2-3
むぅ
「ずいぶんと古ぼけた店だな」
その女性の声はとても怠惰そうに発せられた。入ってくるなりそういったのは、本日屋上でも出会った城野綺羅であろう。
「ふふ、いらっしゃい」
まさか、と彼は思う。沙希の変わらないその微笑みは1つだけ物を語っている。ゆっくりと沙希のほうを見ると、彼女はわざとらしく首を傾げた。
間違いない、沙希は城野綺羅がここに来ることを知っていた。
「あれ。お前……どっかで会ったことあったよな?」
「ふむ、そうだったかな。申し訳ないことだけどよくわからないよ、城野綺羅さん」
言っていることがちぐはぐである、わからないといいつつ名前は知っている。その沙希の様子を見て、城野綺羅は短く息を吐く。首を横に振って一度、小さく床を足で鳴らした。
「え?」
途端、城野綺羅の姿が柩の視界から消える。何が起きたかわからない柩は容易に接近してきた城野綺羅にカウンターから持ち上げられ、首に右腕が回された。
「うわぐっ」
少しばかり呼吸が困難になる。右腕がこれでもかというくらいに気管を絞めつぶし、足をばたばたとして抵抗したところで地面に降ろされた。
「なんなんだよ、てめえ」
それはその辺りの若い粋がるような声ではなく、低い、聞き取りにくい声であった。柩の背筋が凍りそれ以上の発言ができなくなったが、そんな雰囲気の中でも彼女、風中沙希は至って普通であった。いつもの微笑みを浮かべて、冗談でも言えるのならウインクの1つでもしかねない勢いである。もちろんそんなことをすればまた柩が乱暴されるのだろうから、ウインクだけはしないように願う。
先ほどは屋上であんなに優しそうに彼の心配をしてくれた城野綺羅はどこに行ったのだろうか、沙希の絡む事件のことだから、実は城野綺羅は双子でこれは乱暴な妹の方であるなどといった裏はあるのだろうが、ただの妄想であり論理的確証はない。
「おや、良いのかい? そんなことをしたら、怒られるのは君だろうに」
沙希は右手にマグカップを持って、珈琲を一口すする。彼女が味わうように目を閉じて首を横に振ると、柩の首に巻かれた腕の絞めがきつくなった。
"城野綺羅を刺激するのはやめてくれたまえ"と、そう心の中で呟く。
「あきらめたほうがいいよ、僕はそんな茶番にだまされるほど曖昧な情報を持っているわけじゃあない。もちろん、ただの推論のできそこないではあるのだけれどね」
「――くそ、なんだってんだよ」
そう呟くと城野綺羅は拘束していた柩をゆっくりと離してから、すばやく距離をとった。
ポケットに手を入れながら。
「……待ちたまえよ、僕の想像だと右手の先にあるものは無機物じゃあないのかい?」
「てめぇ、俺の正体がわかってるんじゃねえのかよ」
沙希はそれを聞いて一度嘆息し、"僕もまだまだだ"などと呟きながら首を横に振る。
「まさかそんな玩具を一般大衆の中で潜ませていたなんてね。そんなに君たちは柩が大事なのかい?」
情けないことであるが、柩はその言葉で、やっと城野綺羅の正体が見え始める。それだけ彼自身を大事に思っている人間は少ないが、彼の立場を大事にしている人間はごまんといるということである。
「与えられた仕事を単純にこなすだけの俺にブレイン級の会話をしようとしても無駄だぜ、脅威ならすぐに排除する。それが任務だ」
そして彼女はポケットからゆっくりと手を出す。見えたのは黒光りする鋼鉄製の"何か"。それは本来この国では所持すら禁じられているもので、特定の政府機関の人間しか持ち合わせていないはずのものだ。
「流石に、銃口に狙われると心に反して体が萎縮するものだね」
おどけるようにして両手を挙げる様子を見て、流石の風中沙希も人の子であることを知り少し安心する。
そして、柩の思考はいつものように"求められていること"の捜索に入った。
「……なんなんだ、お前。イタズラかなんかか? 子供の首突っ込んで良い話じゃねえんだぞ」
「君も子供だろうに」
