juvenile
この小説はフィクションです。実際の個人、団体にはまったく関係ありません。
夏
テーマは「雨」。ジャンルは不問。できれば短編、長くても四百字詰めで十枚以下とくれば、超短編といった方がいいかもしれない。
わたしは真っ白い画面の前で腕組みをしたまま固まっていた。窓の外はすっかり真っ暗で、デスクトップのデジタル時計を確認すると日付を超えている。かれこれ六時間近くこうしていることになるのか。
もともと、制限がかかるとたいていオーバーしてしまう性質なのだ。「レイアウトしやすいように短くしてくれるとありがたい」と言われると苦しい。頭の中では、さまざまな「雨」のシチュエーションが浮かんでは消えていく。こんなことをしている場合ではないのに、という焦りを感じつつ、これは生まれてはじめてもらった〈仕事〉なのだから、と言い聞かせる。
七月十五日
「あたしのために小説を書いて」
おかしな女だと思った。やけにきらきらとした瞳をしていたが、目の下には黒い隈ができていて不健康そうだった。格好も、バンドTシャツにジーンズというこざっぱりしたもの。ぼさぼさの茶髪をひとまとめにして、帆布の肩がけ鞄をぶら下げている。
一目で何学部かがわかった。
「……もしかして、美術のひと?」
わたしは腕で文字だらけのノートを隠し、女の顔をにらみつけた。せっかくいいところだったのに。いや、そもそもこんなところで小説を綴っていたわたしが悪いのか?
キャンパスの端っこにある東屋には、ほとんど人が寄り付かない。幽霊が出るだとか、二十センチくらいある蜘蛛が住んでいるだとか、いろいろうわさはあるけれど、要するに校舎から遠いのだ。夏の間は、冷房が効いた食堂や自習室は混むから、汗が流れるのを我慢してここで執筆していた。今日も日差しがきつく、そこかしこで蜃気楼が見られるくらいだった。
「そう。あたし、三池ゼミの高畠っていうんだけど、今ね――」
三池ゼミ。グラフィックデザインのコースか。確か、商品のパッケージをデザインしたり、本の装丁の勉強をしているところだ。全く別の学部であるわたしが名前を知っているくらいには、有名なゼミ。
「今、自由課題が出てるの。〈雨〉っていうテーマで、自分で考えて作ったり企画しないといけないんだけど、あたしはずっと本が作りたいって思ってて」
わたしが相槌すら打たずに聞いているのを、まったく気にすることもなく彼女は早口でまくし立てる。逃がさないつもりか。
「あたしがやりたいのは装丁だけじゃないの。あ、装丁っていうのは」
「分かってるから、いいよ……」
「そっか! そうだよね! 小説書いてるんだもん、そりゃ知ってるか!」
笑顔でうんうんとうなずく高畠と名乗った女。
「中身もね、編集したいの、インデザインっていうアドビのアプリケーションを使ってね、あ、アドビって言うのは……」
「ああもう、それも分かるから……」
「ええ!? すごいね! なんで? 文学科の人……だよね?」
急に不安になったらしい。安心しろ、小説を書くなんてことしてるの、この大学で文学部の人間くらいだ。
東屋の中は日陰になっていて意外なほど暗い。それでも、彼女の瞳は光を放っているようだった。この場所で唯一の、光源。そこから流れ出てくる前向きな〈何か〉に、わたしは少しずつ引き込まれていった。
「あのね、あのね、あたし、それで、」
「あーもー、ちょっと止まって!」
彼女はわたしに近づけていた顔をいったん引き離し、わたしの向かいのベンチに腰掛けた。今すぐにでも説明を再開したいという顔をしている。クラッチを握り締めたままスロットルを限界まで捻ったバイクみたいだ。
「大体分かるって。三池ゼミって言ったら、この大学で知らない人はいないから。毎年、有名なデザイン事務所の内定もらってる人が出てるとこでしょ」
「そうなの。先輩すごいのー」
うれしそうに手のひらを合わせる高畠。頭が痛くなってきた。
「ゼミ課題か何かが出たんでしょ? そのテーマが雨、で、あなたは本を作りたい。装丁だけじゃなくって、中身までレイアウトしたいと」
がくがくと首が飛ぶ勢いで首肯してくれてありがとう。だけどちょっと怖い。
「そう、そうなの、ね、どう? 書いてくれない?」
「突然そんなことを言われても……」
嘘だ。困った振りなんてただのポーズだ。ものすごくうれしい。書きたい。書いて、読んでほしい。自分の作品を本にしてくれるなんて、……最高。
胸の中にむくむくと膨らむ期待や好奇心を必死で押し殺し、迷惑そうに顔をしかめる。
「大丈夫、まだ講評までには期間があるし、あたしも他に準備しないといけないことあるし」
「準備?」
「紙を買わないといけないの。本文の紙と、表紙と、見返し」
細い指が三本、立てられた。紙の種類はどれも別にするようだ。
「その間に、内容を考えてみてほしいの。できれば、短編がいいな。長くても……三千字くらい」
わたしは慌てて制止した。
「まってまって、短い!」
