4.マリア
改札を出ると、そこにはすでに須田くんと高橋さんがいた。僕に気がついて手を挙げ、そして僕の隣に法月さんがいるのを見て、えっという顔をする。
「探偵部、だし。人を探すんだったら、いた方がいいと思って」
僕は言った。高橋さんはむっとした顔をして、法月さんを上から下まで品定めするように見ている。
「で、なんで学校なんだ?」
須田くんが訊ねた。
「その……こんな手紙をもらったんだ。僕の家のポストに入ってた」
僕はポケットから例の手紙を取り出すと、二人に見せた。高橋さんはますます顔をしかめた。「……どういうこと?」
「わからないけど……学校にいる、というなら、学校にまず行ってみるべきなんじゃないかと思って」
「なんなの?誘拐なの?それでなんで学校?学校関係の人が犯人?っていうかなんでその手紙が渡瀬くんの家のポストにあるの?」
高橋さんは、詰め寄るような調子で矢継ぎ早に僕に訊いた。須田くんが、彼女を落ち着かせるように、その背中を軽く叩く。
「詳しいことは何もわからない。わからないけど……たぶん、持田さんは無事だと思う」
「なんで?」横からそう訊ねたのは法月さんだったので、僕は少し驚いた。
「なんでって……」
法月さんの妹は、そんなにひどいことをしたりはしないんじゃないか。
法月さんを騙って山科さんを脅したのは、確かに決してよろしくないことだけど、それで誰かが怪我をしたりということはない。
彼女は水戸さんに唐辛子入りのウォッカを渡したけれど、それを無理矢理飲ませたわけではない。水戸さんは、自分でそれを飲んだわけだし。
「……きっと犯人は、極悪人ってわけじゃないと思うから」僕は言った。
「犯人が誰か、わかってるの?」
高橋さんの問いは、悲鳴に近い。
「……とにかく行こうよ」
僕は言った。駅の時計は九時四十分を過ぎていた。
当然と言えば当然なのだけど、正門は閉ざされていた。乗り越えて行こうかという話も出たけれど、防犯カメラがあるからやめた方がいい、と法月さんが言った。
「死角の場所を知ってるから」
法月さんが先を立って歩くのに、僕たちはついて行った。学校の敷地を囲む生垣の、特にうっそうとしたある地点で法月さんは足を止めた。
「ここはあのカメラで監視されている。でもあのカメラは定期的に角度を変えていて、かなり広範囲をチェックしている。あのカメラが別の方向に向いて、またここを映しに戻るまで四十秒ある。その間にここを抜ければ問題ない」
そう言うと、法月さんはみっしりと繁ったしげみに身体を載せるようにして、覆いかぶさるように上から生えている木の枝を掴みながら移動し、向こう側に飛び降りた。後ずさりするように数歩下がって生垣から距離をとったその時に、斜め上に設置されているカメラがくいっと首をこちらに戻した。「この地点からは映らない」法月さんは自分が立っているところに、靴の先で印をつけた。
「……泥棒みたいね」
高橋さんが言った。いやがるのかと思ったら、毅然とした表情をして前に進み出て、法月さんがはじめにいたのとまったく同じ地点に立った。カメラが向こうを向くと、高橋さんは忠実にさきほどの法月さんのやり方を真似て、同じように上の枝を掴みながらしげみを乗り越えた。「先に行っていいか」須田くんのことばに、僕は頷く。須田くんは太っているけれど運動神経はかなりよくて、バスケや跳び箱なども得意だった。彼は先の女子二人とは別の地点にずれると、法月さんに防犯カメラに映る範囲を確認した。タイミングを計るようにカメラを見つめていたかと思うと、ふいに振り向いて眼鏡をはずし、「落ちると厄介だからな」僕にそれを押しつけた。そうしてジャンプして背の高い木の枝を次々に掴みつつ、生垣の繁みの上を空中散歩めいた動きでバランスを取りながら一気に進んで、向こうに飛び降りた。僕はすかさず生垣の隙間に手を入れて、同じように向こうから手を入れた須田くんに眼鏡を手渡した。ぱっと同時に後ずさって距離をとると、間一髪でカメラがこちらにレンズを向ける。再びカメラが別方向に向いたので、僕は法月さんの行った辺りからよじ登り、掴んだ木の枝をひどくたわわせながら、何とかあちらに辿り着いた。
「……あ」
それは、僕が学校の敷地を踏んだ瞬間だった。
正面に建つ普通教室棟の校舎の窓に、次々灯りがついた。