即時に沙希がそう言い返すと、何か鉄をはじく様な音がした。綺羅が手に持った"何か"で照準を合わせるように前にかかげて無言で立ち尽くす。
セーフティを外したのだろう、と柩は人事のように考える。
「次舐めた口をきいたら殺す」
それは単純明快な言葉であった。口を開けば殺す、それは言葉を理解し始めた子供でもわかる話で、柩もやっと目の前の状況を理解する。
沙希が、殺されようとしている。
そう考え始めた瞬間に、体が硬直する。先ほど沙希がいったように本当に玩具かもしれない、もちろん比ゆ表現の一部で、本物の"玩具"の可能性もあるだろう。今すぐに城野綺羅に殴りかかったほうがいいのだろうか、もちろんあんな腕力の人間に何の運動もしていない柩の力では勝てないだろうことはわかりきっている。それでも、二流映画の主人公や脇役のように"逃げろ!"と叫ぶだけなら難しくは無いだろう。
沙希を見る。沙希は綺羅を見て微笑みを浮かべていたが、柩の視線を知り彼のほうを見て首を傾げた。
そのしぐさは"考えたまえよ"、そう言っているようにも見える。
そもそも綺羅の目的は何なのだろうか。手に持っている"玩具"、柩が大事であるということ、城野綺羅のその身のこなし。その様子から察するに普通の女子高生などでは決してなく、柩の預かり知らぬところで何かを成す稼業の人間なのだろう。
思いついたのは柩の誘拐。彼は自身のことをたいした人間だとは思っていないが、それと同時に自分にある付加価値のようなものは自覚していた。性格や性質そのものには価値が無いが、立場というだけでそれなりに影響力があるということも、よく知っている。そんな柩を誘拐して何かの交渉材料に使うことは可能であるし、使われる覚悟のようなものは薄らとしていた。
もしこの仮定が適用される場合、柩にとって最適の選択肢は"沙希が城野綺羅を刺激せずに仕事を済ませる"ということである。沙希にはどうあっても危害を加えてほしくは無い、その上テロリストの類だとすると気の長さも期待できないのだ。
柩は懇願するように沙希をちらりと見る。すると沙希はきょとんとした目線を返してきて、柩は気づく。
違うのだ、結論が。
彼の顔は今、彼女が考える"しているべきの顔"をしていないのだろう。
「何が目的なんだよ、てめぇは」
すると、城野綺羅は沙希に向かってそう投げかけた。その質問には答えずに、まるで柩に向かって肩をすくめている。
その様子を見て考え直す。この風中沙希という女、"どうしてここまで余裕そうに立っているんだ?"
「あ」
ぽつり、間の抜けた彼の声が店に響き渡る。
「ん……お、おい!」
その言葉を発した瞬間には、柩の体の緊張の糸が完全に切れていた。足ががくんと崩れ落ちてその場に膝をつきかけそうになる。その体を城野綺羅が支えてなんとか立ちなおした。
「あ、ありがとう。城野さん」
そう、初めからわかりきっていた。嘘と真実の判定は勝手にするべきでは無いと思い知り、柩は顔を横に振る。
「ふふ、わかったみたいだね。答え合わせをしようか」
「動くなっつってんだろッ!!」
沙希はカウンターから出ようとして、城野綺羅は照準を合わせて警告を発する。しかし、沙希は歩みを止めない。結局撃たれぬまま城野綺羅の前まで歩いて近寄りいつもの微笑みを浮かべる。
「君は頭が悪いのかい? 全てわかったといっただろうに」
それは沙希らしくない挑発的な発言であった。先ほど城野綺羅を挑発して撃たれかけたにも関わらずだ。
沙希も柩も別段焦るわけでもなかった。柩は下を向いて大きく息を吐き、沙希は苦笑を浮かべる。
「お仕事お疲れ様、という言葉が聞こえなかったのかな。彼の"護衛"は相当大変だろう?」
その言葉を聞いて、城野綺羅は右手で頭を抑えると、長く長く息を吐いた。
人は目の前の情報だけで物事を判断し、以前経験した物事は思考を後回しにし真実を疑う傾向がある。先ほどの彼の思考などがまさにそれで、"屋上での城野綺羅は借りの姿"だとか、"柩をだますための演技"だとか、どうしても懐疑的な思考に陥りやすい。この国の人間はそれが顕著で、海外からは"悲観的思考"などと揶揄されることもしばしばあった。