三千字だと、ワードの初期設定で三ページ。四百字詰め原稿用紙だと、十枚くらいだ。これは、かなり、短い。
「うーん、だけど……これ以上長いと、分厚くなっちゃうかもしれないし、今回は文庫本って言うより詩集みたいな感じにしたいの」
「え、詩?」
守備範囲外です。他をお当たりください。
「いや、短編小説でいいの。ただ、行と行の間を広く取ったり、段落を頻繁に変えたりするよってこと」
「……絵本みたいになるってこと?」
「そう!」
椅子の上で嬉しそうに飛び上がる彼女は、テーマの「雨」についてこう語った。
「雨って一口に言っても、いろいろとあると思うんだ。ザーザー振ってるのか、小雨なのか……すぐやむのか、一日中降ってるのか。どんな雨でもいい、どんな場所でもいい、あなたが思う、〈雨〉の小説を書いてくれない?」
雨、か。今日の天気とは正反対だ。
「どんなのでもいいって言うけどね、あなたがこういう本にしたいっていうのを聞かせてくれないと、こっちも書きようがないんだけど」
「大丈夫! あなたがあたしに合わせるんじゃなくって、あたしがあなたに合わせるから」
彼女は、ペンを握ったままだったわたしの手を両手でとった。ペンごと。わたしの右手を祈るように握り締め、真剣な顔で、頼んできた。
「お願い。さっきから見てたけど、あなたの文章、すごく好き」
――こんなの、嬉しくないわけがない。
「……分かった。書くよ。連絡先交換する?」
「うん!」
二人で携帯電話を取り出して、連絡先を教え合う。わたしの名前を見た高畠美恵子は、にっこりと笑って、手を差し出してきた。
「よろしく、夏井三毛子さん」
「よろしく。……三毛子でいいよ、美恵子」
これが、彼女との出会い。小説家になることを夢見ていたわたしと、本の装丁デザイナーになることを夢見ていた高畠美恵子の、最初の会話。
小説を書く、と一口に言っても、多種多様なやり方がある。と思う。
原稿用紙三十枚に収まる大きさのストーリーと、百枚ないと書ききれない大きさのストーリーという違いがある。賞の応募規定に「原稿用紙換算で五十枚」とあるのに、それより長くなりそうなプロットを立てては意味がない。しり切れトンボになるのが目に見えている。
だから、「書きたいこと」をじっくり観察して、これは完成したらどれくらいの長さになるだろう、とか、そういうことを書き出す前に考えないといけないのだ。
そういう意味で、高畠美恵子がわたしに課した課題は、実はとても力になるというか、いい勉強になった。彼女は去り際に何度も頭を下げて行ったが、感謝しないといけないのはこちらだった。脳裏に、彼女の屈託のない笑顔と、『よろしく』という言葉が何度もリフレインしている。
一時までは粘ろう。それでも一文字も書けなかったら、また明日にしよう。
キーボードに手を置き、浮かんできた言葉をとにかく打ち込んで行く。
――高畠美恵子。変なやつ。美術科ってことと、名前しか知らない。
本当に意味のない言葉だ。日記にすらならない。
――ちゃんと化粧とかすればかわいいだろうに、肌荒れがすごかった。目の下に隈とかできてたし、Tシャツもダサかった。
「雨」。「雨」か。
――そういえば、わたしの専門、話してなかった。どうしよう。あの子が本にしたいジャンルの物語が書けるとは限らないのに。
最悪の場面が想像できてしまう。彼女はわたしが書いた小説に唾を吐き、顔をしかめて「こんなのがほしかったんじゃないんだけど」と言うのだ。落ち込む。そんなことを言われたら、立ち上がれない。
――高畠、美恵子か。これまで聞いたことがない名前。授業とかはかぶってなかったと思う。少なくとも、三年間大学生やってきたけど、とびっきりの変人ってことだけは分かる。きっとデザインに命をかけているんだろうなって思う。髪の色は茶色。染めてからたぶん、一年は経ってる。女。身長はわたしくらい。もしかしたらあんまり変わんないかも。美術科。三池ゼミ。
大体書き込んだ。後半はただの個人データになっている。
そろそろ脳みそが働かなくなってきた。この文章は保存しないでいいだろう。
……最後に、悩んだけど、一言だけ付け加えた。
――わたしの小説を、褒めてくれた。
七月十六日
結局昨日の晩は一文字も本文を書くことができないまま、タイムリミットを迎えた。ベッドの中でも色々と雨について考えたが、浮かぶのはありきたりなことばかりで、どうにもパッとしない。
朝、目が覚めて、まずパソコンを立ち上げた。まずは、いくつか案を出してみよう。書き出してみて、これは出口が見つからないぞとなったら引き戻ってやりなおせばいいのだ。
今日は午後の授業から出席すればいいので、午前中いっぱいを執筆に充てられる。とにかく、彼女に何か、形になったものを渡したい一心だった。
午後までに、三つの短編作品が出来上がった。A4の白紙にプリントアウトして、透明な薄っぺらいファイルへと押し込む。そして、気が付いた。
今日彼女に会えるとは限らない。連絡だってしてない。なのに、こんなばっちり準備して、わたしバカみたいじゃない?
