浮かれる妻 沈む夫
翌日、サラは深紅のワンピースを選んだ。エリオットの前では着た事のない色で、少しずつ自分がクリフォードに染まっていると表現しようと思ったからだ。しかしそれを見たエマは微妙な表情を浮かべた。
「今夜エリオット様がいらっしゃるそうですね」
夕食の準備があるので、クリフォードはエリオットを招いた事をマシューを通して料理長に伝えていた。その情報はヘンリーを通じてエマにも届いていた。
「そうなの。久し振りだから楽しみで」
昨日は刺繍が上手く出来ないと落ち込んでいたのに、今朝はもうそんな事を忘れているサラを見てエマは多少の不安を覚えた。サラが昔エリオットを好きだった事はクリフォードから聞いているので知っている。しかしサラはクリフォードの事を想っているのも手紙配達の頃からわかっている。わかっているのだが、どうも目の前のサラが楽しそうにし過ぎているのが不安だった。
「そんなに楽しみですか?」
「えぇ。今日は髪を綺麗に編み込んで欲しいの。お願いね」
「わかりました」
サラの要求の意図がわからないまま、エマは綺麗にサラの髪を編み込んでいった。
今日の午前中の授業は隣国シェッド帝国の語学の時間だった。しかしサラは流暢に帝国語を操れる。しかも日常会話だけでなく政治経済に及んでも問題なくサラは話す事が出来た為、この授業は本日で終了した。サラは手元の時間割の語学の時間にばつをつけ、この空いた時間に刺繍とレースの練習をしようと思っていた。そして時間割をよく見ると時々一日空白の日がある。休みがあるなんてヘンリーも気が利くなと思いながら、念の為に茶会講座の時間にエマに尋ねた。
「それはクリフォード様のお休みの日です」
「ヘンリーはクリフを甘やかさないと思っていたのだけれど」
「夫婦の時間は必要だと思っているのだと思いますよ」
サラは表情を強張らせた。今のクリフォードと一日中一緒にいるのは息が詰まる。サラはメアリーが淹れてくれた紅茶を口に運んだ。
「それだとクリフがお休みの日は紅茶を飲めないの?」
「呼んで頂ければサラ様にだけお淹れ致しますよ」
メアリーはだけの部分を強調して言った後優しく微笑んだ。サラもつられて微笑む。
「ありがとう。私の分だけ宜しくね。今日の紅茶は何? これも初めてな気がするのだけれど」
「本日は私のブレンドです。いくつかの茶葉を混ぜているのです」
「茶葉を混ぜる。そのような発想は今までなかったわ。だから初めての味なのね」
「お好みがあれば期待に添えるようブレンドしますからいつでも仰って下さい」
「ありがとう。でも今はメアリーの淹れてくれる紅茶が毎日美味しくて幸せで、そこまで達せていないの。希望が言えるようになったら宜しくね」
サラの言葉にメアリーは満足そうに頷く。メアリーは今まで色々な人に紅茶を淹れてきたわけだが、サラほど美味しそうに飲んでくれた人はいない。毎日幸せそうにしてくれるのが嬉しくて、メアリーもまた自分の腕を磨き続けようとひっそりと思っていた。
「そう言えばエリオットが来たら夕食はどうするの? 食堂でどう座るの?」
いつも長テーブルの端と端にクリフォードとサラは腰掛けていた。その中央にエリオットを座らせるのはおかしいし、かと言って三人横並びというのも腑に落ちなかった。
「エリオット様がいらっしゃるときは客間でした。ですから本日も客間になると思います」
サラは屋敷の間取り図を頭の中に思い浮かべた。しかし客間が何部屋もあって何処かわからない。そもそも客間全てに足を運んだ事はなかった。サラはこの家に嫁いでから客人など迎えた事がないのだ。
「エリオットはよく来るの?」
「卒業されるまではよくいらっしゃってましたよ。旦那様はエリオット様の後見人でもございますので、食事の面倒を見ていたのだと思います」
サラは初めて聞く話だった。公爵家と男爵家の長男同士が友人というのはおかしいと思っていたが、そういう繋がりだったとは知らなかった。二人は昔から友人なのだとしか聞いていなかったのだ。エリオットの事は幼くして両親を亡くし一人で暮らしている変わり者位に思っていたが、後見人としてアルフレッドがついているのならば生活は出来そうである。
「それなら私は悪い事をしたわね。きっと遠慮して今まで来られなかったのよね」
