結婚という名の不自由
サラはソファーに身体を預けて頭を右手で支えた。公爵家というのは想像を超えた世界だと痛感していた。彼女の実家は貴族の中の最下層男爵家であり、それ故に商人であった父が婿養子として入れた程である。この金銭感覚の差に慣れるのに一体どれほどの時間がかかるのか、今の彼女にはわからない。とりあえず慣れるまでは何も買わない、それくらいしか出来そうもないと思った。
その時扉をノックする音がサラの思考を遮った。
「失礼致します」
「どうぞ」
サラは身体を起こした。扉はゆっくり開き、ヘンリーとお茶の用意を乗せたカートを押してメアリーが入ってきた。サラはヘンリーに座るよう手で勧め、ヘンリーが座るのを確認してからメアリーは手際よく紅茶をカップに淹れ始めた。既に厨房で準備は済ませてきたようだ。
「ありがとう」
サラは紅茶を目の前に置かれたのを確認して、メアリーの方を見つめた。
「紅茶を淹れるのはメアリーの仕事なの?」
「はい。旦那様にも私がお出し致します」
メアリーはヘンリーの前にも紅茶を置き、テーブルの中央に焼き菓子を置いた。
「メアリーの淹れる紅茶は評判がいいのですよ。違いがわかる方は彼女以外の淹れる紅茶が飲めなくなるほどです」
「そうなの。すごいのね」
「いえ。では私はこれで失礼致します」
メアリーは一礼をするとカートを押して部屋を出て行った。サラは紅茶を口に運んだ。昨日とは違いオーティスの紅茶だと思うのだが実家で飲んだものとは違う気がした。
「これはオーティスよね? 何が違うのかしら。美味しさが違うわ」
サラの言葉にヘンリーは無表情ながら瞳の奥に少し楽しさを浮かべた。しかしその微妙な違いを彼女が気付けるはずもない。
「サラ様は違いがわかる方で安心致しました。茶葉の保管から淹れ方まで、メアリーにはこだわりがあるそうです」
「そうなの。メアリーならどんな紅茶も一級品にしてしまいそうね」
サラは美味しそうに紅茶をもう一口運ぶ。
「ところで亡き奥様の事をお伺いになりたいようでしたらレイを呼びますが、いかがなさいますか?」
サラは確かにアルフレッドの正妻が気になっていた。しかしそれはクリフォードと暮らすのに必要な事ではない。ウォーグレイヴ公爵夫人になる時までに聞けばいいのである。
「それは時間が空いてからでいいわ。クリフォード様の常識に並ぶ事が今一番必要だと思うから」
「クリフォード様の常識は当てになさらずウォーグレイヴ家の常識を覚えて頂けないでしょうか」
「あら、その二つにそんなに違いがあるの?」
「クリフォード様は甘やかされ過ぎた為に我が儘は全て通ると思っている節がございます。この結婚も結果としてはクリフォード様の我が儘を旦那様が許した訳でございますし」
ヘンリーは紅茶を一口運んだ。
「彼にはウォーグレイヴ家次期当主として相応しくなって頂かないとね」
「えぇ。その為にサラ様が必要だと旦那様はご判断されたようでございます」
「まぁ、皆に期待されて私は応えられるかしら」
「応えて頂かねばなりません。我々も出来る限りサラ様を補助致しますので宜しくお願い致します」
無表情なヘンリーにサラはわざと困った表情を彼に向けた。
「努力するわ」
「期待しております」
ヘンリーは意地悪な微笑を浮かべた。普段無表情な分微笑でも迫力があった。サラは観念したかのようなため息を溢す。
「わかったわよ。それで私は何から覚えればいいの?」
「こちらの書類をご覧下さいませ。本日午後よりこちらに沿って行動して頂きます」
サラはヘンリーから書類を受け取った。それは時間割であり、クリフォードが働きに出ている間に作法やら刺繍やら色々な習い事が記されていた。
「不器用なのよ、私。刺繍もやらなくてはいけないの?」
サラは特例生徒として学校に通っていたので勉強面では自信があった。しかし手先は不器用で、刺繍やレース編みと言った一般的な貴族令嬢の趣味は今まで避けて生活をしていた。
「サラ様には実家の後ろ盾がない以上、ご自身を磨かれる事こそ必要であるとは思われませんか」
「何でも出来る正妻が必要なの?」
「クリフォード様には勿体無い程の正妻が必要でございます。生まれながらの悪い評判を更に自ら悪化させたのでございます。悪妻などはもっての他、普通の妻でも無意味なのでございます」
ヘンリーは厳しい表情をサラに向けた。それに対して彼女は強い眼差しを返す。
「前向きには取り組むけれど、不器用なのは生まれつきなの。だから苦手な事は極力披露しないですむようにくらいは根回しをしてくれるわよね?」
「それは勿論。得意分野を発揮される方が宜しいに決まっております。ただ不得手だとしても不可能ではいけません」
「わかっているわ、最低限の水準までは何でもこなせるように努力する」
「宜しくお願い致します」
サラはクリフォードとヘンリーの用意した場所に染まる事が何だか不愉快になってきた。結婚は楽しい新生活になると思っていたのに、結局また別の苦労をしなければいけない。自由に見えてとても不自由だ。