そのため、すべてが真実であると考えることができなかったのだ。爆発したときにすぐに迎えに来る、爆発したときの正しい対処法を教える、脅威があれば排除しようとする。それらは全て真実であり、全てを結べば結論など自明であろう。
「まさか、そんなことを確認するためだけに屋上に爆発物を仕掛けるとはな……」
既に城野綺羅も緊張は幾分か解けているようだった。柩ほどだらりとはしていないが、ところどころにため息が混じる。
「そんなこととはなんだい。もしあそこで君が好機とばかりに彼に危害を加えようとしたら、僕は全力で排除する予定だったんだよ」
沙希のいう排除と綺羅の言う排除はおそらく性質がまったく別物だろう。あの屋上にどんな仕掛けが施されていたのかなど1度も聞きたくは無いが、興味はあった。
「はは……そりゃ逞しいな」
そう苦笑いを浮かべると綺羅はまた溜息を吐いた。
「ごめんね、そんなに気を使わせてるのに何もしてあげてなくて」
「気にすんな、これも仕事だ」
彼にとっての一番の驚きは、綺羅のような同い年の女の子もそんな荒仕事に借り出されているということだった。綺羅の体系は人並みにはがっしりとしているが女の子の華奢さも持ち合わせているように見え、首を傾げる。しかし現に柩は持ち上げられたし、銃の扱いも見惚れるくらいに巧みだったのだ。
「君の身のこなしは美しいものだったよ。やっぱり訓練かなにかかい?」
「そうだな……小さいときにそう言うのは全部教え込まれて、この仕事についてからもずっと、忘れないようにはしてる。いざというときに困るしな」
まるで昔のことを思い出すかのように遠い目をする。
"ずっと"。
その言葉に違和感を覚える。もちろん、少し考えればわかる話だった。
「待って。城野さんは、いつから俺の傍にいるの?」
「それは……」
綺羅が目を逸らす。言いにくそうにして目を閉じるその様子を見て、深呼吸をした。
「俺が知らないのに、城野さんは俺のことをずっと知ってた……?」
しばらくして、綺羅は諦めるように何度か頷いた。
つまり彼女からしたら彼は何年来もの付き合いなのに、彼からしたら初対面なのだ。それはある種残酷なことをしてきたようで、罪悪感を覚える。何せ守ってやっているにも関わらず当の本人はのほほんとした顔をして沙希と適当に過ごしているのだ。
授業中、休み時間、放課後。有事があればすぐに来ることになっているであろうことは屋上の爆発でわかる。しかし近すぎると怪しまれると考えたのだろう、治安が良いこの国の中で護衛をつけるとすれば同年代の学生がちょうど良く、そのためだけに綺羅は教育され今まで傍で守っていてくれたとすれば。
「何回、俺は守られたの?」
「――あいにく、ゼロだぜ」
その即答にすぐ確信を得る、それは嘘だ。そもそも彼のような人間が普通の学園に普通に通えている時点で異常なのだから。
「ごめんね、本当にごめん」
彼は愚直な人間だった。だから、こうやって謝ることしかできないし、それしかできないのも確かだった。
「やめろよ……」
それでも彼は頭を上げない。
何年、彼女を壊していたのだろうか。縛り付けていたのは柩自身ではないが、その存在のお陰で綺羅はこんなにも育ち、拘束され続けてきた。
「城野さんの生い立ちはわからないけど、俺のせいで……」
そうはいうものの、大体の生い立ちは想像できた。こんなにも長期間柩の近くにつけれる人間なんてのは血縁が文句を言わない場合に限る。そして、そういうのに一番最適なのは、文句を言う血縁がいない人間なのだ。
「……お前さえ」
綺羅がポツリと呟く。柩はその次に来る言葉を知っていた。
「お前いなけりゃって、何度思ったかわかんねえよ」
それは綺羅の正直な本音だった。下を向いてカウンターに拳を一度打ち付けた。その様子を見て沙希が口を開こうとするが、すぐに口をつぐむ。
