五話「フライパンとコードと澱みの獣」前編
突然駆け出したベリルに、メアは慌てて追いつこうとするが当然全く敵わない。離される一方なので走りながらメアは叫ぶ。
「ちょ、ちょっと! ベリルさん!? 待ってください! し、信号弾ですか? アレはどういう意味なのです!?」
後ろで叫ばれて、ベリルは少しだけ迷うが立ち止まってメアの方へと振り向く。彼女が追いついてくるを見てベリルは迅速かつ率直に喋る。
「赤は緊急事態だ。何か問題が起こった。今から確かめに行く……メアさんは戻った方がいいかもしれないが、どうする?」
「行きます」
即答で迷いの無い言葉だった。そしてその顔も決して意固地や強情によるものではない。人手が必要である事態は多い。ベリルは状況判断した。
「走るぞ」
信号弾を撃った主と接触したのは、それから程なくの事だった。血相を変えて走ってくる若い男に、ベリルは手を振って近寄る。立ち止まった男は汗だらけで肩で息をする。必死で逃げてからの疲れではない、精神的な恐怖によるものだ。ベリルは落ち着いた表情で尋ねる。
「さっき信号弾を見た。何があった?」
「よ、澱みだ……見たことも無いデカさの澱みが出た!」
澱み。その言葉を聞いたベリルが事の深刻さを悟る。第二階層に澱み。それも言い方からしてかなりの大型。。緊急事態の信号弾を撃つに十分な状況だ。
「……場所は第二階層のどこだ? 残っているのは?」
「A区画だ! 入って分かる距離にまだいると思うが、リーダーとアタッカーがまだ残ってる……! 二人共、あの澱みの最初の攻撃で……俺にはあんなのどうしようも出来ないから、リーダーも逃げろって……だから、急いで……」
男が悔やむように言う。だが正しい判断だ。そこで焦った二人を助けようとして返り討ちに会えば、事態は更に悪化する。ベリルは彼の肩を叩く。
「それでいい。正解だ。呼吸は整ったな? このまま走って表層でも信号弾を撃って欲しい。探索者ギルドでギルド長に報告すれば、救援を出してくれるはずだ」
「わ、分かった……あ、あんたら、たった二人で加勢するつもりなのか? 大丈夫なのか?」
「一人で倒す訳じゃあない。その残ってる二人を助けるのが優先だ。大丈夫、俺はアタッカーで澱みと戦った事がある。時間の稼ぎ方は心得ているさ。あんたはパーティーを助ける為に出来る事をするんだ……急いで!」
ベリルの言葉に押されて、男は大きく頷く。
「ッ! 頼んだ!」
男を見送ったベリルとメアは再び走り出し、すぐに見えた螺旋階段を下っていく。息を整えながらベリルは質問する。
「澱みは知っているか?」
「当然です」
澱み。迷宮の生命活動において生ずる不純物が、沈殿し集まる事で生まれる魔物だ。正反対の性質とはいえ生まれる経緯の類似性から、種類としては資源スライムに近い存在なのかもしれないが、その大きさや危険性は比べ物にならない。
このアンカルジアでは大抵第三階層において不定期に現れる厄介な強敵という認識だ。その澱みが第ニ階層入口付近に現れた。余り宜しい事ではない。
「澱みを倒すのも推奨されない行為か? 澱みと言えども迷宮の一部で、それを勝手に倒すのはバランスを崩してしまう事か?」
ベリルのわざとらしい問い。メアは苦い顔をする。先ほどの言い方が気に障ったか。メアは事務的な口調で答える。
「澱みは迷宮の病のようなモノ。当然いずれは消滅するでしょうけど、澱みの存在そのものが迷宮を傷つける。放っておくわけにはいきません……ベリルさんって、結構意地悪な事言いますね」
自身の考えが探索者の思想に合わない事は分かっている。しかし自身の主義と違う他者を肯定する事と、自身の主義を曲げる事は別だ。
メアはベリル達探索者のやり方を肯定する努力はしても、自身の考えを変えるつもりなかった。だからこそメアは、ベリルにありのまま自身の主張を語ったのだ。
「かもな」
メアの考えを知ってか知らずか、ベリルは素っ気なく返す。下っていくと視界が開けて第二階層、地下遺産都市上層が見えてくる。
地下に構築された現在の技術では到底不可能な遺産文明の都市は、如何に旧時代の技術とはいえ数千年の時の流れによって崩壊が進んでいる。
