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戻るべき場所

作者: ひじかたかた

会社を退社して、時計を見ると、まだ夕方の6時前だった。



外は明るく、まだ夏前だというのに、蒸し暑い。取引先の人と、春がだんだん短くなっていますね、とついこの間話したばかりだが、まさに夏が一足先に来たようなじめじめとした気候だった。



貴志は思わず、暑い、とひとりつぶやいた。



最近は定時で上がれることが多い。貴志の会社は、印刷関係の仕事を請け負っており、繁忙期を過ぎると、仕事の量が落ち着いてくるので、早く帰れることが多くなる。忙しい時期は、夜の11時まで会社にいることもざらで、家には寝に帰るだけというサイクルを繰りかえす。そんなときは、心のゆとりもなく、唯一の癒しの時間である本を読む時間も必然と減ってしまう。



定時で上がれるときは、最寄りの駅にある大型書店に、必ずと言っていいほど、立ち寄る。だから、最近は心身ともに調子がいい。毎日仕事終わりにご褒美が待っているような気分だ。仕事が忙しいときは、疲れ果て、後ろ髪引かれる思いで素通りする本屋にこんなにも早い時間に行けることが、貴志はうれしくて仕方なかった。



大型書店は、駅ビルの7階にあった。1階にある化粧品コーナーを足早に抜け、エスカレーターに乗る。本屋は7階だ。他の階には目もくれず、7階を目指す。6階あたりにくると、貴志はホッとする。実家に帰ってきた安心感といったら大げさだろうが、それに近い感覚があった。



貴志は、小さい頃から、本が好きだった。いろんなジャンルの本を手当り次第に読んだ。小説、ノンフィクション、エッセイ、漫画・・・。



小説だと、最近は、SFが特にお気に入りだ。起こり得るかもしれない未来に心を馳せて、自分だったらどうするかと、自由に空想にふける。自分の頭の中で何を考えようと、邪魔者はいない。読む人の想像力を適度に刺激してくれる、そんなSFの懐の深さが、貴志の気分に合っていた。



そこには、人間の想像力の偉大さが提示されている。SFと一口にいっても、たくさんの作品があるが、貴志はかすかでもいいから、希望を残して終わる後味の良い結末を好んだ。いくらフィクションとはいえ、救いがないと、日常生活に支障をきたすほど、落ち込んだ経験があるので、そこを注意して本を選ぶようにしている。



SFといえば、子供の時も四次元ポケットから不思議な道具を出す、あの国民的アニメにも熱中した。どこでも行けるドア、どこかに通じるフープ、頭につけるだけで飛ぶことが出来るプロペラ型のおもちゃ。



貴志は、本気で母親にあのネコ型ロボットが欲しいとねだったことがあった。その後、何度か使うことになる「一生のお願い」というキラーフレーズを使って。母親は、一瞬困った顔をして、ほかに欲しいものはないのと、期待はずれの返答を繰り返すばかりだった。



一番欲しいものを言っているのに、母は何を言っているのだろうと困惑した記憶がある。



こうなったらいいのに、そんな子供っぽい空想を、大人になった今でもたまにしてしまう。無意味で実益のないことだとはわかっている。現実が変わらないことはわかっているが、どうしてもしてしまう。



けどそれは、子供の頃にしていた自由な発想ではなくて、うんざりする日常に嫌気がさし、現実から逃避する手段として、空想を使っているにすぎなかった。SFを読んでいる時の空想はまだいいが、気が抜けたときにする空想は、随分つまらないものだ。宝くじが当たったら、お金持ちになったら、きれいな女性に告白されたら・・・。我ながら想像力のかけらもない。



変わり映えのない毎日を過ごしていると、ふいに、何もかも捨てて、逃げたくなるときがある。でも、一瞬。すぐに、現実という足枷が、自分の足についていることに気付く。動けない。足枷をはずす鍵は自分で持っているのに、外すことはしない。自由にはなりたいが、囚われた不自由な状態を変えることはしない。そういう不幸な自分を選んでしまう。



