初めての朝
「サラ様、おはようございます」
エマの声でサラは目を覚ました。しかしどこから声が聞こえてきたのかわからない。
「おはよう、エマ」
「サラ様、鏡台の横にある扉から、こちらにいらっしゃって頂けますでしょうか」
サラは頭だけを起こして鏡台の方を見た。昨日は部屋が薄暗くて気付かなかったが、窓から朝日がカーテン越しに差している今なら鏡台の横に扉がはっきりと見えた。
「わかったわ、少し待ってね」
サラは身体を伸ばそうと腕を上げようとして右手の重さに気付いた。そこにはまだしっかりとクリフォードが手を握りしめている。
「ちょっとクリフ、手を離して」
サラはクリフォードの身体を揺すったが起きる気配がない。彼女は仕方なく彼の手を左手で開いて手を離した。その間中、彼は完全に眠っていた。彼女は不思議そうに彼を見た後、伸びをしてベッドを降り、鏡台の隣の扉を開けた。そこは昨日入った衣裳部屋だった。
「サラ様、こちらの中からお好きなものお選び下さい」
エマが手で示した場所にはワンピースがずらりと並んでいる。その半分は青色で占められていた。青はサラが好んでよく着ていた色である。
「これは全てクリフォード様が選んだものなの?」
「そうですね。サラ様は青色が好きだからと色味の違う青を色々と選ばれていました。それと本当は暖色系を着て欲しいと半分はクリフォード様の好みですね」
「暖色系は私に似合わないのに」
「そのような事はありませんわ。赤もきっと素敵ですよ」
エマはそう言って赤いワンピースを手に取りサラに合わせた。昨日エマが選んだのは青いワンピースだった。事前に好みの話を聞いていたのだろう。
「わかったわ、今日はこれにする」
サラがエマからワンピースを受け取り、エマは慌てて頭を下げる。
「差し出がましい事を申し上げてしまい申し訳ございません。サラ様のお好きなもので結構です」
「いいのよ。赤なんて着た事がないから自分では選べなかったもの。彼が喜ぶのならこれがいいわ」
サラは微笑んだ。エマもほっとした表情を浮かべる。
「では私はサラ様のお部屋におりますので、着替えが済みましたらお願い致します」
エマは一礼すると衣裳部屋からサラの部屋へと移動した。サラは扉が閉まるのを確認し、早速ワンピースへと着替えた。着替えた後、部屋の中の衣服をもう一度見る。ドレスなどもやはり青が多めに置いてある。サラはクリフォードの好きな色を知らない。何故もっと注意深く彼を見ていなかったのか、後悔してももう遅い。これから一つ一つ知っていくしかない。
サラは扉を開けた。鏡台の前には洗面器が置かれている。
「ここで顔を洗うの?」
「はい。そういうしきたりです。奥様は寝室から廊下に出るまでに身支度は全て終わらせる必要がございます。素顔は旦那様と侍女にしか見せてはいけないのでございます。化粧品は肌に合わせないと選べないので今はございませんが、数日のうちに商人を手配する事になると思います」
これが公爵家のしきたりなのかウォーグレイヴ家のしきたりなのか、サラには全くわからない。しかし逆らっても仕方がないので、彼女は大人しく鏡台の椅子に腰掛けて顔を洗った。横でエマがタオルを差し出すので受け取って顔を拭く。
「髪を触らせて頂いても宜しいでしょうか?」
「お任せするわ」
エマは一礼すると櫛を手に取りサラの髪を梳いていく。そして器用に彼女の髪を編み込んでいった。
「凄いわね。こんなの初めて。ありがとう」
「いえ。気に入って頂けたのでしたら嬉しいです」
サラは鏡に映る姿が自分でないような不思議な感覚がした。昨日までと違う高級な素材の赤いワンピースを着て綺麗に髪も編み込んである。少なくとも見た目は上流貴族のようだ。
「ねぇ、エマ。聞いてもいい?」
「何でございましょうか」
「もし今後悩む事があったら相談に乗ってくれる?」
鏡越しのサラの質問にエマは笑顔で応えた。
「勿論でございます。女主人の話し相手は侍女の大切な勤めでございますから。クリフォード様とサラ様が幸せな生活を送れるよう尽力させて頂きます。その為に侍女に立候補したのですから、遠慮なく仰って下さいませ」
サラの家には侍女がいなかったので、彼女は侍女が何をする人なのかいまいち把握していなかった。身の回りの世話から話し相手まで色々してくれるという事なのだろうと彼女は解釈した。
「それなら今までは違う仕事をしていたの?」
「特に仕事が決まっていない使用人でした。クリフォード様の話し相手から庭の掃除まで、何でもしていたのです」
昨日玄関にいた使用人は一瞬では数えられないくらいいた。大人数いるという事は分業されているはず。それなのに決まっていないというのがサラには不思議だった。
「最初はどう雇われたの? 何でも屋みたいな使用人として?」
「私は元々結婚を機にこの屋敷に入りましたから、人手の足りない所に助っ人という形です。ですから手紙配達という仕事をする時間があったのですよ」
「結婚していたの? エマの旦那様ならきっと素敵な方なのでしょうね」