ベリルは立ち止まって目を凝らし耳を澄ます。澱みは極めて好戦的だが音を立てずに動かなければ、執拗に襲うような事は無い。戦闘音が聞こえないのは、上手く身を隠せたか、それとも手遅れか。
前者である事を祈りながらベリルが探していると、肩を突かれる。振り返ると焦った表情のメアが自身のメガネを差し出し、指差す方を見るよう促される。メガネに望遠のコードを施しているのだ。
ベリルは頷いてメガネを掛けるとその方を見る。メガネの視界は拡大されながらも視野が広く取られておりすぐに目標の澱みを見つけ、そして顔を歪ませた。
「……何だアレは?」
澱みとの交戦経験は過去に二度あるベリルだが、視認出来た澱みの姿は規格外の異形というに相応しい。ドス黒く濁った身体は今までベリルが戦ってきた個体の倍程はある。更に長く細い脚を八本、蜘蛛のように生やしている。
現在澱みは都市にある建造物の一つにしがみつき動かない。少なくとも、こちらにはまだ気づいていない。
「あんな澱みは資料でも見たことありません。アンカルジアの澱みはあそこまで禍々しいのですか?」
「アレが普通なはずがない。マズいな、相当な難物だ」
ベリルはメアにメガネを返し思考する。一人でアレをかっこよく倒す案は無しだ。だが下に降りて生死不明の二人を探そうとすれば、間違いなく澱みは気づく。救援が来るのは相当時間がかかる。注意を引きつける役を負うのは避けられない。
一年ぶりに本格的に戦う魔物があの澱みというのは、さすがに運が悪い。しかし先ほどあの若い探索者に大口を叩いた以上、逃げ帰るのは嫌だしベリルの性じゃない。
「俺が正面から殴り合って注意を逸らす。その間にいる筈の二人を見つけて助けてほしい。初探索でやる仕事としては荷が重いが……もう一度聞く。来てくれるんだな?」
「もちろんです」
碧色の瞳で真っ直ぐこちらを見つめながら頷くメアに、それ以上言う事は何も無かった。覚悟が足りないのは自分の方だったようだ。
ベリルは一呼吸置くと、腰に吊られたフライパンを手に取る。持ち手にはコードが刻字されており、ベリルが指でなぞるとすぐさまフライパンの持ち手は伸びて自身の身長と大差ない長さのロッドとなった。
武器がフライパンでどうやって戦うのだろうと、実は薄々気になっていたメアはそれを見て合点する。伸縮のコードが使えれば、フライパンもすぐさま武器となる。
「救出のやり方は任せるが、自分を最優先してくれ。やるべき事が終わったら螺旋階段の手前で落ち合う……行くぞ!」
ベリルは自身の靴をフライパンで軽く叩き、確認するようにステップを踏む。そして螺旋階段の柵から乗り出して澱みの方向へと飛び降りた。一見自殺行為に見えるが、ベリルはそのまま「空」を蹴って更に飛んだ。若干沈みが深く高度が下がるが、そのまま空中を跳ね飛んでいく。
「なるほど」
さすがにこの螺旋階段の昇り降りが面倒だと思っていたがそうか。楽をすればいいのだ。様々なコードを知識として持っていても、いつ。どこで。どう行使するかで実力は決まる。
望遠は日常的に行使するコードだったが、移動にコードを使わないのでその発想が無かった。
まずは下に降りて人気を探す所から始めよう。メアは少しだけ自分に気合を入れると、二歩助走をつける間に靴にコードを施す。そしてそのまま、柵を飛び越えて、直下へと落ちていった。
三度ほど空を蹴った所で高度が落ちすぎたので、一旦建物の天井に着地し再び飛んで高度を稼ぐ。目視出来る距離に到達した所で、澱みが動く。ベリルはフライパンを豪快に振り回して構えた。コードが体中を奔り、肉体強化がかかる。
アタッカーが敵と接敵するにおいて、最も大事なのが初撃だ。敵の出鼻を挫き、力量を測る。これをどれだけ高威力に打ち込み、高精度に測るかがアタッカーの優秀さを決める。
「フラン・ヴェー」
言葉と共に、フライパンのプレート部分から炎が生じ、燃え盛る。詠唱による発火コードの行使。コードの行使方法は人によって様々だが、より早く、より静かに、より強力に行使する事が求められる。
詠唱による行使は静かを犠牲に強さを求めた方法だ。己の思い描くコードの形を言葉にする事で言霊という力が関係し、より強力に発動する。らしい。