「いえ、後見人の件は卒業と共に終わっています。元々後見人とはそういう制度ですし」
その時扉をノックする音が響いた。サラはまたお茶会の招待状かと嫌そうな顔をした。
「マシューです。少しお時間を頂けませんでしょうか」
予想外の人物にサラはエマとメアリーを見る。二人も何故マシューが訪ねてきたのかわかりかねた様子である。サラは扉に向かってどうぞと声を掛けた。
「失礼致します」
そう言ってマシューは扉を開けて入ってきた。マシューには特に配慮する気がないのか、エマもメアリーもソファーから立ち上がる様子はない。マシューはそのままサラの横に立って一礼した。
「クリフォード様から伝言かしら」
従者であるマシューはクリフォードの身の回りの世話をする。伝言も仕事のうちである。そもそも伝言以外でサラの所に来るはずがないのである。しかしマシューは申し訳なさそうにしていた。
「差し出がましいとは思うのですけれども、ここ数日のクリフォード様を見ているといてもたってもいられず、出来ましたらサラ様にもう少しクリフォード様の事を考えて頂ければと思いまして」
「クリフォード様が私の不満でも漏らしていたの?」
「いえ、そのような事は決して。これは私の勝手な判断ですので、クリフォード様をどうか責めないで下さい」
「マシュー、勝手にこんな事をしていいと思っているの?」
メアリーは不機嫌そうにマシューに突っかかる。
「私の仕事の範疇でない事は重々承知しております。ですが今朝のクリフォード様の様子が今まで以上に暗くて、どうにかして差し上げたくてじっとしていられなかったのです」
クリフォードは自分で納得してエリオットを誘ったにもかかわらず、予想以上にサラが嬉しそうにしているのに落胆していた。それをサラの前では必死に取り繕ってはいたが、今朝の着替え時のクリフォードの暗い顔はマシューには衝撃的だった。
「マシューの言い分はわかったわ。でもね、これはクリフォード様の問題なのよ。正直私も困っているの」
「クリフォード様の問題、とはどういう事でしょうか」
「最初は戸惑ったけど、送り迎えの挨拶は自然に振る舞えるようになったかなと思っているの。マシューにはそうは見えない?」
サラに尋ねられマシューは黙った。確かに最初はサラが嫌がっているように見えた。しかし今朝はサラが自然なのに対し、クリフォードが戸惑っているように見えた。そしてサラは非常識なマシューに対して嫌そうな顔ひとつしていない。
「エリオットの事もそうよ。私は本当に友人として久し振りに会えるのを楽しみにしているの。それをどう捉えたのかはクリフォード様に聞いて貰えるかしら」
「わかりました。差し出がましい事をお願いして申し訳ありませんでした。失礼致します」
マシューは申し訳なさそうに頭を下げると部屋を出て行った。
「マシューにも私の気持ちは見えないのね。そんなにわかり難いかしら」
サラはため息を吐いてから紅茶を口に運ぶ。エマは心配そうな表情をサラに向けた。
「正直に申し上げてわかり難く感じます。今日サラ様は普段より見た目を気にされている気がしますし」
「あら、化粧は偶然よ」
お茶会に立て続けに呼ばれ、いつまでも試供品を貰い続ける訳にはいかない。それで今日お茶会講座の前に商人を呼んで化粧品一式を購入したのだ。いつもは目立たぬよう控えめだったが、今日は何を買うか試してそのままになっていた為きちんと化粧をしている。ちなみにこの商人を呼ぶ事にしたのは昨日試供品を貰いに行った時で、本当に偶然である。
「でも化粧は紛らわしいかしら。出来たらクリフに見て欲しかったのだけど」
「宜しいではないですか。折角のお化粧を見せずに落とすなんて勿体ないですよ」
メアリーはクリフォードをどうとも思っていないのでサラのやりたい事を肯定する。しかしエマはクリフォードとの付き合いの方が長い分微妙な心境である。そんなエマの表情をサラは見逃さなかった。
「どうしたの、エマ。そんなに心配?」
「クリフォード様の事を考えると少々心配です」
「エマはもうサラ様の侍女なのだから、クリフォード様なんてどうでもいいでしょう?」
「どうでもよくないわよ。お二人には幸せになって欲しいのだから」
「二人とも心配しなくても大丈夫よ。私の気持ちは変わらないから」
サラは微笑んだ。エマは頷く事しか出来なかった。