だけど、確かに気分が高揚していた。だって、締め切りがあって、枚数制限があって、チェックしてくれる人がいて。こんなの、小説家みたいじゃない。
大学のキャンパス内には、たった今まで講義に出ていたのであろう人が食堂やコンビニに移動し始めているところだった。午後の講義は一時から。現在の時刻は昼休みがちょうど始まる時間だから、あと一時間ほどは書いていられる。
わたしはいつもの東屋に足を向けた。自然と、人混みに背を向ける形になる。東屋は、食堂やカフェテラスとは逆方向にあるのだ。
驚くことに東屋には先客がいた。長い髪を背に垂らし、ベンチと同じ素材の木製の机に突っ伏している。こんなことは初めてだ。
「……何してんの」
「うわっと、昨日ぶり!」
効果音をつけるなら『がばっ』という感じで、美恵子が顔を上げた。一日では隈は消えないらしい。
「ここにいれば会えるかなーって」
「わたしだってずっとここにいるわけじゃないのに」
「知ってる。だけど、会いたかったから」
そう言って太陽みたいな笑顔を向けてくるから、思わず顔をしかめてしまった。この東屋の中では、彼女は明るすぎる。
わたしはうっとおしそうなポーズは崩さず、落ち着いた動作でカバンの中からファイルを出した。プリントを数枚抜き出し、角を整えてから美恵子の前にそっと差し出す。彼女は目を大きく見開き、ぽかんとした顔でわたしとプリントを交互に見た。
「え、え、これ、え?」
「昨日言ってた、例の短編小説。とりあえずいくつか書いてみたから……」
美恵子はわたしの手から紙の束を抜き取った。
その瞬間、わたしは、自分が生んだ子供を他人に抱かせる親の心地を味わった。
彼女は静かにわたしの小説を読んだ。とても静かで、しかも遅い。眼球が普通の人の三倍は遅く文字を追っているのが分かる。って、なんでわたしは彼女の目ばかり見ているんだ。
カバンから筆箱と、創作ノートを取り出す。昨日、途中でやめたところから書き始め、すぐに筆が乗って来た。そもそも物語が佳境にさしかかったところだったことを思い出す。視界の端で美恵子が身じろぎするたびに様子を伺ってしまう。別に、何を言われようとどうってことないのに。たとえどんな酷評をもらっても、書き続けると決めているのだから、こんなにも身構える必要はない――
そんな時間が三十分ほど続いただろうか。彼女は唐突に溜息をついた。思わず肩が震える。もしかして、お気に召さなかっただろうか?
