第101話 勿忘草を摘みに行こう 8
泊まる予定だった温泉宿は、宿泊部屋が合わせて八つ程度しか存在しないような小さな建物だった。ただし、民家を改造したような物ではなく、どちらかと言えば温泉宿の隣に、民家がくっついているタイプの温泉宿であり、地元民は宿泊よりも、入浴の為に通う人が多いらしい。
大儲けするほどの利益は見込めず、観光客をたくさん引き入れるような温泉宿ではないが、温泉は地元でもさほど多くない天然の物を使っているので、客足は年中途絶えることは無いのだとか。
正直に言えば、こんな事態にならなきゃ、少しは楽しみにしていたんだぜ?
地元に居た頃にも、たまに通っていた温泉宿だったからさ。こうね? 大人になって、懐かしさを噛みしめながら、のんびりと温泉に浸かってみたかった。料理も…………料理は、うん。ここの温泉宿は料理だけがいまいちというか、あまりおいしくないから、うん。近場の店を回って、適当に美味いもんでも食おうかと思ってたわけ。
「散々吐いた後に、カップ麺は辛い物があるぜ……」
「お? 胃に優しい白湯をお望みか?」
「味すら付いてない奴じゃん、それ。いやさ、折角温泉宿に居るんだし、食材だって、厨房を探せばあるんじゃね? 本格的な物じゃなければ、俺だって料理作れるし」
「はっはっは、この異常な空間にある食べ物がまともである保証はあると思うか?」
「……うー、ヨモツヘグリ?」
「そういうこと。でも、このカップ麺とお湯は俺が外部から持ち込んだ食べ物だから、安心して食うと良いぞ。ほら、おかわりもたくさん」
「一人暮らししていると、カップ麺の味は慣れしたしみ過ぎてさぁ」
だけど、まさか温泉宿のロビーでカップ麺を啜りながら、濃霧で何も見えない外を窓ガラス越しに眺めることになるとは思わなかったな、流石に。
…………そりゃ、今更こういう感想を抱けること自体、奇跡に近いっているか、正面で向かい合ってカップ麺を食べている見崎が居なければ、こんな能天気な文句も思いつかなかったかもしれねーけどよ。
つーか、その仮面外れるのね、口の周りの部分だけ。
「なぁ、食べる時ぐらい仮面を取ったらどうだ?」
「や、俺が仮面を取ったら大変なことになるから、やめておく」
「今更、火傷や傷跡ぐらいでビビらねぇっての」
「んんー? 違う、違う。そういう配慮じゃなくて、仮面を取ったら美し過ぎる俺の美貌で、お前が状態異常に陥りそうだから、気を付けているだけだぞ」
「なにその、謙遜の欠片も無い台詞」
「事実だから仕方ないだろ」
「…………隠されると見たくならね?」
「お前と沙耶がめでたく仲直りして、ハッピーエンドになった後だったら存分に見せてやらんでもない」
「うぐっ、急所を唐突に抉ってくるのやめーや」
俺が露骨に顔を顰めると、けらけらと楽しげに見崎が笑う。
こういうリアクションが、本当に、女子では無くて男子のそれに見えるから、不思議だ。男子みたいな態度を装う女性は今までそれなりに知っているが、ここまで自然に男子のしぐさや言葉の間などが馴染んでいる奴は初めて見る。
それこそ、本当に見崎が男であるという主張を信じてしまいそうになるほどほどに。
「さて、腹ごしらえの間に情報整理も終わったことだし、そろそろ推理タイムを始めるとしますか」
「お、名探偵の登場?」
「当事者兼助手も、しっかりと考えなさいね? 助けてやるけど、アンタの問題なんだから」
「そりゃあ、もちろん」
「まったく、余裕が出てくると結構ふてぶてしいな、アンタ」
「見崎にだけは言われたくねーぜ、マジで」
食事休憩の前。