他の三人も振り返って、その校舎を見た。電気がついているところと、ついていないところがある。中等部の敷地内で一番広く、一番高いその建物に、上向きの矢印が浮かび上がっていた。
「あれは……俺らへのメッセージってことなのか?」
須田くんが、あっけにとられたように言った。「俺たちがここにいるの、見られてんのか?」
法月さんは何も言わずに歩き出した。僕と須田くんと高橋さんは顔を見合わせたけれど、とりあえずそのまま彼女の後に続いた。学校の敷地内には常夜灯が設置されていて、歩くのには困らない。けれど夜の景色の中で、校舎の壁もテニスコートも、昼間とは違う顔をしている。辺りは静まり返っていた。ざわざわと、木々の葉擦れの音。そうして僕たちの足音だけが響く。
法月さんが向かったのは、教員・特別教室棟だった。僕たちは毎朝そこの昇降口から校舎に入るけれど、法月さんはその昇降口がある正面には回らずに、そのまま裏の学校菜園に行った。土を運ぶ一輪車や肥料袋がごたごたと積んであるその奥に、非常用の扉があり、その鉄の扉の鍵穴に、法月さんはポケットから取り出した針金のようなものを突っ込んだ。
「それなに?」訊ねたのは高橋さんだ。
「針金」指先に神経を集中させながら、法月さんが答える。
「なんでそんなものを持ってるの?」
「探偵だから」
「常に持ってるの?」
「常に持ってる」
手ごたえがあったらしかった。法月さんの手の動きが止まった。続いて、ゆっくりとひねる動きをすると、がちん、と鍵の開く音がした。
「ほんと、探偵っていうより、泥棒みたいよね」
高橋さんが言った。
「優秀な探偵は泥棒にもなれるし、優秀な泥棒は探偵にもなれる」
言いながら、法月さんは金属の取っ手を引っ張った。重そうなその扉を、僕は横から手で押さえるようにして、みんなのあとに続いて一番最後に入った。そこは普通に電気がついていた。ちょっとした物置スペースになっている、廊下の突き当たりの場所で、すぐのところに階段がある。階段の脇を突っ切れば、そこには僕たちの探偵部室があり、その向こうは職員室だ。職員室はまだ灯りがついていて、先生たちがまだ残っているようだ。
「さっきの普通教室棟の屋上に、持田さんはいる」
声をひそめて、法月さんは言った。「私は部室に用事があるから、先に行っててほしい。先生に鉢合わせしたくなかったら、二階の渡り廊下ですぐ普通教室棟に移動した方がいい。屋上の鍵は、たぶん開いてる」
「ええっ」トーンは抑えつつも、非難の声を上げたのは高橋さんだった。「三人で行けって?」
「持田さんが待ってるよ」
法月さんは、妙に静かな口調で言った。
「用事って何?」僕は訊ねた。
法月さんは、微笑んだだけだった。
「なんなら、俺と高橋で先に屋上に行っておくから、渡瀬は法月さんと一緒に来たらいいんじゃないか」
須田くんが言った。高橋さんが、「屋上に犯人いたらどうすんの?」と怯えた顔をする。「その時はその時で」須田くんは鷹揚に言った。けれども法月さんは、「いや、三人とも行って」と譲らなかった。あまりぐずぐずるするわけにもいかず、僕たちは、法月さんを残して階段に向かった。灯りはついていたけれど、全体に薄暗かった。おまけに電灯が一つ死にかけていて、ちらちらと点滅しているのが目障りだった。
「なんか、罠なんじゃないの」高橋さんが言った。
「誰の?どういう罠?」須田くんが訊き返す。
「わかんないけど。法月さんにはめられたような気もしてきた」
「なんだ。さっきはすがりつく勢いだったくせに」
「だって。ここまで来て別行動ってどうなの。だいたい何で屋上ってわかるのよ」
「たぶん、あの上向きの矢印が屋上を示していたから……」
「それで屋上にメイがいたとして、四人揃ったところで先生に捕まって、揃って退学にでもされるんじゃないのかしらん」
「揃って退学にしたいなら、こんなことしなくてももっと簡単な方法があるだろうよ」
「そうかもしれないけどさ」
僕たちは、法月さんのアドバイスどおり二階の渡り廊下を渡って普通教室棟に行った。冷えたように伸びる廊下を横目に、暗い階段をひたすら上る。
「何がどうなって、今こんな状況にいるんだろ」高橋さんが言った。「まあ、メイが無事ならそれでいいけどさ」
最上階の六階まで来ると、上り階段のところに立入禁止と書いた看板が置いてあった。階段の先には屋上に出る扉があり、きっとそこは、普段は施錠されている。けれどもその扉は、今は開け放されていた。ぽっかりと外の空間が覗いていて、夜の空気が流れ込んでいる。
