交わらない思い
サラは早足で帰路に着いた。家に着いてもそのままの速度で自室へ直行し、中に入ると鞄をベッドに投げ捨て椅子に腰掛けた。
『サラ……まさか……』
先程の驚きを隠しきれなかったエリオットの言葉が脳裏に蘇る。
一体いつからだっただろう。サラは記憶を辿り始めた。
エリオットに告白をした時は確かに彼の事が好きだった。しかしそれは今、心の中にある感情と決して同一ではない。
何度サラに否定されてもクリフォードは自分の気持ちを彼女に言い続けた。だが、エリオットに告白したあの日から今日まで彼はそれを一言も口にしなかった。
そのおかげでエリオットとクリフォードとサラは本当に仲の良い友人として、とても楽しい時間を共有した。
それなのにいつからか、サラの心の中で何かが崩れていった。それは、卒業が近付くと同時に迫る結婚に対して増してきた不安のせいかもしれない。いつも頼りないけれど優しいクリフォードに身を預けたくなったのかもしれない。
サラ自身理由はわからないが、彼女は自分の心の変化に気付いてしまった。相手がエリオットのままだったらどれだけ楽だったのだろうと、ふっと笑いを浮かべてみてもすぐに虚しく消えた。
サラは頭を抱えた。彼女の心はあまりにも弱く、どうすればいいのか迷ってしまう。
この心の弱さではクリフォードの愛情に負けてしまうだろう。しかしこのままが最良とはとても思えない。けれど父親の決めた結婚を取りやめる勇気も彼女にはない。
サラが悩んでいるその時、思考を遮るようにノックする音が室内に響いた。
サラは誰が扉を叩いたか音でわかり身体を強張らせた。今一番会いたくない人に違いないのに、彼女には拒む力がない。
「はい」
サラは扉の向こう側の人に返事をした。彼女の返事を聞き終えると同時に扉は開き、サラの父が部屋に入ってきた。
「どうした、気分でも悪いのか?」
サラはクリフォードに呼び止められ、エリオット宅に寄ったのだから帰宅時間がいつもより遅くなっている事をすっかり失念していた。
「戻りの挨拶を忘れて申し訳ありません。気分は悪くありません。以後気をつけます」
サラの声に身体の緊張が伝わる。謝罪の表情を浮かべようとしたが恐怖に負けそうで、彼女は頭を下げた。
「そうか? それならいいが。嫁入りが控えているのだから、無理はいけない」
優しい声色の父の顔を、頭を上げたサラは直視出来ない。その視線は彼女の父の奥を見ているようだった。
「心得ております」
「うむ。もうすぐ夕食だ。着替えて居間に来なさい」
「はい、すぐに参ります」
サラは父親が部屋を出て行ったことを確かめると、身体の緊張を解し椅子にもたれかかった。
サラの父親は娘の結婚が決まって以来機嫌がいい。それがサラにとって唯一の救いだった。
それでも身体は恐怖を覚えている。決して忘れる事はないのだろう。幼い頃から父の言葉に背けば殴られた。体中に痣が出来るので自然と全身を覆う服しか着なくなった。それが結婚が決まった日から止まっている。勿論、サラが父親の言葉に従っているのは確かだが、多少の事で手を上げる事がなくなった。それほどこの婚姻を成功させたいのだろう。
実際、サラはこれを狙って学校に行く条件に結婚を出したのだ。結婚をすれば余程の事がない限り実家に戻る事はない。つまり父親に殴られる事から解放される。しかし殴られなくても愛のない結婚生活に、何を求めればいいのだろうか。
サラは椅子から立ち上がると急いで着替え始めた。今は将来について考え事をするより、夕食の席に少しでも早く着く事が彼女には重要なのである。
翌日、サラは体調を崩し学校を初めて休んだ。
いつもなら無理してでも学校へ行くのだが、クリフォードに会わせる顔がわからず逃げたのだ。もしかしたら一種の知恵熱みたいなものかもしれない。
幸い父親も昨日の事を勘違いしたのか何も言わなかったので、サラはゆっくりと休む事にした。
しかし、ベッドの中でいくら考えてもサラの思考は堂々巡りだった。