そんな自分を正気に保つためにも、本が必要なのだ。読んでいる間は、現実のことは忘れることが出来る。辛いときは、本の登場人物のセリフだったり、著名人の言葉だったり、世界観に浸ったりすることで何度となく救われてきたのだ。



7階フロアに着くと、正面に販売ランキングやおすすめの本が展開されている。はやる気持ちを抑え、気になる本を手に取る。なるべく穏やかな気持ちで本には触れたい。本を裏返し、まずあらすじに目を通す。ついで表紙に戻り、1,2ページをさらっと読む。



そして、面白そうな本に目星をつけておいて、次の場所へ移動する。これから、まわるコーナーも同じようにして、目星をつけていく。一通り見終えたら、また最初の棚に戻り、第2審査を行う。その審査をパスしたものだけが、晴れて貴志の本棚に入る権利を得、レジに向かうことを許される。



自慢ではないが、その本が面白いかどうか、貴志は、表紙や出だしの文章でなんとなくわかるようになっていた。これも長年の積み重ねのおかげだろうか。本好きあるあるかもしれないが、貴志の隠れた特技だ。



本を探索していれば、時間はあっという間に過ぎ、2時間くらい本屋にいることも全然苦ではなく、むしろ貴志にとって至福の時間だった。滞在時間に比べ、本の購入額が少なすぎて、申し訳なく思うこともあるが、そこは本屋の店員さんだ。本好きの気持ちは理解しているに違いないから、大目にみてくれるだろうと、貴志は勝手に納得していた。



最高で4時間いたこともあったが、いつも優しい笑顔で迎えてくる店員さんが、まだいるのか、と驚いた顔をしたので、そこから、ほどほどをわきまえて、なるべく2時間をめどに切り上げることにした。



最後にまわるのが、文庫コーナーだ。貴志は買うなら文庫に限ると思っている。ハードカバーは重厚なのはいいが、読む際に、その重みが時間の経過とともに、辛くなってくるときがある。その点、文庫なら、持ち運びも便利だし、寝ころびながら読める。そんな気軽さが、貴志は好きだった。



何も予定がない休日は、コーヒーを準備して、文庫本を何冊か本棚から選び出し、ソファーに腰かけ、本のページをめくる。最初はソファーにちゃんと腰かけていたのが、だんだん体勢が崩れてくる。気付くと、部屋はほんのり暗くなっていて、夕日のまぶしい光が部屋に差し込んでいる。もう夕方か。そう思うときが、貴志が幸せを感じる瞬間であり、最高の休日の過ごし方だった。



貴志は、棚に平置きされた文庫本の表紙を丹念に一冊ずつ見ていく。書店員の描いたポップも参考にしながら、一期一会の出会いを期待して。



本を選んでいる姿勢は、やや猫背になって下を向いているので、時々、本選びに夢中になるばかり、同じように本を選んでいる人とぶつかることがあった。本に集中しているあまり、視界が極端に狭くなっているのだ。自分以外の存在がいつの間にか消えてしまうことがある。



貴志は、本屋に来ている客をほとんど気にすることはないが、今日は違った。ある一人の女性に目が留まった。



その女性は、青くて大き目なパーカーに、黒のワイドパンツ、靴は汚れが目立つグレーのスニーカーといういでたちだった。夏日が続き、周りが半袖など涼しい服装ばかりのなか、その恰好は異様だった。



本格的な暑さまでは、あと少しというところだったが、外は半袖でも暑いくらいだし、クーラーがないとしんどい。日焼け対策だとしても、パーカーもパンツも生地が分厚く、暖かそうな素材を使っている。それとも極度の冷え性なのだろうか。でも室内はそれで良くても、外に出たら地獄だ。