「……どう、だった」
美恵子は紙の角を揃え、丁寧に、もしかしたらわたしよりも丁寧に作品をファイルに仕舞った。酒に酔ったような瞳で、どこか遠くを見つめつつ、口を開く。
「どうして、一晩でこんなのが書けるんだろう……同じ人間なのに、信じられない」
それが称賛の言葉だと気づくまでに、しばらくかかった。
「すごい。すごいよ。短いのにちゃんとまとまってて、しかもこの中で世界が生きてる感じがする。こういうの、何て言うの? 一人称小説、って言っていいんだよね。詳しいこと何も書いてないのに、読むだけで、主人公がどんな人間なのかが想像できちゃう」
「……そんな、この程度でそんな、喜ばないでよ」
照れ隠しだというのは、ばればれだったと思う。
――嬉しい。嬉しい。たとえお世辞だったとしても、こんなに手放しでほめられたのは初めて。
「文学部の人ってみんなこうなの? 一日でこんなに素敵な小説を書ける人ばっかなの? 魔法使いか神様だよ」
「いや、あー……分かんないけど」
わたしから言わせてもらえば、あんたたちの方が凄いんだけど。
「美術科の人の方が凄いでしょ。わたし、絵はからっきし駄目で……目の前の風景とか、物体とか、本物同然に書くのもできないのに、デザインなんてもっと無理」
一枚の紙に世界を描くことができる美術科の人達こそ、魔法使いだと思う。そう伝えると、美恵子はいやいやと首を振った。
「絵なんて、音楽聞きながらだって描けるんだよ。だけど、文字って違うじゃん。頭に歌詞流れてるのに、指で違う言葉打てないじゃん」
「音楽を聞きながらやるっていうのは何も適当に制作するってことにはつながらないんじゃない?」
どういうわけか、そこから、午後の講義が始まるぎりぎりまで創作談義になってしまった。創っているものの形は違えど、ゼロからイチを生みだすと言う意味では、わたしたちはおなじところにいるらしい。
腕時計に目を落とし、美恵子は真剣な顔でわたしに言った。
「これは、語りつくすのに三日はかかるね」
それには同意できなかった。
「一年かかるよ。……わたし、三時間目入ってるんだけど、その後ご飯でもどう? 二時過ぎになるけど食堂は空いてくると思うんだ」
「いく!」
やっぱりきらきらした彼女の笑顔は、どういうわけかわたしの心を少しだけ苦しくさせた。
講義には出たが、内容がまったく頭に入ってこないので諦めてノートを取り出し、罫線に文字を埋め込んでいく。紙がもったいなくて、罫線二行に三行の文字列が入るように書いている。だからページはどこも真っ黒だ。ブラッシュアップを兼ねてパソコンに打ち込む際は、眼鏡を付けないと文字が追えないくらい。
――もっと、喜んでほしい。
わたしが彼女に作品提供したのは、自分のスキルアップのためと、「打ち合わせ」とか「締め切り」という言葉の応酬が楽しかったことが大きい。もし将来、小説家という職を名乗ることが許されるようになったのなら、こういった会話をするのだろうか、と思う。
わたしが本当に書きたいジャンルではなかったかもしれない。だけど、仕事ってそんなものだ。ある小説家の講演会で聞いたことがあるのだが、小説を書いている側の人間は、欲しがられたらなんでも書くべきなのだという。自分の物語に口を出されて、自分が思っているストーリーを大幅に変えてしまうことになっても、それは受け入れるべきなのだと。
だから、求められた文章を綴るべきだ。もっといいものを、読んでほしい。評価してほしい。本にしてほしい。
「雨」という広すぎるテーマは、広いがゆえに、それ以外の何かに派生させることができた。
ブレインストーミング、とわたしは呼んでいるが、要するに「雨」という単語から連想されるものを次々につなげて行くのだ。わたしはそれで三つ、大きく「雨」とは別のテーマを設定した。ひとつは傘。次に雨上がり。最後に、水溜りだ。
次はストレートに雨が降っている最中の小説にしてみよう、と思った。変にひねったものではなく、イメージするもののど真ん中を射抜くような、そんなもの。書こうと思えばいくらでも書ける。
世に出す以上は、第三者の目に触れる以上は、一風変わった視点から見た世界だったり、最後に読み終わったあとにそういうことかー! と思ってしまうようなものが書きたい。だからあれだけ悩んだのだ。普通に、雨の中に女の子がいるだけの小説ならいくらだって書ける。量産できる。それこそ「仕事だから」と望まれれば、いくらでも。
待ち合わせの場所に急いで向かう。一人でずっと待っていたらしい彼女に手書きの原稿を渡した。文字数にしたら千字くらいか。すぐに読めたはずだ。なのに、美恵子はなんども文章を読み直した。
数分後、感想を述べようとした美恵子は少しだけ言いよどんだ。目が泳いでいる。
「あの、えっと……すごい、いいと思う」
「本当? 急いで書いたから大丈夫かなーとは思ったんだけど」
笑顔がぎこちない。目が合わない。
「うん。いいよ、だけど……四つだと多いかもしれないなー」
彼女が何か言うたびに、うれしくなった。どうやら鼻はちゃんと利くらしい。
「そっか。……美恵子、よかった」
「へっ?」
――合格だよ、美恵子。わたしが判断していいことじゃないかもしれないけど、あなたは文章をちゃんと読める人だ。
「正解の反応だってこと。わたしは、今読ませた小説をあまりしっかり書いていないの」
張り詰めていた空気が一気に緩んだ。だまされたことを怒ったような、引っかからなかったことに安心したような、そんな顔で美恵子はわたしを見た。
「もおおお、やめてよこういうの! めっちゃ怖かったやん!」
あ、関西弁?