僕は立ち竦んで、高橋さんと須田くんを見た。二人も気後れしたように僕を見た。扉の先に何があるのか、一番初めに踏み出す勇気がなかった。法月さんがいれば、きっと何も言わずに一番に駆け上っていくんじゃないかと思った。高橋さん、と僕は目で訴えてみたけれど、彼女は無理!と訴え返した。須田くんが口を引き結び、どうだ?行けるか?と僕に目で語りかけた。きっと僕はひどく怯えた顔をしていた。誰も先陣を切れない。ここまで来て。
「だらしないなあ。早く来なよ」
その時、ひょこっと屋上から法月さんが顔を出して、笑いながら言った。僕は目を疑った。
「いつの間に……」
びっくりしながら、そのまま「立入禁止」の看板の脇を抜け、階段を上った。数歩上がって、あと五段ほどで屋上に出る、という地点で、けれど僕ははたと足を止めた。
法月さんが別のルートで上がって来て僕たちを追い越した可能性は、ゼロではない。けれども、目の前の彼女が法月紗羅ではない可能性も……ゼロではない、のではないか?
「法月、さん?」
僕は呼びかけた。「ん?」と彼女は僕を見下ろす。
「法月、紗羅さん?」
僕はもう一度呼びかけた。その意図するところに気づいたらしく、彼女の顔に、ちょっと傷ついたような色が浮かんだ。どこからどう見ても、法月紗羅だった。僕は階段の残りを上がり、扉から屋上へと踏み出した。少し生ぬるいような夜の空気が身体を包んだ。暗い星空がやけに低く感じられた。フェンスに囲まれたコンクリートの屋上の一角に、持田さんは座っていた。薄い毛布のようなものをスカートの下に敷いている。左手の手元には、飲み物のパックと、菓子パンらしきものが置いてある。けれどその右手首には自転車の防犯用のチェーンが巻きつけられ、その輪はフェンスの支柱をぐるりと回っていた。持田さんは僕に気がついて、「あっ」と小さく声を上げた。
法月さんは、僕のすぐ横に立っていた。僕は混乱していた。水戸さんに動画を見せられた時、僕はすぐに、それが法月紗羅ではないとわかったのだ。だから僕は、会えば当然、それが法月紗羅か法月真梨亜か、わかるものだと思っていた。けれども今目の前にいる彼女がどちらなのか、僕には自信が持てなかった。どう見ても、法月紗羅だった。法月紗羅だと信じ切っている水戸さんの前では単に気を抜いていて、だから素が出ていて見分けがついたのだろうか。今ここにいる子は、巧妙に真似ているから、だから本当に、話し方も表情もちょっとした動きも法月紗羅そのものに思えてしまうのだろうか。それとも……これは法月紗羅なのだろうか。
「メイ!メイ!」
僕に続いて上がってきた高橋さんが叫んだ。彼女は僕の脇をすり抜けると、持田さんに駆け寄って、「大丈夫?どこか痛くない?苦しくない?大丈夫?大丈夫?」とほとんど泣きながらまくしたてた。須田くんも高橋さんに続いて彼女のところに行き、しゃがみこんで右手のチェーンを覗きこんだ。
「真梨亜、さん、なの?」
僕は傍に立つ「彼女」に訊ねた。
「……わからない、んだ?」
「彼女」は言った。長い睫毛に縁どられた大きな目で、僕を射るように見ていた。つるんと白い肌と、時に人工的に思えるほど整った顔立ち。僕に真梨亜と間違われて傷ついているその反応はやはり法月紗羅のもので、僕は胸が痛んだ。けれどもやはり、確信はなかった。もしも彼女が法月紗羅なら、繋がれた持田さんを放ってこんな風に僕たちの方にやって来たのが……何か違うという感じがしてならなかった。それとも僕は、法月紗羅のことなんて、まるでわかってはいなかったのだろうか。法月紗羅は、元からこんなだったろうか。別に持田さんは特につらそうな様子もなく、大慌てで助けなければいけないような状況ではなさそうだ。チェーンを切るにはペンチか何かないと無理だろうから、それを取りに行こうとしていたのかもしれない。でも、何というか……あまりにも、身動きできない状況にされた持田さんに対する配慮の気配がない気がした。よくわからない。ただなんとなく……あたたかみ、というようなものが、いつもの法月さんにはもう少しあったような、そんな感じがした。それともこれは、気のせいなのだろうか?僕が勝手に彼女のイメージを、僕の心の中で作り上げてしまっていたのだろうか?