澱みが大きくジャンプし、こちらへと向かってくる。敵意はこちらに向いたようで何より。ベリルは建物の上に再び着地して方向転換。自身の脳内に第二階層上層の地図を思い描き、直近にある広場へと向かう。澱みもそれを追うように他の建物に取り付くと、八本の足で素早く方向転換する。あの巨体でありながら、スピードは肉体強化コードを行使中のベリルよりも速い。
追いつかれるより一歩先に、ベリルは広場へと着地しその中心へと陣取る。ステップを踏んで空中跳躍のコードを解除。
コードの行使は何かを消費するでもなく無制限だが、一度に使えるコードの数と量には個人差がある。コード適正値。いわばコードを扱う為に必要な容量だ。ベリルの値はC+。平均より少し上程度で、あまり多く強力なコードを行使するのは技量も相まって難しい。ベリルは燃え盛るフライパンを回転させて空中跳躍分に使っていた分を、肉体強化へと回した。
空中に巨体が浮き上がって、澱みが落ちてくる。長い脚の内の一本がベリルへとその矛先を向けていた。ベリルはそれを見ながら、腰を低く構えた。
「……勝負」
落下による衝撃が地面に伝わる。ベリル目掛けて放たれた脚は深々と地面を突き刺すが、それは目標である彼の身体ではなく虚空を穿っていた。
その無防備な脚へと、直前で後ろに引いたベリルが存分に熱されたフライパンを叩きつける。澱みのドス黒い脚が煙を上げて歪むが、折れはしない。
「ッシャ!」
ベリルは打撃の感覚を覚えながらステップ。その直後に追撃の脚が飛び寸前で回避する。ベリルは追撃の脚にも一打を入れながら、懐に飛び込もうとする。
対して澱みは、攻撃を受けた二本の脚も含めた前方四本の脚を雄々しく振り上げ、ベリルへと手当たり次第に突き刺し攻撃する。すぐさま回避行動へと移るベリルだが、的確に放たれた一撃を受け流すように躱すと、フライパンを澱みの本体へとスイングして振り抜く。
それによってプレートの上で燃え盛っていた炎が勢い良く飛び出し、火球となって襲う。火球の一撃は澱みへと直撃し、ドス黒い身体を燃やすがその巨体には火力不足だったのかそのまま前足に打ち払われる。
その頭上を、ベリルは取った。空中でフライパンの刻印をなぞり回転させると、その度に巨大化する。自身が行使出来る最大限の質量まで引き上げて、ベリルは渾身の力で振り下ろし叫んだ。
「ディア・フラン・ヴェー!」
叩きつけた瞬間に着火。プレートの上ではなく、叩きつけられた澱みそのものが燃え上がる。質量による物理攻撃と炎の同時攻撃。炎を多用するのは澱みを構成する不純物に可燃性の物質が混ざっており、その影響で炎上しやすいからだ。
一年ぶりであるという事を考えれば理想に近い一撃。だが敵対する澱みの異常性はベリルの自画自賛を容易に潰す。
澱みは炎に焼かれながらも一切動じること無く身震いすると、八本の脚を地面に突き刺し勢い良く巨大フライパンを跳ね除けた。その余りの力にベリルは吹き飛ばされるが、すぐさまフライパンのサイズを戻して着地する。
そこに再び前足四本からなる連続攻撃。直撃のみを避けながら反撃の機会を探る。が、逆に死角から飛んだ薙ぎ払うような一撃を受け、ベリルは廃墟の家へと凄まじい速度でふっ飛ばされた。
「……ぁー」
廃墟の壁をぶち抜いて、ベリルはホコリまみれのリビングに倒れ込み咳をする。辛うじて受け身を取れたが、身体が痛くて動かない。背負った荷物はおそらくグシャグシャになっているだろうが、これがクッションとなって身体へのダメージは軽減されている。荷物を背負ったまま戦うのも決して難点ばかりではないという事だ。
澱みの追撃によってはそのまま死へと直結する状態だったが、どうやら悪運は強かったらしい。先ほどの一撃で澱みはこちらを無力化したとして興味を失ったようだ。
「……いや、ダメだろ!」
重大な事に気づき、痛みを無視して跳ね起きる。自分に興味を失い、どこか別の場所へと向かうのだとしたらそれは最悪の事態に繋がる事だ。
ベリルは解除されてしまった肉体強化を再度行使して痛みを抑え、自分がぶち破って開いた穴から外へと出る。澱みは見当たらない。が、あの巨体が移動する音が遠ざかっていくのは聞こえた。十分すぎる情報で、事は悪い方向に進んでしまっている。
澱みの攻撃対象は、メア達に移ってしまったのだ。
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