「騙すようなことをして申し訳ないと思ってる……だけど、わたしもほっとしたよ。ちゃんとわたしの文章を読んでくれているみたいで、嬉しかった」
本心からそう伝えると、涙目でにらみつけられた。感情が表に百%出てきやすい性格らしかった。そしてそうなると、関西弁になる、と。
「そんなことを言って……もしあたしが不合格だったらどうしたの」
「別にどうもしないよ。ただ……この課題が終わったら、それまでだったかも」
友人と呼べる人間。少なくないと思う。文学部は大抵みんな仲良しだ。ただし、大親友、となると〇人かもしれない。一人で居た方が楽だ。好きなことができる。友人なら沢山いる。同じ授業を受講していると、自然に周りに人が集まってくる。そういう人達と普通に会話するし、笑いあえる。
だけど、食事は別々かも。飲み会に参加することもないや。
単純にお金がないのと、夜は主に小説の執筆とバイトをしているから忙しいのだ。
今、書いているのも、今月末に締め切りがある新人賞の原稿だ。間に合わせるだけじゃなくて、入賞を狙えるレベルまでもっていきたい。
だから、こうやって、同じ目線で物事を語ってくれそうな人というのは、正直言って手放しがたい。できれば友人になってほしい。そう言う意味でも、このテストはやってよかったと思う。
生半可な気持ちで夢を語る奴とは、かかわり合いたくないから。
わたしは自分が書いたばかりの手書き原稿を美恵子の手から取り上げた。
「これは没にする。ちなみにこれは、あなたが寄越した『雨』っていうテーマを真っ正面から受け止めて、馬鹿正直にど真ん中直球で文章にしたものだよ。要するに、前にわたしが手渡した三つの作品は、『雨』をいろんな角度から見たってことなんだけど」
美恵子はふんふんと首を縦に振った。真剣に聞いていますよ、という意思表示にも思えた。
「『雨』っていう材料をそのまんまテーマにするのは、ちょっと物足りない感じがするでしょ? 他の要素が入っていないと、ただでさえ複数の話を並べているんだから、退屈しちゃうよね」
「あ、それは分かるかも」
美恵子は毛先を弄りながら、考えをまとめつつ口にしていく。思ったことをすぐ言葉にしないだけ、賢いのかもしれない。ということは、最初にわたしに話しかけてきたのは、わたしが反応を返すという勝算があったからなのだろうか?
わたしが憶測を並べ立てている間に、彼女の方は昼休みにわたしが渡した原稿を取り出し、机の上に広げた。
「えっと、それでなんだけどね……あたし、この中から一個だけ選んで本にしようと思ったんだけど……」
わたしは自分が生み出した子供のような存在を、じっとみつめた。そうか、この中に間引かれる子がいるのか。
「……やめた。三つとも本にする」
「は?」
それ、大丈夫なのか?
この大学には、美術科のための棟があり、そのなかには様々な機械が備わっている。プリンターはもちろん、マックのデスクトップやスキャナー、製本機にレーザーカッターまで。製本にどれくらい時間と手間がかかるのかは分からないが、三冊も本を作っている余裕はあるのだろうか?
美恵子は薄い胸を張って、自慢げに言った。シャツの下の黒いキャミソールが透けて見える。
「あたし、これでも製本はすごく評価よかったんだよ。仕事が丁寧で、熱心だねって」
「それはいいけど……大丈夫? 一冊作るのにどれくらいかかるの?」
「うーん……ページ数にもよるけど、高い紙にしなければそんなに出費のことを心配する必要は……」
うん、違う。
「そうじゃない。時間の話」
「ああ! なるほど。えーっと、ちょっと待ってね」
そう言って、美恵子はカバンの中から薄汚れた手帳を取り出した。ページとページの間に、いろんなものが挟まっている。ポイントカード、レシート、演劇部のフライヤー……。
「えっと、えっと、……うん、大丈夫」
「本当に?」
できれば彼女の隈をこれ以上濃くしたくない。
「理論上は可能かな」
「現実の話をしない?」
「……ちょっと厳しい。だけど!」
わたしが何か言う前に、美恵子は立ち上がって、わたしの子供達を胸に抱えた。まるで、親であるわたしから守っているようだった。
「この作品たち、どれもこれもすごく素敵なんだもん。一つなんて、選べない」
――この娘は、わたしをどれだけ喜ばせれば気が済むのだろう?