貴志は、本を選ぶのをいったん止め、その女性をしばらく無意識のうちに見つめていた。女性の横顔は、長い黒髪で隠れていて、目線は平置きされた文庫の表紙に注がれていたが、どこか変なのだ。



目当ての本を探すわけでもなく、とりあえず本屋に来て、面白そうな本を物色している感じもしない。ただ、一点を見つめ、佇んでいるといった表現が正しいように思えた。表情はうかがえないが、どこか途方に暮れている、貴志は女性に対し、そんな印象を抱いた。



女性の視線の先に何があるのか、貴志はにわかに興味が出てきて、本を探しているふりをしながら、何気なく近づき、そのあたりを横目で見てみたが、どの本を見ているかは、よくわからなかった。これ以上やるとあらぬ疑いを掛けられそうだったので、貴志は、再び本選びに没頭することにした。変わったお客さんなんてどこにでもいる。気にはなるが、今は、本を選ぶ大事な時間だ。集中。集中。



厳正な審査の結果、貴志は特に気になった2冊の小説を手に取り、レジに向かおうとした。が、ふとあの人はまだいるかなと思い、引き返して、文庫本のコーナーに向かった。その女性がいたとしても何かをするというわけではないが、やはりどうも気になる。



しかし、女性はもういなかった。



貴志は、なぜかがっかりした。自分でもなんでそんな気持ちになったのかは理解できなかった。貴志は、再びレジに向かった。



 その後、大型書店に行くたびに、貴志は、青いパーカーの女性を見かけた。女性は、必ず、貴志が初めて見かけた場所で、同じ格好、同じ姿勢で、相変わらず平置きの文庫の一点を見つめている。貴志は、いつの間にか彼女がいるかどうかを楽しみにしている自分に気付いた。本を探すより、彼女がいるかを確認する方を優先するようになった。



ある日のこと、貴志は会社帰りに、いつものように大型書店に寄った。彼女はいるだろうか。エスカレーターを歩いて昇り、足早に文庫コーナーに急ぐ。やはり彼女はいた。



貴志は、ふと声を掛けてみたくなった。貴志は人見知りする方ではなかったが、それでも見知らぬ人に声をかけることは勇気がいることだ。本屋で声を掛けられたら、気持ちが悪いだろうか。けど、貴志はどうしても声をかけたい、そんな衝動に駆られた。



無視されたらそれでいい、潔く帰ろう。たぶん、その可能性が高いだろうが、当たって砕けろだ。



貴志は、いやに前向きな気持ちになっていた。嫌われるかもしれない不安より好奇心が勝った。



「すいません」



急にしゃべったものだから、緊張も重なって声が裏返った。



返事は返ってこない。



怪しい人だと思われただろうか。彼女はこっちを見てもないのに、貴志は必死に笑顔を作った。けど、怪しさにさらに拍車をかけたような気がした。これでは、いかがわしい勧誘だ。



もう一度だけ。これでおしまい。貴志は懲りずに、また声を掛けた。



「すいません」



反応なし。



予想はしていたものの、拒絶されるのは、やはり辛いものがあった。打ちのめされた。仕事の疲れが急にどっと押し寄せた。貴志は、これからはティッシュ配りの人にもやさしくしようと思った。



拒絶されるとこんなに辛いということを、身をもって感じたからだ。彼らは、街中で、ほとんどの人が受け取らないティッシュを、笑顔で配っている。見ず知らずの人に嫌な顔をされることもあるだろう、無視されることもあるだろう。これからは、断るにしても、すこし微笑もうと、貴志は、よくわからない誓いを心の中で立てた。



今日は帰ろう。早く家に帰り、お風呂に入り、布団に入って寝て、忘れてしまおう。貴志がその場を去ろうとすると、何か背後に気配を感じたので、後ろを振り返った。



ブルーのパーカーの女性が、こちらを向いていた。



おかしい。ようやく顔を合わせることが出来たのだが、彼女の顔がどうもぼやける。貴志の視力は両目とも、1・5だし、目が悪いわけではないのだが、目をこすってみても、その顔はどうもぼんやりとしてはっきりしない。



