おすそわけ
午前中刺繍の授業で練習の成果を感じられず肩を落としていたサラに、メアリーは紅茶を差し出した。それは今までにはない香りが漂っていた。
「今日は林檎の香り付けをしてあります」
サラはメアリーの言葉で香りの正体に納得し早速紅茶を口に運ぶ。そして嬉しそうに微笑む。
「本当に林檎の香りがする。不思議ね」
「茶葉と小さく刻んで乾燥させた林檎を一緒にポットに入れて淹れているのです。他の果物でも出来ますので、もし希望があったらいつでも仰って下さい」
「わかったわ、ありがとう」
サラはそう言ってもう一口紅茶を口に運ぶ。彼女は美味しい紅茶のおかげで、まだ刺繍は始めたばかりだから、いちいち気落ちするのはやめようという気分になってきた。
「ところで今日のクリフォード様、とても機嫌が良さそうでしたね」
今日のクリフォードは明らかに上機嫌であった。朝からずっと笑顔をサラに向けていた。出かける前に抱擁した時も小声で頬に口付けを強請り、彼女が仕方なくそれに従うと、満面の笑みを浮かべて出かけて行ったのだ。昨日までと明らかに違う彼の態度に使用人達はどう判断していいのかわからず、皆困惑の表情を浮かべていた。
「中にはクリフォード様がおかしくなったのではと不安に思っている者もいるのですけれど、あれは違いますよね」
エマは嬉しそうにサラに尋ねる。サラは嫌そうな表情を返した。
「違うわね。ただ浮かれているだけ。悩んでいるクリフが面倒になってしまって、私の気持ちを伝えたらあぁなったのよ」
「でもあれはあれで面倒そうですよね。休みの日はずっとサラ様と一緒に居そうですよ」
メアリーの言葉にサラは時間割に目をやる。一番近い休みの日は明後日である。一・二日で落ち着くとは思えない。今朝だけでも疲れたのにあれを一日中なんて彼女には受け入れがたかった。
「最悪この部屋に籠るわ。無理よ、一日中は」
「クリフォード様は限度というものがわからないのでしょうか。サラ様がいらしてから落ち込むか浮かれるかしか見ていない気がするのですけれど」
「クリフォード様もきちんとされる時はしますよ。サラ様の前だけあぁなのです。お仕事中は真面目に取り組まれているそうですから」
メアリーの質問にエマが答える。それにサラは冷たい視線を投げた。
「本当に真面目に仕事が出来ているのかしら。私は不安しかないのだけど」
「結婚話が進み始めてからは結構真面目に働かれているみたいですよ。旦那様の評価ですから、私は実際の所見ていないので何とも言えませんけれど」
王城の仕事場など女性が覗きに行ける所ではない。彼女達はクリフォードの真面目な顔など見る機会はないのである。ウォーグレイヴの屋敷ではサラの態度に一喜一憂する彼しか見られないのだ。
「女性も政治に参加出来るのなら、私はクリフより仕事が出来そうなのに」
「サラ様のお仕事はクリフォード様がお仕事を真面目に出来るようになさる事ですよ」
エマの言葉にサラはため息を吐く。
「その一生続ける仕事はとても疲れそうで今から気が重いのだけど」
それを聞いてエマとメアリーは笑う。つられてサラも笑った。
エリオットの騎士として戦地へ行く手続きが完了した。そんなエリオットの所に浮かれた様子のクリフォードが訪ねてきた。
「今夜夕飯食べにくるだろ? 一緒に馬車で行こう」
「一昨日はあんなに不機嫌そうだったのに、随分態度が違うな」
「だってサラが俺の事好きって言ってくれたもん。両想いっていいね」
「そう言われても私にはわからないけど」
エリオットはどうも恋愛感情というものが理解出来ないでいた。しかし人の心の動きを察する事が出来る。それ故クリフォードとサラの事はずっと歯痒く思っていた。
「幸せのおすそわけしてやるから、馬車で帰ろう」
「そのおすそわけは要らないけど夕食は楽しみにしていたから行く」
「遠慮しなくていいのに」
クリフォードは笑顔のまま部屋を出ていく。エリオットは呆れた笑みを零してクリフォードの後についていき、一緒に馬車でウォーグレイヴ家へと向かった。
「おかえりなさいませ」
サラはクリフォードに抱擁して頬に口付ける。彼は満足そうに微笑む。
「ただいま」
「ようこそ、いらっしゃいませ」
サラはクリフォードから離れてエリオットに向けて腕を広げる。その腕をクリフォードが掴む。
「駄目。これは夫婦の挨拶なの。友人にはしないの!」
クリフォードの態度にエリオットが笑う。
「幸せのおすそわけと言っていた割には心が狭いな。クリフが怖いから私は遠慮しておくよ」
「遠慮しなくても宜しいのに」
「サラ! 俺は着替えてくるけど待ってる間にしたら駄目だからね」
本気で怒っているクリフォードにサラは微笑む。
「しませんよ。客間で御待ちしています」
「うん。絶対だからね!」