温泉宿にやって来た俺がまず驚いたのは、温泉宿の中にはまともに人の形をした存在が居たという事だった。
外には不自然なほど誰も居らず、濃霧が風景を浸し、化物が徘徊する地獄になっているというのに、温泉宿の中だけは平穏無事そのもの。もちろん、従業員の人たちや、お客さんたちも心配そうな表情や、不安を確かめ合うような会話を交わしていたことから、この異常事態に俺達と同じく困惑している人たちなのだろうな、と俺は考えていた。
「そぉい」
気の抜けた掛け声と共に、温泉宿の中に居る人たちを見崎が消し飛ばし始めるまでは。
いやぁ、あの時は驚いた。そりゃあ、驚いた。だって、いきなりガォン! という音が鳴ったかと思うと、次々に見崎が温泉宿の人たちを消し飛ばしていくんだから。
当然、『え!? 狂ったの!?』とか思っても仕方ないよな、うん。
その後、しっかり見崎から説明を受けて、温泉宿の中の人は全て『人型の霧』であり、いわゆる人間ではなく、NPCだといいうことが判明。ある程度の受答えはするのものの、人間同士みたいな柔軟な会話や対応は出来ない偽物の存在だったのだ。一応、その後に俺へ詳しく説明するために、女将さんと目の前で対話してみせて、違和感や人間らしくなさを証明してくれたから良い物の、とても心臓に悪かったので二度とやらないで欲しい。
「んで、情報整理の結果は?」
「悪い情報と、最悪の情報があるが、どれを先に聞きたい?」
「全部まとめて、分かり易く簡潔に」
「――――アンタは性質の悪いゲームマスターによって破滅を願われている」
「……悪い。やっぱり、もうちょっと詳しく説明してくれ」
「おうとも、了解」
そして、今は別の意味で心臓に悪い。心臓が痛い。胃にも悪い。折角、半日ぶりの食事を終えて一息ついていたのに、思わぬ事実のボディブローで再び吐いてしまいそうだ。
いや、意地でも吐いてやらねぇけどさ、もう。
「まず、悪い情報を教えてやろう。いいかい、平蔵さん。アンタはこの霧の中での出来事をホラー映画に例えているようだが、実際は違う。実際は、ホラーゲームや、TRPGのホラーシナリオみたいな物だと考えた方が分かり易い。このシナリオを作り上げた、悪趣味な仕掛け人が存在して、アンタはそのゲームプレイに強制的に引きずり込まれた、憐れなプレイヤーだ」
「……ホラーゲームって、あー、この温泉宿がセーブポイントみたいな扱いで、んでもって、化物の中を掻い潜って、情報を集めていく想定のゲームだった、みたいな?」
「そうそう。難易度は何回もセーブポイントからコンティニューする前提だったようだがね」
「人の命は一つしかないんですが、それは」
「ここ以外だったら、そうかもしれないな」
ふぅ、という嫌気がさしたような見崎のため息。
俺はその動作に、背筋がぞわりと震えるような嫌な予感を隠せない。
「まさか、リトライできる、とでも?」
「よくあるループ物みたいな想定だったらしいぞ。アンタが死ぬ度、アンタは記憶と理性を削られて、最初の一日目に戻る。ちなみに、タイムリミットもあるらしい。村に来て七日目の夜までにクリアできなければ、呪いで死んで、また最初から。これを、クリアするまで続ける予定だったらしい」
「クリアできなければ? 途中で、俺の正気が消えてなくなったら?」
「霧の中で永遠に、死を繰り返すオブジェの出来上がり、というエンディング」
「…………そいつは、最低のクソみたいな情報だな、ちくしょうが」
何だ? 何なんだ?
沙耶に呪われて、殺されるなら分かる。沙耶に、永遠に苦しめと言われるなら分かる。でも、沙耶ではない何者かに、何でここまで恨まれているんだ、俺は?