「大丈夫?」
自分を繕うように、僕は遅れて持田さんに駆け寄った。目の前の法月さんにあたたかみが欠けている気がする、なんて思ったけれど、僕のことを好きかもしれない女の子が囚われているのを目の前に、こんな反応をしている自分の方がよほど酷かった。僕の身体の、法月さんがいる側が、なんというかビリビリしていた。表面が、緊張している。警戒のアラームが僕の中で鳴り響いていて、持田さんの方にうまく意識を向けられない。
「……紗羅ちゃん」
その時、座ったまままだぼんやりしている様子だった持田さんが、ふいに大きな声で「彼女」に呼びかけた。
「あのね、私は、別にそれでもいいんだよ」
高橋さんがあっけにとられた顔をして、「どういうこと?」とすっとんきょうな声を出した。須田くんも、驚いたように持田さんを見ていた。
「いいんだ?」
法月さんはくるりと僕たちに背を向けると、踊るようにステップを踏んで、屋上の中央部に向かった。そこには貯水タンクがあって、直方体のコンクリートの塊が台のようになっている。夜風が吹き抜けて、法月さんの髪が揺れる。僕たちから少し離れた場所まで行った彼女は、こちらを向かないままで、
「それはもう、恋じゃなくて、愛、みたいだねえ!」
おどけたような調子で、舞台でセリフを言うみたいに張り上げた声でそう言った。貯水タンクの向こう側に行って姿が見えなくなったかと思うと、タンクの上の部分に、法月さんはたん、と現れた。長い髪をなびかせて、夜空を背後に立ったシルエットが、ひどく美しかった。僕も須田くんも、持田さんも高橋さんも、ただぽかんとして、それこそ観劇中のお客みたいに、そこから目が離せなくなっていた。
「真梨亜!」
静かな夜を切り裂くようなその声も、だからあまり現実感がなかった。目の前の台の上に、法月さんがいる。それなのに、そこからではなく、別の方からその声はした。間違いなく、それは法月紗羅の声だった。
そこから先は、あっという間だった。
もう一人法月さんが屋上に現れて、僕たちの前を駆け抜けて行った。台の上にいた彼女は、身軽に彼女の前に降り立った。彼女は笑っていたかもしれない。「何もかも無意味だね、紗羅」 そんなことを言っていた気がする。同じシルエットの二人の少女が、屋上の向こうの端で、もみ合うのが見えた。普段この屋上は閉鎖されていて、立入禁止となっている。だからフェンスの一部が補修のために撤去されていたことも、誰かが責められるようなことではなかったのかもしれない。抱きついて、遥か遠い地面の上空に相手を誘ったのは、まちがいなく真梨亜の方だったと思う。逃れようとし、踏みとどまろうとしていたのは、紗羅だったと思う。少女の身体が地面を離れて空中に飛び出して、掴まれたもう一人の少女の身体も引っ張られてよろけた。そうして僕たちの視界から、二人の姿はもつれながら落ちて消えた。
僕は駆け出した。馬鹿なことに、そこではじめて身体が動いたのだった。けれどももう、遅かった。須田くんが、後ろから僕の腕を掴んでいた。フェンスとフェンスの間の、ぽっかりと空いた空間から、ぞっとするほどの遠い地面が見えた。
けれども、常夜灯に照らし出されたその中庭の空間には、何の異常も見られなかった。ただ静かに、夜の風が吹いていた。どんなふうに駆け下りたのかも、どんなふうに校舎から外に出たのかも覚えていない。ただ気がつくと僕は中庭に立っていて、少し前までいたはずの屋上を見上げていた。フェンスが一つ欠けているのは、下からでも見えた。あそこから落ちたら、確実にこの辺りに来るだろう。けれども何もない。法月紗羅の身体も、法月真梨亜の身体もない。落ちて無事で済む高さではないので、そんなものを見るのは耐えられないから、だから僕の目には映らないのだろうか?実際は、彼女たちは無残な姿で僕の目の前に転がっているのだろうか?僕にはよくわからなかった。救急車の赤いランプの光がちらついていて、辺りは妙に明るく感じられた。肩に手を置かれていることにふと気づいて見上げると、いつの間にか僕の傍には、保健の五条先生が立っていた。