限界の先
サラは玄関から客間に戻ったが、そこにクリフォードはいなかった。それなら居間かと居間の扉をノックしたがこちらも返事はなく、扉を開けてみたもののそこにも彼はいなかった。あとは彼の自室になるわけだが、彼女はそこに一度も入った事がなく、わざわざそこへ逃げて行った男を追いかけるのも面倒なので、居間のソファーに腰掛けエマが呼びに来るのを待った。エマが呼びに来た時クリフォードがいない事を不審そうにしていたが、気にしないように彼女は伝えると浴室へと向かった。
一方、クリフォードは自室のソファーで不貞寝しているかのように小さく丸まっていた。そんな主を見てマシューは小さくため息を吐いた。
「いかがされたのですか。入浴はして頂かないと困るのですが」
「少し放っておいて。入浴は後でするから」
マシューは先程エマから話を聞いてここに来ていた。エマはクリフォードの話し相手をしていた事もありマシューとも仲がいい。なのでエマはクリフォードに考え込まないように言って欲しいとマシューにお願いしたのだ。サラの侍女になったエマは、自分の意見をクリフォードは聞かないだろうと判断していた。
「クリフォード様は努力される事を放棄したのですか?」
「俺は今結構へこんでるから追い打ちかけないで」
「やはり我慢出来ないではありませんか」
「何が?」
クリフォードは丸まったままマシューを見ようともしないが、声色は少し不機嫌そうになった。
「愛されなくても嫌われないなら最悪それで我慢するという話です。もう限界ですよね?」
「煩いな」
「だから愛される努力をした方がいいと言ったではありませんか。何故その努力をされないのですか」
クリフォードは身体を起こした。彼は今にも泣きそうな顔をしている。
「わからないからだよ。サラが何を考えているのか全然わからない。だからどうしたらいいのかわからない」
「それならサラ様にお伺いすれば宜しいではありませんか。今サラ様の気持ちがどうなのか」
「何でそんな傷付くような事を聞かなきゃいけないんだよ」
クリフォードは嫌そうにそう言った。彼はサラの口からエリオットが好きだと聞きたくなかった。しかしそんな勘違いを知らないマシューは淡々と続ける。
「前に進まないからです。この状況であと四十年暮らせると御思いですか? ずっと恐れていては何も変わりません。クリフォード様はサラ様に愛されたくないのですか?」
「愛されたいに決まってるだろ!」
「それならサラ様の気持ちを聞くべきです。考え込んでも仕方がないではありませんか。サラ様の気持ちをクリフォード様が正しく理解していないから、わからないのではないのですか?」
マシューの説得にクリフォードは困った表情を浮かべる。マシューはそんな主に向かってわざとらしいため息を吐いた。
「これはクリフォード様だけの問題ではありません。微妙な空気ですと使用人達も働き難いという事は覚えておいて下さい。着替えを置いておきますから入浴は必ずして下さい。では失礼致します」
マシューは一礼するとクリフォードの部屋を出て行った。クリフォードはその場でそのまま項垂れていたが、何かを覚悟したように息を吐くと勢いよく立ち上がった。
サラは入浴を済ませると寝室へと向かった。しかし扉を開ける気にならなかった。避けられているのならここを開けるのはよくないのではないだろうかと思った彼女は、隣の自分の部屋に入ると机に向かい、便箋に今日は自分の部屋で寝ますと書きそれを寝室の扉の取っ手にでも括り付けようと部屋を出た時、丁度廊下で寝室に向かうクリフォードと目が合った。
「クリフ、私と一緒に寝る気はある?」
サラは持っていた便箋を手の中で握り潰した。クリフォードは困ったような表情を浮かべている。
「無理しなくていいわよ。最近クリフは笑わなくなった。私といるのが辛いのでしょう? ここはクリフの家だからクリフが我慢するのはおかしいのよ」
無理に笑顔を作るサラにクリフォードは無言で近付き、彼女の腕を掴むとそのまま寝室へと連れて入っていった。そしてそのまま彼女をベッドに座らせて、彼も横に腰掛けて俯いた。暫く沈黙が続いていたが、彼は俯いたまま重い口を開けた。
「久々にエリオットと会えて楽しかった?」
「えぇ、楽しかったわ。数ヶ月のはずなのに何年かぶりみたいな不思議な感覚だった」
「俺はずっと前から知ってたんだ。エリオットが騎士になって戦地へ行く事。知っててサラに言わなかった。怒る?」
「別に怒らないわよ。エリオットが私に言わなかったんだから、クリフが言う必要もないでしょう?」
「卒業式より前から知ってたんだ。もしそれを言ってたらサラは俺とは結婚しなかった?」
クリフォードは相変わらず俯いている。サラにはその関連性がよくわからなかった。
「エリオットはこの結婚と関係ないでしょう?」
「いや、もういいよ。だってサラ今日凄くいい笑顔してたじゃん。エリオットに会えたから嬉しかったんでしょ? 俺といるよりエリオットといたいんでしょ?」
サラは苛立ちクリフォードに平手打ちをしたい衝動に駆られたが、それを必死に抑えた。手をあげたら父親と同じになってしまう。それだけは絶対に嫌だった。
「私の気持ちを勝手に決めつけないで。エリオットへの気持ちは告白して振られた時に終わってるの。恋愛感情なんて少しも残ってないわ」
クリフォードは顔を上げてサラの方を不思議そうに見た。その表情が彼女を余計に苛立たせた。彼女はわなわなと震える腕を必死に振り上げないように抑えながら続ける。
