうと、見崎が説明してくれた。こういう毒々しい情報を流し込み、思考をシナリオ通りに誘導しようとしているのだと。
「へへっ」
俺を舐め腐って、沙耶すらも馬鹿にしている悪趣味なゲームマスター。
濃霧の中で、俺達を嘲笑うために仕掛けられた、霧深きホラーゲーム。
それらの事を考えると、俺は口元に笑みが浮かぶのを止められなかった。
そう――――――これから、胸糞悪い物を全部、まとめてぶち壊してやれるかと思うと、俺は笑みが止まらなかった。
ちょっと、まずいんじゃね? とは思うが、もしも、何者かが観測していたとしても、今の笑みは目的地に近づいて、色々急いている笑みに見えるかもだから、大丈夫だろ、うん。多分、相手は俺が単独でこの霧を防げているとは思ってねーだろうしさぁ。
『平蔵、これからアンタは単独行動することになるだろうが、その間、俺がアンタを何から何まで守ってやることは難しい。けれども、俺がずっと隣に居れば、相手は警戒して尻尾を出さない。だから、アンタが単独で行くしかない。その際に、ネックになるのは、この濃霧だ。こいつは人の意志と肉体を溶かす、非常に厄介な性質を持つ霧だ。俺の守り無しでは、最悪、溶かされて記憶と肉体をリセットされるかもしれん……そう、今までのアンタだったらな』
すぅ、と呼吸して、はぁ、と吐く。
当たり前の動作に、当たり前の繰り返し。
けれど、それら全てを意識して行うのは、ちょいと難しい。
『今のアンタの覚悟なら、霧の干渉も防ぐことが可能だ。なんだかんだ言ってアンタに警戒を促していたが、でもな? 曖昧に人に干渉して来るこの手の攻撃ってのは、確かな意思を持つ人間には通じない。覚悟を持つ人間は、霧に惑わされない。気を抜くな。常に、己の存在を意識手、呼吸しろ。前に進め。それさえできればもう、アンタにとって、この霧は猛毒じゃなくて、ただの鬱陶しい背景に過ぎなくなる』
でも、やろう。
何度でも、やろう。
気を抜かず、揺るがぬ覚悟と決意を胸に秘めて、俺は霧に満たされた道を歩いていく。
拓いて、進んでいく。
「ん?」
進んでいく内に、濃霧が一気に晴れた。
俺に干渉するのが無駄だと思ったのか、あるいは、もうすぐ目的地だからなのか? どちらかなのか分からない。ただ、確実なのは、そろそろ歩く必要が無くなるということ。
「…………」
霧が晴れたその先にあったのは、壊れかけた鳥居。荒れ放題の草むら。その中で、朽ちて、崩れかけた祠。一面に咲く、真っ赤な彼岸花。
退廃的な幻想に俺が思わず息を飲むと、ゆらりと、祠の前の景色が歪む。
ゆらゆらと、蜻蛉のように。
一瞬でも目を離せば、消えてしまう逃げ水のように。
「ヘーゾー」
そして、それは現れた。
鬼の仮面で顔を隠して。ふわりと、艶やかな黒髪をなびかせて。真っ赤な着物を淑やかに翻して見せて。
沙耶の偽物が、俺の目の前に現れた。
●●●
「ねーねー、沙耶! この花の名前なんて言うの? なんか、ここは一年中咲いているみたいだけど!」
「え、あ、う、うん! そうだね、一年中咲いているけど、これは特別。私が好きな花だから、うん、特別に咲かせているの。名前は…………秘密」
「えー、なんでぇ?」
「ちょっと恥ずかしいから、秘密です。土地神がこういうの咲かせているの、我ながら露骨で引いちゃうから」
「俺は引かないよ!」
「引かないけど、恥ずかしいから駄目!」
恥ずかしがって、中々教えてくれなかったけれど、事あるごとに俺は何度も沙耶に訊ねた。
しつこくて嫌われるかもしれないかと思ったけど、これだけは、何故か沙耶の口から説明して欲しいと思ったから。自分で調べて、見つけても意味が無いと思ったから。
「……しょーがないなぁ、もう。じゃあ、一度だけ、一度だけだからね? あ、後、この花が好きなのはあくまで見た目が綺麗だから! それだけの理由だからね!」
色々頑張って、ご褒美を我慢して、やっと俺はその花の名前を教えてもらった。
「――――勿忘草。この花の名前は、勿忘草だよ、ヘーゾー。よければ、忘れないであげてね?」
彼女にとって、特別な名前の花を。
土地神として、俺達人間に向けて隠された、露骨で密かなメッセージを。
●●●
「どうして、どうして、私を忘れたの? ねぇ、ヘーゾー」
鬼の仮面から呟かれるのは、怨嗟の声。
知っているはずの声で、まったく知らない忌々しいげな言葉を吐かれると、ここまで不愉快だとは知らなかったぜ、ふぁっく。
「なんで? ねぇ、なんで私から離れて行ったの? 私は、もう要らないの?」
繰り返される怨嗟に、思わぬ心が無いわけではない。
言葉が刺さらないというわけではなかった。
ただ、今の俺は、それよりも大切な存在を見据えていたから、気にならない。
「悪かったな。随分、待たせてしまった」
俺は謝罪の言葉を口にして、一歩踏み出す。
見据えた視線は、そのままで、決して離さない。
「ヘーゾー…………私、私ね、寂しか――」
「今、助けてやる」
踏み出して、駆け出す。
見据えた視線の先に居るのは、間違っても偽物じゃない。仕組まれたシナリオじゃない。
視線の先にあるのは、真っ赤な花の中に紛れた、一輪の青。
懐かしくも、美しい思いでの欠片。
『チャンスは一度切り。アンタが相手の企みに乗って、偽物の前に姿を現した時。こういう趣味の悪い相手が仕掛けて来たゲームならば、当然、最悪の趣向でアンタたちを汚そうとしてくる。即ち――――捕われた本物の目の前で、偽物と再会させようとするはずだ。その時こそ、アンタがヒーローになれる唯一のチャンス』
手を広げた偽物の脇を走り抜けて、彼岸花の群生の中へと俺は飛び込む。
『格好良く決めろよ、平蔵』
「――――おうともさ!」
記憶の中にある、見崎の言葉へ応えて、俺は手を伸ばす。
勢いよく、けれど、優しく。
大切な者を掬い上げるように、慎重で、けれど、力強く。
俺は、一輪の勿忘草を摘んだ。
「ああ、本当に待たせたな、沙耶」
一輪の花に姿を変えられた、愛おしい土地神を。
ヒーローらしくと呼ぶには、あまりにも遅すぎで、花弁と土塗れの恰好悪い姿だけれど、ようやく、俺は沙耶と再会できたのだった。