内心を悟られないように、わたしは顔をしかめて言い返した。
「でも、だからってあなたが無理することはないじゃない」
「そうかもしれないけど! ……だけど、どれも好きなんだもん」
……そんなこと言われたら、もう、なにも言えないじゃないの。
わたしは不本意だという態度を崩さないまま、じゃあ、と言う。
「もう少しだけ、いじらせてくれない? 美恵子はその間に、レイアウトを考えておいてよ。文字組みとかあるでしょ?」
詳しくは知らないけど。一旦、印刷して、直接手直しするという過程もあるはずだ。いわゆる「ゲラ」というやつ。
美恵子はピン、と背筋を伸ばして、確かにと呟いた。その顔はもう立派なデザイナーのそれだった。
「とりあえず、今この状態のやつをインデザに流してみる。手直しするなら、そのデータをあたしのメルアドに送ってくれる?」
「わかった。明後日には第二校を送るよ」
既にいくつか、誤字を発見してるからまずそれを直したい。
彼女がわたしに求めているのは、「なんとなく物語になってる文字列」なのではないということが証明された。それが、何よりうれしい。わたしは空いている時間があれば、ますます執筆に時間を割くようになった。授業を受けていても、なんだか「あ、これは使えそうだ」と思えば、すぐに手元の紙に書きつけるようになった。横から友人に覗き込まれても、手を休めることができないくらい、身体の芯というか、奥から、言葉が溢れてきて止まらない。
今までに何度か、どうしても書けない、書く気になれないということがあった。賞の一次審査にも引っかからない若造が一丁前にスランプなんて、と落ち込んだりもしたが、要するにわたしにはエンジンはあったが燃料がなかった。
燃料はその時々で違う形をしている。十分な睡眠だったり、食事だったり、休憩だったり、他人からのエールだったり。
今回、わたしは別にスランプだったわけじゃない。だけど、絶好調だったかと言われるとちょっと違う。わたしは、記念すべき十回目の落選を経験したばかりだったのだ。
丁寧に文字を綴っているつもりだし、送る賞の規定を間違えているつもりもない。なのに、受からない。どんなに小さな、地方の団体が経営する文学賞でも、わたしの作品が注目されることはない。
落選の数が二ケタになったのを自覚した時から、やけに胃の中が重いというか。食は進まないし、書いても書いても、これはつまらないだろうなと思ってしまって進まないことが多くなっていた。
そんな時に、美恵子だ。
彼女はわたしの小説を褒めてくれた。それがどれだけわたしの心を救ったか、彼女は知らないままだろう。それでいい。
わたしには、絶対に叶えたい夢がある。
彼女がわたしに〈仕事〉をくれたのは、わたしにとっていい刺激になっている。現に、今はこうして何も気にせずただただ、思いついたことを文字にしていくことで精いっぱいだ。
この状態が続くことが大事なのだ。続けなければ、夢は叶わない。
――美恵子には、感謝しないといけない。
本が完成した暁には、彼女と二人で飲みに行くのも悪くないかもしれない。
七月二十七日
結局、あれから二本短編を完成させて、美恵子のメールアドレスに送った。二本のうち一本はかなりオチに迷った。五本の中でも特によく書けたそれは、できればわたし好みのエンドにしたかった。
実を言うと、こういう、短く綺麗にまとまった、爽快感のある美しい物語というのは得意ではない。これまで、高校生の頃から四年近く物語を綴って来たが、それらはほとんど同じジャンルの物語だ。
わたしが得意(と言っていいのか分からない。書いていたいだけかもしれない)とするのは、人の欲望が主なテーマになる薄汚い、後味の悪い小説だ。基本的にハッピーなエンドは書けない。なぜかは分からない。好きな小説の名を連ねても、大半がバッドエンドだ。
世の中は楽しいことばかりではない。人の記憶に残りやすいのは、悲しいことや辛いこと、苦しいこと、悔しい思いなんかの方だ。しかも、そういうマイナスなことからは〈何か〉が生まれやすい。次につながりやすいのだ。嬉しいだけ、楽しいだけだとそれで満足してしまって次が無い。それと同じように、人の心に残りやすいのは悲しくて、どうしようもなく不条理なもののはずだ。
ちなみに反論はいくらでも受け付ける。だって、きっとみんなハッピーエンドの方が好きだから。何もそれを否定するつもりはない。幸せな小説を読んで幸せになってもらえるのなら、小説家としては本望だろう。
だから思うのだ。同じように、読んだ人の心に悲しみを植え付けることができたのなら、それは素晴らしいことだろうと。もうこんなに悲しい話は二度と読みたくない、と思わせられれば。