「私は嬉しかったの。愛を育めたらいいという言葉は涙が出るほど嬉しかったのに、何故その方向で考えないのよ。あの時明日以降ゆっくり考えようと言ったのに。嘘吐き」
サラはクリフォードから顔を背けた。気持ちが昂ってしまって悔し涙が流れるのを堪えきれず寝衣の袖で拭った。彼はそんな彼女を見て驚いたまま動けないでいた。
「エリオットの事、もう好きじゃないの?」
サラが少し落ち着いた頃発せられたその言葉に彼女は再び苛立った。
「エリオットは友人。それ以上ではないわ」
「じゃあいつか俺の方が上になる?」
サラはクリフォードを睨んだ。彼女の脳裏にエリオットの襲うという言葉が過る。次の瞬間、彼女は彼の唇に口付けた。そして彼から離れるとそのままベッドへと潜り込んだ。
「ちょっと待って、サラ。どういう意味。寝る前に説明して」
「そんなの察しなさいよ」
「嫌だ。言葉で聞きたい。俺はサラに一目惚れだったんだよ。サラはいつから気持ちが変わったの?」
「知らないわよ。気付いたらクリフが好きだったの」
「いつ? いつ気付いたの? 結婚してから?」
突然声色が明るくなったクリフォードに別の意味で苛立ちながらサラは身体を起こした。
「結婚してからのわけがないでしょう? ここ数日のクリフにどうやって惚れると言うのよ?」
「じゃあ学生時代って事? でもあの時大嫌いって」
クリフォードはそれ以上言葉を発しなかった。当時の事を思い出しているのか表情が悲痛に歪んでいる。
「自分勝手に唇を奪おうとする態度が好きだからこそ嫌だったの」
「あれはごめん。結婚出来ないのならせめて記念にと思って」
「何の記念?」
「だってこの家を潰すわけにはいかないから、サラがどうしても駄目なら別の人と結婚しないといけなくて。でもサラ以外の女性を好きになれる気がしないから、思い出的な」
サラは何て身勝手な男なのだろうと呆れた。そんな彼女を気にせずクリフォードは続ける。
「それも失敗して、だったらもうどうでもいい、誰でもいいから慰めてくれないかなと思ったんだけどそれも駄目だった」
「そこは真面目に探しなさいよ。何で娼婦なの?」
サラに思いがけない事を言われ、クリフォードは困った顔を浮かべる。
「マシューに慰めてくれる人がどこにいるのか聞いたら娼館って言われたから」
慰めるの意味が違うのではないかとサラは気になったが、言葉を発する前にクリフォードが続けた。
「でもそういう気にならなくて。そういう気になる人を探そうと毎日人を変えたけど結局見つからなくて、その内父上に露見して怒られた」
「つまり娼婦を抱いていないの? 一人も?」
クリフォードは小さく頷いた。サラはエリオットの言葉を思い出した。あの噂は半分嘘というのは娼婦を買ったのは本当だが抱いていないと言いたかったのだ。
「仕方がないじゃん。皆サラより魅力がなかったんだから。だから父上に怒られた時、サラ以外と結婚してもきっと跡取は出来ないって言ったら、父上が色々してくれたんだ。サラに婚約壊したら容赦しないって言われてるとは伝えたんだけど、父上は露見しなければいいって」
「そうね、言われるまで婚約解消が仕組まれた事とは知らなかったわ」
サラの冷たい声色にクリフォードが怯えた表情を浮かべる。彼女はヘンリーから話を聞いていたわけだが、それを彼は知らないので今自分が言わなくていい事を言ったと思ったのだ。
「余計な事を言った。ごめん、聞かなかった事にして」
「それは無理な話ね」
「容赦しないって何をする? 文句を言うとかならいくらでも聞くし、欲しい物は何でも買うから、俺を嫌いになるという選択肢だけはやめて。折角両想いだってわかったのにそれ壊すのだけは嫌だ」
クリフォードは必死に捲し立てた。あまりの必死さにサラは呆れ笑いを零す。
「もういいわよ。結婚してしまったもの。今更どうにもならないわ」
「許してくれるの?」
「あの時は父に怒られるのが怖かったの。でもお義父様がうまくやってくれたから父は何も知らないでしょうし、もうこの話はいいわよ」
クリフォードは明るい表情になると思い切りサラを抱きしめた。
「サラ大好き」
そう言ってクリフォードはサラから離れると彼女の頬に手を添えた。彼女は視線を伏せてから静かに瞼を閉じる。彼は嬉しそうに微笑むと唇を重ねた。そしてベッドへと倒れ込む。何度も口付けをし、彼は彼女の首筋へと唇を這わせる。
「クリフ、待って」
「何で?」
「この先の展開が困るからに決まってるでしょう?」
クリフォードは不機嫌そうに身体を起こしてサラを見る。彼女は困ったように彼を見つめ返す。
「まだ何十日も経っていないわ」
「いやここは雰囲気に流される所だよね?」
「まだ無理。もう少し待って」
サラは毎晩入浴する度に痣を確認していた。もう少しで綺麗になるけれどまだ少し残っているのをクリフォードに見られるのが嫌だった。
「えー。ここでおあずけとか酷くない?」
「酷くないわよ。クリフは一時間前の自分の態度を覚えていないの? こんな急展開は予測出来ないわ」
サラの言葉にクリフォードは渋々納得し、彼は彼女の横に寝転がった。
「さっきの俺の態度が悪かったのは自覚あるから、今夜は我慢する。抱きしめるのはいい?」
クリフォードの言葉にサラは頷く。彼は満面の笑みを浮かべて彼女を後ろから抱きしめた。それは今までのどこか遠慮がちな雰囲気とは違い、しっかりと抱きしめていた。彼女も自然と微笑んだ。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
サラは久しぶりに心から幸せな気持ちのまま眠りについた。