「ちなみにこの時間割の先生が合格と言えば順に終わっていくの?」
「さようでございます。サラ様が真面目に取組まれれば、それだけ早く自由になれます」
「何も知らない内はこの家に籠ってろと言う訳ね」
「庭を散歩する時間でしたらございますよ。その辺の公園よりも立派ですから見応えはございます」
ヘンリーの言葉にサラはわざとらしくため息をひとつ溢した。
「どうせ散歩と言いながら庭師が横であれがどういう植物だとか説明付きなのでしょう?」
「サラ様は本当に察しが早くて助かります」
ヘンリーは口元にだけ微笑を浮かべた。サラはそれを無表情で受け止めた。
「私は籠の中に覚悟して入ったのよ。その代償は払うわ」
男爵家から公爵家へ嫁ぐという前例のない結婚に好奇の視線が集まるのは致し方がない。その好奇の視線に負けていてはクリフォードやウォーグレイヴ家に迷惑がかかる。負けない為の努力をする覚悟はサラの中にあった。
「籠は広うございます。それに戻ってきて下さるのでしたら、多少外に出られても構いません」
「そう、それなら迷惑をかけない程度で自由にさせて貰うわ」
「この籠の中で自由を見つける事は困難でしょうけれども、何が自由かはご自身で決められる事でしょうからお任せ致します」
「よく言うわ。私が間違った方向へ進めば諌める癖に」
「家宰の仕事を怠慢する訳には参りませんので」
無表情のヘンリーにサラは少し意地悪な表情を向けた。
「クリフォード様が荒れていた時は何も出来なかったの?」
「クリフォード様はご自身に不都合な事はすぐ忘れられるという性格でございます故、私も手を焼いております」
「ヘンリーにも不可能はある訳ね」
「申し訳ございません」
ヘンリーは軽く頭を下げた。サラは少し微笑んだ。
「ごめんなさい、意地悪だったわね。話を戻しましょうか」
「かしこまりました。こちらの資料がこの部屋の家具の購入費用でございます」
サラはヘンリーから書類を受け取るとざっと目を通した。もう金額を見ても驚きはしなかった。サラは疲れていたのだ。
「私はこれに値するくらいは最低限妻として果たさないといけない訳ね」
「金額的な事を申し上げるならば、これくらいはウォーグレイヴ家にとって大した額ではございません。サラ様には理解し難いかもしれませんが、この家の資産は国家並でございますよ」
「国家並?!」
サラは驚きを隠せず口を開けたままヘンリーを見た。確かに昨日ウォーグレイヴ家は公爵家故に政治家を多数輩出する他にリデルの領主でもあり、手放したシーン以外にもいくつか領地があるとは聞いたがそれが国の資産と同じとは流石に思っていなかった。
「収入は当家が国内一かと思いますよ」
「そう。ヘンリーはその金銭感覚に慣れるのにどれぐらいかかったの?」
「今でも慣れてなどおりません。慣れてしまっては家宰の仕事に支障をきたします故」
「そういう考え方もあるわね。私も無理に慣れるのはやめましょう」
「ただ当家は出費が少ないので他の公爵家よりも貯蓄は多いかもしれません。今回の結婚費用も元々クリフォード様の結婚資金として準備していた貯蓄だけで賄えております」
「結構な額だと感じたけれど、これは大した額にはならない訳ね」
「お嬢様達が嫁がれて三年、この家にはクリフォード様しか暮らしておりませんでした。男性は女性よりも出費がかさみません。そしてクリフォード様もお金を使われたのは荒れていた時だけでございます」
「彼は無趣味なの?」
「そのようでございます。寂しさを色々な形で埋めようとはされていたようですが、結果何も身につけられませんでした」
サラはクリフォードの趣味について聞いた記憶がなかったので尋ねたのだが、趣味がないのなら話が聞けるはずもない。
「そう。何でも手に入る環境だと何も要らないのかもしれないわね」
「サラ様を迎えられて今後どうなるのか私も少々予測しかねております」
「私がお金を湯水の如く使うかもしれないけどね」
勿論サラにはそんな気などないが、彼女はヘンリーの対応を見たかった。彼は無表情のまま彼女を見据えた。
「この家のお金は全て私の済可がなければ使えません。ですからそのような心配は無用でございます」
つまらない返事にサラはわざとらしくため息を吐いた。
「本当に貴方はお義父様に信頼されているのね。つまりヘンリーは自由にこの家のお金を使えるという事でしょう?」
「そのような事をしたら即解雇されてしまいます。サラ様も一度旦那様とゆっくり話されればわかります。あの方は尊敬に十分値する方でございますから」
サラはアルフレッドと結婚式で挨拶しかしていない。アルフレッドとクリフォードはそっくりで、将来クリフォードはこうなるのだろうと思えた。しかし顔付きに差があった。クリフォードが素直そうに見えるのに対し、アルフレッドは何を考えているのかわからない雰囲気があった。いつか話す機会があるだろうが、上手く話せるか彼女は自信が持てなかった。