要するに、読者の人生に影響を与えられればいいな、なんておこがましいことを考えている。
……もちろん今のわたしの文章にそんな力はない。小説を書くことは、筋力トレーニングのようなものだと聞いたことがある。できる限り毎日続けることが大切なのだ。文章力は、使わないと衰える。ならば、一日がっつり書きまくるよりも毎日少しずつ続けるべきなのだ。
もちろん、親に学費を払ってもらっている身で授業をおろそかにするわけにもいかないから、わたしの執筆はもっぱら夜に進められた。
授業終わりに美恵子から「お昼一緒にどう?」という連絡が入る頻度がどんどん増してきて、今ではもう何の示し合わせがなくても午前中最後の授業が終わると自然に東屋へと足が向くようになった。
今日の美恵子の昼食は菓子パンだった。彼女は基本的に小食だが、食べることが嫌いというわけではないようで、むしろ新発売のお菓子なんかには目がないタイプだ。
わたしの原稿に目を通しつつパンをほおばっていた彼女が、ふと目を上げてわたしの手元を見る。
「三毛子、またそれ?」
それ、というのはわたしの昼食のことだろうか。
「いいじゃん。コスパ最高だよ」
「うーん……」
言いたいことはわかる。要するに、栄養素が偏っているということだろう。
「大丈夫、今日のはアジフライだから」
「そういう問題やない……」
家から一番近いスーパーでは、夜の九時を過ぎると揚げ物の残りが半額になって売られる。一枚七十円のメンチカツが三十五円になるのだ。これを、六枚切りで八十八円の食パン二枚にはさんで、ソースをかける。メンチカツサンドの出来上がり。一食で六十四円とかなり低コストだ。しかもサンドイッチだから、弁当箱もいらない。包んであったラップは学校のゴミ箱に捨てて、帰りは荷物も減る。
ただ、メンチカツがいつも残っているとは限らない。だから中身はアジフライだったり、コロッケだったりする。
わたしは、パンのカスが挟まったりしないようになるべく遠くに開いた状態で本を置いた。
「間にキャベツの千切りとか挟めばいいのかもしれないけど、野菜は高いからね」
「うーん……まあ」
彼女は納得のいかない表情でわたしの特性アジフライサンドをじっと見た。しつこい。
「三毛子は下宿してるんだっけ?」
「そうよ、気ままな一人暮らし」
「いいなあ」
本当にうらやましそうな声を出して、美恵子は大きく伸びをした。日向ぼっこをする猫のようなしぐさだった。
「あたしは実家通いなの。って言ったことあったっけ?」
「……ううん」
わたしと彼女がこうやってお互いのプライベートに関して話をするのは初めてだ。触れないようにしてきたわけではないのだが、今更という感じが否めない。かといって興味がないということもない。
美恵子はわたしの原稿を一旦脇に置いて、椅子に深く座りなおした。本格的に話を始める気らしい。
「えー……実は、あたし、三毛子に一つ言ってないことがあってね」
「一つ?」
もっとあると思うけど。
「揚げ足盗らないでよ……とにかく結構重要なこと。言ってなかったなって」
わたしは考えた。話しにくそうにしているところを見ると、あまり喜ばしいことではないのかもしれなかった。
「もしかして」
「うん」
「美恵子は……この学校の学生じゃないとか」
「うーん、違うな」
残念、と言われて、クイズをしている感覚になってきた。
「じゃあ、実は美術科じゃないとか」
「ううん、美術科三年は嘘じゃない……というか、嘘は言ってない。秘密にしてただけ」
なんだそれは。
「え、うーんと……美恵子はそのことをわたしに黙っていたのを後ろめたく思ってるの?」
これは重要なことだ。もしかしたらわたしが想像できないくらい酷い裏切りかもしれない。
美恵子は困ったように眉を下げた。そういえば、彼女の眉はあまり手入れされていない。メイクもいつも薄いし、見た目に気を配るタイプではないようだ。
「少しだけ……でも、たぶんこれを聞いても三毛子はあっそ、で済ますような気もする」
ということは、彼女にとっては重要なことで、わたしにとってはさしたる問題ではないのだろう。
だったら、答えは一つだ。
「なら、別に話す必要はないよ」
「え……?」
わたしは再び本を開いた。物語は佳境に入っている。文字を追って、どこまで読んだのかを確かめつつ会話を続ける。
「話したくないんでしょ?」
「……話したくない、わけじゃないんだけど……」
おかしい。彼女はこんなにも煮え切らない性格ではなかったはずだ。
もじもじと指先をこすり合わせる仕草をする美恵子をじっと観察する。