「えぇ。私にとっては勿体ない人です。結婚して六年経ちましたけど毎日幸せです」
エマは嬉しそうに微笑む。本当に夫の事を愛しているのだろうとサラには思えた。
「その素敵な旦那様を時間がある時に紹介して欲しいわ」
「仕事中は夫婦ではなくあくまでも家宰と使用人として振る舞っていますから、そういう事でお願いします」
サラは驚きを隠せなかった。ヘンリーは四十前後に見えた。一方エマは二十歳過ぎくらいにしか見えない。結婚六年なのだからエマはもう少し年上なのだろうが、それにしても昨日の身分を弁えろと言う発言からして夫婦とは思えなかった。
「いつも驚かれるのですよ。そんなにおかしいのでしょうか。彼に十四歳も年下の妻がいるのが意外なのかもしれませんが、それは彼が根負けするまで求婚した私の問題であり、事情を知らない人に誤解されているのは少し心が痛んでいるのですけれどね」
その話を聞いてサラは余計に驚いた。あの無表情の男が根負けしそうには思えなかった。
「彼は私生活を語るのがとても嫌みたいで、私も極力話さない事にしています。ですからこの話は内緒でお願いしますね。どういう経緯で私達が結婚したのかこの屋敷の者は誰も知らないので」
「わかったわ。確かにヘンリーはそういう話が苦手そう」
「ありがとうございます。では食堂へ移動しましょう。当家の朝食は少し変わっていますが、そういうものだと受け入れて下さいませ」
変わっているとは何だろうと思いながら、サラはエマに案内されるまま食堂へと向かった。
一方、クリフォードは起きているのか微妙な状態で自室のソファーに寝転がっていた。彼は目覚めがすこぶる悪く、家政婦長であるレイしか起こせない。そして起こされた彼を着替えさせて食堂に連れて行くのがマシューの朝一番の仕事である。
「クリフォード様、起き上がって下さい。遅刻してしまいますよ」
「ん……まだ大丈夫」
マシューはため息を吐いた。確かにそこまで時間に余裕がないわけではないが、日によってはこのやり取りだけで十数分取られるのが彼には苦痛だった。
「あまりゆっくりされているとサラ様と朝食の時間がずれてしまいますよ」
マシューの言葉にクリフォードは勢いよく起き上がった。
「そうだ、朝起きた時にサラがいなかった。昨日一緒に寝たはずなのに」
「先にエマさんが起こして身支度を整えているのです。女性は時間がかかりますから」
「マシュー、早く着替えを頂戴。サラと一緒の時間は一秒でも無駄にしたくない」
マシューは手に持っていた着替えをクリフォードに渡す。公爵家だと着替えを従者に任せるのが普通だが、アルフレッドの教育方針でクリフォードは自分で着替える。衣服を自分で選ばないのはクリフォードは気に入ると同じものばかり着る為、マシューが偏らないように選んでいるのである。
マシューはいつもと違うクリフォードに驚きを隠せなかった。毎朝自分が苦労していた事を、一人の女性は名前だけでいとも簡単に主人を動かした。長らく片思いしている女性というのは側に仕えていたので知っているが、そんなに素晴らしい女性なのかマシューにはまだわからなかった。
「マシュー、早く早く」
クリフォードに急かされマシューは主人の髪を整える。朝から元気な主人というのも面倒だなと心の中で悪態を吐いたが、それを表情には出さなかった。
サラが食堂に入ると長テーブルには隙間がないくらい色々な料理が並べられていた。それは間違いなく二人分ではなく、十数人分はあった。彼女が戸惑いながら席につこうとした時、クリフォードが食堂に入ってきた。彼女は彼の方を向き頭を下げた。
「おはようございます、クリフォード様」
「おはよう、サラ。朝からそれなの? もう少し緩くていいのに」
「そういうわけには参りません。御容赦下さいませ」
優しく微笑むサラにクリフォードはため息を吐くと席に着いた。サラも席に着く。給仕が二人其々の横に皿を持って待機した。
「赤色似合うね。青もいいけどやっぱり暖色系も似合う」
クリフォードは笑顔でそう言った。サラは微笑む。
「ありがとうございます」
サラの態度にクリフォードは不満そうな表情で返すと、給仕に何やら指示を出した。彼女は何が始まるのかわからず困っていると給仕が声を掛けた。
「サラ様、お召し上がりになりたいものをご指示願います」
クリフォードの指示を受けた給仕は既に皿から色々料理を取り分けていた。確かにこれは変わった朝食だと思いながら給仕に指示を出した。
「サラ、昨日はよく眠れた?」
「えぇ。エマに起こされるまで熟睡出来ました。とても寝心地のいいベッドですね」
「そこは俺の横だから安心して眠れたと言って欲しいな」
「わかりました。次回からそうします」
クリフォードはサラの答えに明らかな不満顔を浮かべた。それを彼女は笑顔で受け流す。昨晩熟睡出来たのは彼が手を繋いでくれた部分も大きかったと思うが、それを使用人のいる前で言う気にはとてもならなかった。
二人は他愛もない会話をしながら朝食を楽しんだ。