クリフォードは念を押してマシューと共に自室へと向かって行った。サラとエリオットは顔を合わせて笑うと客間へと向かう。客間の前に来た時、メアリーが丁度カートを押してきた所だった。エリオットは扉を開けてサラとメアリーを先に通した。
「お客様なのに、ありがとう」
「私は客人ではないから気にしないで」
サラとエリオットはソファーに腰掛ける。メアリーは手際よく持ってきた紅茶をカップに注ぐ。彼は普段と違う香りに彼女の方を見た。彼女は微笑んで頷いた。
「大切なお客様には淹れてもいいと言われているの。門出に相応しいと思って。ほら、私が何か贈り物をすると多分彼が面倒だから。これは彼が苦手だから大丈夫だと思うし」
サラの言葉にエリオットは微笑む。メアリーは紅茶をサラとエリオットの前に置いた。
「メアリーさん。いつも美味しい紅茶をありがとうございます。私は明日王都を立ちますが、また戻ってきた時は是非美味しい紅茶をお願いします」
クリフォードは紅茶が苦手だがエリオットは好きなのである。なので今まで希望があれば出していたのだ。
「いえ。エリオット様は美味しく飲んで下さるのでいつもで歓迎致します。リデルの紅茶、お口に合うと宜しいのですけれども」
メアリーの言葉にエリオットはティーカップを手にする。香りを楽しんでからティーカップを口に運ぶ。そして味わうようにゆっくりと紅茶を飲んだ。彼は満足そうな表情を浮かべた。彼はよくこの屋敷には来ていたが、リデルの紅茶を飲むのは初めてだった。
「これがリデル。流石は高級茶葉と言われるだけの深い味わいと芳醇な香り。メアリーさんが淹れた事でこれはきっとガレス一の紅茶でしょう。ありがとうございます」
「お褒め頂きありがとうございます。それでは失礼致します」
メアリーは一礼するとカートを押して部屋を出てった。扉が閉まるのを確認してからエリオットはサラに微笑む。
「ありがとう。ずっと飲んでみたかったからこんなに嬉しい事はないよ。クリフにはこれを出すという発想がないからね」
「いいえ。この屋敷の力を使うという私の努力が何もない物でごめんなさい」
「いや。この方がクリフとしてはいいだろう。それに努力していない事もない。メアリーさんに好意を持たれていなければ、多分リデルは淹れてくれなかったと思うよ」
サラはエリオットの言いたい意味がわからず訝しげな表情を浮かべた。
「メアリーさんは嫌なものは嫌という人だから。もしサラの事が嫌いなら理由をつけてリデルを出してくれなかったと思う。この家にサラが馴染んでいるようで安心したよ」
「皆いい人なのよ。私の事を身分が低いと見下す人もいないし」
サラの態度に文句を言ったのは初日のヘンリーだけであり、それ以外は男爵家出身という事など知らないかのように、使用人全てが彼女を受け入れていた。
「見下すような人はこの家にいないよ。特にクリフだけになってからは平民や貴族というのを気にせず、大家族という感じで。本当に皆が優しくてここは居心地がいい」
エリオットは優しい表情のまま紅茶をもう一口運ぶ。サラも紅茶を口に運ぶ。その時扉をノックしてクリフォードが入ってきた。彼は室内に漂う香りに少し嫌そうな顔をした。
「夕食前に紅茶を飲んでるの? しかもそれ父上が好きなあれだろ?」
そう言いながらクリフォードはサラの横に腰掛ける。
「好きでない割に、香りだけで何かはわかるの?」
ヘンリーが違いがわからないと言っていたので意外そうにサラはクリフォードを見る。
「香りの違いはわかるよ。味の違いはわからない。どれも好きじゃない」
「贅沢だな。この紅茶は限られた人しか飲めないと言うのに。好き嫌いは仕方がないけど」
「でも何で急にリデルなんか」
「戦地はリデルの端の方だから、この茶畑が蹂躙されないようエリオットに守ってもらおうと思って」
今日の授業は偶然にも隣国レヴィ王国との戦争についてだった。サラは学校で習った事しか知らず、とても興味深く授業を受けた。そして戦地がリデルの端と知り、メアリーに紅茶を淹れて欲しいとお願いしたのだ。
「父上は本気であの戦争を終わらせたいみたいだよ。宰相になりたいのもその為だし。よっぽどこの茶畑を守りたいんだろうね」
「長く続いている割に何も得られない戦争だから、終わらせたいと思うのは自然な事だと思うよ。私も終わらせたいと思っている。私のように父を戦争で亡くす子供は一人でも少ない方がいいから」
サラはエリオットを見つめた。そんな気持ちで騎士に戻り戦地へ向かうのだとは思っていなかった。
「そうね。早く終わるといいわね。クリフも仕事を頑張りなさいよ」
「俺の仕事は徴税の資料整理だから戦争関係ないし!」
クリフォードの言葉にサラが笑う。エリオットも微笑むとクリフォードも笑った。三人はその後楽しく夕食を共にした。