結婚相手であるトーマよりクリフォードの家の方が格段上なのは事実。だがサラは父親がクリフォードを認めるとは到底思えなかった。クリフォードがもしも正妻の子供であったならば、手を叩いて喜んだかもしれない。けれども彼は正妻の子供ではない。父親が認知しているだけで、母親は誰なのか全くわからない。そんな彼を父親は傷付けるに決まっている。絶対にそれはしたくない。
自分だけが我慢すればいい話なら結論はすぐ出せる。しかし、自分が我慢してもしなくても結果的にクリフォードを傷つける事になりそうで、サラは結論を出せずにいた。
夕刻、サラの部屋を召使いがノックした。
「はい」
サラは返事をすると、横になっていた身体を起こした。
「失礼致します」
花束を抱えた使用人は部屋に入るとサラに花束を差し出した。
「御友人の方からお預かり致しました。こちらへ案内しようとお誘いしたのですが、急いでるとの事でした」
「ありがとう」
サラは花束を受け取った。誰からの贈り物かなんて聞かなくてもわかる。
「失礼致します」
召使いが部屋を出て行ったのを確認し、サラは花束の中に埋もれていたカードを取り出した。
『明日は学校に来いよ。エリオットと二人じゃつまらなさすぎる』
サラは思わず笑みを零す。気を遣って選んだであろう言葉が嬉しかった。
サラはクリフォードの心遣いに応えなければいけないと思った。結論を出して彼に伝えよう、そう思った。
翌日。サラは何事もなかったかのように登校した。そんな彼女をエリオットもクリフォードもいつかの如く、何事もなかったように迎えた。
「クリフ、少し時間を貰えるかしら」
放課後、サラは帰宅しようとするクリフォードに声をかけた。
「ん? 何?」
「うん、ちょっと。悪いけどエリオットは先に帰って貰えるかしら」
いつもなら三人で帰るのだが、エリオットは理由も聞かず頷くとそのまま帰っていった。
エリオットは一見冷たいように見えるが、本当は優しい。あまり多くを語ろうとせず心の中までは決して入ってこない、けれどサラは彼が背中を押してくれているような気がした。
エリオットを見送った後、サラとクリフォードは校舎裏へ行き、ベンチで横に並んで腰掛けた。
「この前はごめんね」
「俺の気持ちを拒否する話なら聞きたくないんだけど」
クリフォードはサラの方を見ずに真っ直ぐ正面を見据えている。
「私はクリフには幸せになってもらいたいと思ってるのよ」
「だったらどうして!」
クリフォードはサラを見つめた。サラはそれを笑顔で受け止める。
「私にこだわる必要はないでしょう? 私より素敵な女性なら沢山いるわ」
「嫌だ。サラがいい」
「どうしてそんなに頑ななの」
「サラが俺の好みの顔だから」
「好みって」
サラは返答に困った。そんな話は初めて聞いたのだ。
「それに俺の全てをわかってて特別視せずに一緒にいてくれる。そんな人はそうそういないよ」
クリフォードの瞳は真剣で、サラはその視線を外す事が出来なかった。
「そんな人が今後現れる可能性は――」
「もういいから!」
サラの言葉を遮るようにクリフォードは少し大きな声を出した。
「俺と結婚するのが嫌なら嫌ってはっきり言ってくれた方が傷は浅く済むから。もうそんな遠まわしな話はいい」
「でもさっき拒否する話は――」
「勿論受けて欲しいに決まってる。でも濁されるくらいなら拒否してくれた方がマシだ」
クリフォードの真剣な眼差しはいつしか悲しみを帯びている。サラはそれに動揺し、言葉に詰まってしまった。彼女は彼の視線から逃げるように俯いた。
クリフォードはサラの肩を掴み、彼女の身体を自分の方へ向けた。
「どうしても俺と結婚するのが嫌?」
クリフォードの縋るような眼差しをサラは痛いほど感じていた。嫌なわけがないと言えたらどれだけ楽だろう。しかし彼女はその台詞だけは言えないと頑なに思った。けれどそれ以外の言葉は何を言っても彼を傷つけてしまいそうで、彼女は言葉を紡ぎ出せないでいた。
そんなサラを見ていたクリフォードは突然強引に彼女を引き寄せ唇を奪おうとした。彼女はそれに対し必死に抵抗し、彼の手を振り払うとベンチから立ち上がった。
「クリフなんか大っ嫌い!」
サラは軽蔑の眼差しでクリフォードを見下しながらそう叫ぶと、彼に背を向けて走り出した。涙が溢れるのを気にもせず、ただ家を目指した。