「違う。最悪じゃあない。最悪なのは、ここからだ」
「えっ?」
だが、見崎の言葉は俺の想定した最悪のハードルすら容易く更新していく。
「NPC共の情報を整理して分かった。NPC共はアンタにヒントを与えるために、ある程度、深い情報まで知っていたからな。このゲームのクリア条件もなんとなくわかった」
「く、クリア条件が分かったなら良い情報じゃねーか……とは、いかないよな? ひょっとして、俺が沙耶に殺されることがクリア条件とか?」
「アンタが七日間の間でヒントを全て集めて、正しく推理して、想定されたシナリオ通りに進むとする。そうすると、アンタの目の前にはかつての沙耶が姿を現す。後は、沙耶に対してアンタが『忘れてしまった』ことを懺悔して、仲直りしてお終い。二人は、霧の中で包まれた街の中で、ずっと幸せな暮らしをしましたとさ」
ただし、と見崎は言葉を続けて、首を横に振った。
「アンタがその時、沙耶だと思っているのはNPCというオチだ。多少の違和感があっても、誤認ために、何度もアンタを殺して理性を削る仕掛けを用意していて。しかも、この村の何処かに封じられている本物の沙耶に、アンタが偽物と幸せな生活を見せ続ける。沙耶が絶望して、自らの存在を放棄するまで、何時までも」
「なん、で、そんな?」
「当然、最初からアンタが本物の沙耶を見つけてこの村から脱出するという、クリア方法は想定されていない。むしろ、想定外の行動を取った場合、周囲の霧が干渉してきて、強制的に肉体も記憶もリセットされる設定だろうな。今、アンタがリセットされていないのは、俺がこの空間に干渉して、支配権を略奪しているからだ。そうでなければ、とっくにリセットされていただろうよ……アンタが記憶を取り戻した時点で、な」
「――――ちくしょうが!」
俺は思わず悪態を吐いて、壁に拳を叩きつけた。
叩きつけても、まるで壁は揺るがない。ヒビすらも入らない。自分の拳だけが痛くなる結末。まるで、俺自身の無力さを象徴しているかのようだ。
…………なぁ、おい。誰だよ? 誰が、誰がこんなクソみてぇなゲームを仕掛けたんだよ? 俺だけじゃなく、なんで、沙耶も、沙耶すらも苦しめるんだ? 沙耶は、沙耶は違うだろうが。沙耶はこんな風にされるまで、誰かに恨まれる奴じゃない。俺が糞で、俺を最悪にぶち込みたいなら、俺だけを狙えばいい。なのに、何で、沙耶も? この村の住民も? 何もかもを巻き込んで、こんな悪趣味なゲームをやろうしたんだ?
「許せねぇ」
怒りの言葉は、いつの間にか口から出ていた。
叩き付けた拳を開き、灼熱の感情が渦巻く胸を、掻き毟る。
「俺だけなら、まだ諦められた。誰かからどんなに恨まれたとしても、憎まれたとしても、俺だけで完結するなら、受け入れてやれた。けど、どんな理由があったとしても、沙耶まで巻き込んだ奴を、俺は許したくない。例え、俺が最低最悪のクソ外道だったとしても! 自分が何をしたのか忘れているクソ野郎だったとしても! それだけは譲れねぇんだ!」
まるで、十代の青臭いガキのように吠え猛る俺。
ああ、だっせぇな。二十代を過ぎたら、もっとさ、熱くなる前にスマートに解決しようぜ。そもそも、問題を起こさないように立ち回るのが大人じゃねーか?
大人で、冷めた俺が半笑いでガキの自分を否定する。
だが、そんな自分は一瞬で、瞬く間に荒れ狂う感情の炎に焼かれて消えてしまった。
そうだ、そうだとも。どれだけダサくて、格好悪くても! 俺は、沙耶を傷つけようとする悪意全てから、沙耶を守り抜きたいんだ。
例えそれが、美しくも無く、尊くもない感情論の行動だったとしても。
「いいね、悪くない啖呵だ――――面白い」
そんな感情論でも、どうやら、一人ぐらいは最後まで付き合ってくれるらしいから。
「じゃあ、ここから特別に良い情報を教えてやろう、田辺平蔵。本来だったら、どうにもならない絶望的な状況らしいが、頼もしいことに、今、アンタの目の前には飛び切りの反則があるぞ。しかも、そいつはどうやらアンタの事を気に入っているらしい」
「へぇ、そうかそうか。んじゃあ、ひょっとしたら手を貸してくれたりする?」
「ああ、『助ける』んじゃなくて、お前の行動に手を貸してやるよ、平蔵」
「ふふっ、呼び捨て」
「嫌なら戻すが?」
「いいや、悪くない…………必ず、この借りは命に代えても返すぜ、見崎」
俺の覚悟の言葉に対して、見崎は『ちっ、ちっ、ちっ』と人差し指を振ってきざったらしく訂正を求めて来た。
「借りを返すも、返さないのもアンタの自由だ。だが、命に代えるのは認めない。何故なら、この俺は手を貸すことに対して求める条件はたった一つだけだからだ」
その言葉はあまりにも気障で。
格好つけていて。
素面の時に聞いていたら、思わず笑ってしまうかもしれないほど青臭くて。
「この悪趣味なホラーゲームを覆すぐらいの、ハッピーエンドを見せてくれ」
「おうともさ!」
けれど、今の俺にとっては千の言葉よりも心を震わせる台詞だった。