「やだ、そんなに見つめないでよ」
「ちょっと黙っててよ」
――言いにくいのなら、当ててあげるから。
うん。まあ、たぶんこれかな。
しばらく考え込んでいたわたしがふっと顔を上げたのを見て、美恵子はわたしの原稿を机の中央に寄せて頬杖をついた。
「謎解き、おわった?」
「謎解きって……」
そんな大層なものではない。ただ単に、紹介されなかった彼女に関する情報を一つだけ思いついた、それだけのこと。
それでもわたしは念のため、背筋を伸ばしてまっすぐに美恵子を見つめた。
「そもそも、美術科って時点で疑うべきだったのかもしれない」
わたしの言葉を聞いて、美恵子も背筋を伸ばした。そして、断罪を待つ人のような顔になった。
「うん。それで?」
「美恵子がわたしに隠しているのは、本当は学校が違うだとか、学科が違うだとかいうことではないと思う。そんなウソすぐにバレるし、この学校の学生でもないのにわざわざこんなところまで毎日来るの、大変だもんね」
美恵子はいたずらっぽく笑って、上目遣いにわたしを見た。
「手間はかかるけど、通じ合える友人ができたのならそれくらいはするもんじゃない?」
思わず面食らってしまった。普通、は、そうなのだろうか。
「それはいいとして……とにかく、あなたはこの学校の学生で、美術科に所属している。これはたぶん、疑いようがないことだよ」
美恵子は嘘をついているとは言わなかった。それに、秘密にしていた、とも。
「だから、それ以外のことを考えた。わたしが知らないあなたのことで、ごくごくプライベートの情報ってわけでもなく、わたしくらいの親密度の友人関係を築いた後だと打ち明けなかったことに少しだけ罪悪感を抱くこと……」
美恵子の瞳が揺れた。ほんの少しだけ開いた唇が何かを言いだそうとするのが分かるけど、その前に、わたしはほとんど回答と同義の疑問を口にした。
「美恵子はさ、――今いくつなの?」
わたしと美恵子が通うこの大学には、美術科がある。偏差値はそこそこ。有名なデザインの会社に就職する人もいれば、在学中に得たスキルを生かせるとは言いがたい仕事に就いた人もいると聞く。
美術科にいる学生たちは小さなアーティストだ。わたしたち文学部の学生が国語のテストに心血を注いでいたのと時を同じくして、彼らも必死にキャンバスとにらめっこしていたのだ。ただわたしたちと違うのは、彼らの仕事には「感性」が時に必要となること。その「感性」が掴めないと、どうしても先へと進めない。美恵子もその一人だったかもしれない。
――浪人するというのは、相当の覚悟がいるものなのだろうな。
わたしは親から浪人を止められていたから、センター試験の点数が届かなかった第一志望を諦め、第二志望の学校に入った。それでも学費の安い国公立に入れたのだから、まだ運が良い方なのかもしれない。ちなみに親が浪人を止めた理由は、近所に失敗例があったからだ。
お隣のお兄さんは、どうしても有名私学に入りたくて浪人した。だけど、浪人生活が思いのほか厳しく、結局二浪したのちにレベルの低い私学に入った。浪人中、バイトと勉強が両立できず、どんどん進んでいく周りに置いて行かれるのが耐えられなかったらしい。
――だけど、美恵子。あなたはそれに耐えたのね。
「……ごめんね」
美恵子が机の上に置いた拳を強く握りしめた。指が白くなっているので、相当強く力を込めているのが分かる。
「騙してたつもりじゃないの。だけど、言ったら、なんだか……差ができてしまう気がして。年上ってことがばれたら、三毛子がよそよそしくなったりしないかなって考えちゃったの」
気にしなくていい。わたしはまったく気にしない。
――何歳だろうと、何者だろうと、あなたのその魂が汚れてさえいなければ、わたしはなんだっていいのに。
わたしはそれを伝えられないまま、よどんだ沈黙にじっと耐えるしかなかった。
不意に、美恵子がつぶやいた。
「……二十三よ」
「え?」
彼女ははっきりとわたしを見て、もう一度言った。
「二十三。三毛子の二つ上。美術科には珍しくないのよ、これでも」
確かに。探せばきっと、二十五歳くらいの人もいるだろう。
「……美恵子。わたしは――」
一瞬、言葉に迷った。何もうまい言い方が浮かんで来ない。小説家志望が、情けない。
「――あなたが好きよ」
出てきたのはとんでもない言葉だった。いや、とか、違う、という否定をする前に、美恵子の表情がパッと明るくなった。まるで、雲の隙間から見えた太陽のように。
それを見て、どうやらわたしはチョイスを間違えなかったのだと悟った。
「ありがとう! あたしも、美恵子のことが好き――美恵子の書く、小説が好きよ」