母親のようにも見えるし、昔付き合っていた彼女にも見えるし、とある女性芸能人のようにも見えた。見るたびに顔がころころと変わっていく。



彼女は、パーカーのポケットに両手を入れ、貴志を観察しているようだった。怪しい人間じゃないか、チェックしている。それもそうだ、本屋で声を掛ける人を無条件に信じる人などいない。貴志は、とりあえず弁解しようと、口を開きかけたとき、



「この世界は好きですか?」



彼女は、言った。



「はい?」



初対面で聞くには、あまりにもディープな質問だ。相当仲良くならないと、友達でも中々聞きづらい案件だ。貴志は、自分に対して、敵意がないのは安心したが、その質問の意味をどう捉えればいいのかわからなかった。



「現実にはいろんなことがありますよね」



彼女の声は、近くにいるのに、どこか遠いところから聞こえてくる。



「わたしがいた場所は、こんなに複雑で刺激が多い世界ではなくて、始まりと終わりが決まっています」



「始まりと終わり?」



「あなたなら知っているでしょ?」



彼女は貴志を試すように言った。



「あなたが好きなもの」



彼女は、そう付け加えた。



貴志が好きなものといったら、本だが、彼女は本の中から来たというのだろうか。



「あなたはこの世界が自分に合っていると思いますか?」



彼女には、貴志の戸惑いなど関係ないようだ。



「えっ?」



「いま、あなたが住んでいるこの世界のこと」



「・・・合わない・・・かな。合っている人の方が少ないと思うよ」



「合わないままで、辛くないの?」



「二十五にもなると、自分がどういう人間かだいたいわかるんだ。その・・・積極的あきらめというか」

なんでこんなことを初めて会った人に話しているのだろう。



「じゃあ、このまま何もしないということ?」



「情けないけど、僕は変わってしまう恐怖より、変わらない安心感を選んだ」



なんでだろう、友達にも話したことないことをしゃべっている。



「それでいいの?」



「変わるって難しいよ。それに僕には世界を変えるだけのバイタリティーも才能もない。生きづらくてもここで生きていくしかない」



「我慢するの?」



「うん」



「自分にあった場所を探さないの?」



「それが出来たらいいけど・・・。僕にとってそれが本の世界かもしれない。君が言う世界とは違うかもしれないけど」



「でも。それは」



彼女は、何かを言おうとして、やめた。



「君が帰りたい場所は、君に合っているの?」



貴志は、話題を変えた。



「うん。私のために作られた場所だからね」




「君の帰りたい場所に僕も行ける?」



なんでそんなことを聞いたのだろう。彼女の言うことが本当なら、本の世界に行くということだ。もちろん彼女は、本の中から来たとは一言もいってなかったし、暇つぶしに貴志をもてあそんでいるだけかもしれない。



「いいわ」



思ってもみない返答に貴志は、戸惑った。行ってみたいと思った。けど、



「いや、冗談だ」



とっさに、貴志は言った。怖くなった。ごめんと謝り、彼女に背を向けて、本棚を抜け、なんともいえない気持ちを抱えながら、下りのエスカレーターに向かった。 



それ以来、彼女の姿を見かけることはなかった。彼女は本の世界に帰ることが出来たのだろうか。彼女が見ていたあたりの文庫本をまとめて買い、全部読み通してみたが、彼女らしき登場人物を見つけることはできなかった。



 貴志は、ふと思うことがある。あのとき、彼女と本の世界に行っていたら、どうなっていただろう。彼女と本の世界で、心休まるときを過ごしていただろうか。



彼女が言っていたことは、貴志をからかう冗談だったのか、それとも本当のことだったのか、真実はわからない。



そんな突拍子もない話、嘘に決まっている。ほとんどの人がそう思うだろう。けど、貴志は、ただ信じたかった。そんな気分だった。





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