「でも、最近になっていいかなって思えたんだ。この仕事についてなきゃろくな仕事してねぇだろうし、何より」
綺羅は顔を上げる。野心と哀情が混ざったようなその笑顔はどこか痛々しくて。
「お前が楽しそうだったんだよ」
そして何より、彼を思っていた。もはやその感情は護衛対象としての感情を超えたものであるのは明らかであった。それはまるで登下校の電車の中から見える向かいのホームにいる想い人に対する感情と同じなのだろう。
見えるけど、話しかけれない。いこうにも、方向性が違いすぎる。結果それはただの片思いとなっていて、ある日突然隣に見知らぬ女の子がひょっこり現れ始めるのだ。
電車なら一本電車を遅らせることでその光景を見なくてよいが、残念ながらその男を電車の中から見るのが彼女の仕事なのである。となれば、最後には"幸せそうでよかった"と落としどころをつけるしかない。
そんな綺羅に、柩ができることは多くなかった。綺羅の感情はもう昇華するところまで行ってしまっており、完全に個の感情を押さえ込んでしまっているのだ。
「ありがとう」
だから、柩はカウンター席に座る綺羅の頭を抱きしめた。それは以前に風中沙希が誰かにしたのと同じように、できるだけ優しく。
綺羅の体が一度跳ねる。息を呑む声が聞こえた。やはり、女の子の体は想ったよりも小さかった。
ご褒美だなんて、自己主張の激しい行為をしているつもりは彼には無かった。しかし綺羅にとってはそれは何年にもわたる仕事によって押さえ込んでいた想いを消化しうるものだったのだろう。何度も何度も深呼吸をして泣くのを堪えているように見える彼女は呟く。
「くそッ、あんなに、恨んでたのに……あんなに、嫌いで憎くて、どうしようもなかったのに」
泣くことはなかった。それが彼女の強さであり、気質なのだろう。
「何で、こんなに嬉しいんだろうな……」
震えた声でそう呟く彼女を見て、沙希は満足そうに頷くと奥の厨房に消えていく。
「気がつきゃ好きになってたんだよなぁ。気がつきゃ仕事じゃなく目で追うようになって、でも、話しかけたって俺はただの知らない人間なんだよ。最初は仕事だったから接触しなかっただけなのに、それすら後悔するようになってさぁ」
「大丈夫、もう友達だよ」
彼がそう言うと、綺羅は顔を上げて赤くなった顔で照れくさそうに背けて口をとがらせながら頷いた。
「……おう」
これからは世間話ができる、ご飯の話だとか、前に見たテレビの話、勉強の話もできる。彼女にとっては、それだけで十分すぎるだろう。
そして沙希が珈琲をいれて戻ってきた頃には綺羅もいつも通りの様子に戻っており、生徒会長の目的は達成されたのである。
それからというものの、城野綺羅という女の子に柩は積極的に関わるようになった。"贖罪ではなくあくまで友達としての付き合いをする"ということを前提にして始まったその友達づきあいは悪くなく、最近は風中沙希と斑鳩柩、城野綺羅はワンセットとなって動くことが多くなった。
一応身分がばれたことは報告をしたらしいが、お偉い方からすればそんなことは瑣末な問題らしかった。つかるところ、綺羅が仕事感覚で護衛していたら感情を抱いたものの、いまさら過ぎて話しかけられなかったというだけの話なのである。
「どこまでわかってたの?」
今日の店には沙希と柩しかいなかった。
「ふむ、初めは半信半疑だったんだよ。そもそもの発端は君が僕のクラスに文化祭アンケートを持ってきたのが原因でね」
そういえばそんなこともあっただろうか、しかしそのときには綺羅とはまったく面識が無いし、何をどうしたなどという記憶も無い。
「君の事をじっと見つめてる生徒がいたんだ。一目ぼれというほど情緒的ではなくてね、じっと、気になるけど諦めたような顔をした城野綺羅だ」
「え、それだけ?」
それではあまりにも判断材料が少ないのではないだろうか。沙希の解釈次第ではどうとでも取れそうなその表情を1つとって"こいつは柩の護衛として仕事をしているぜ"などとどのようにして推測したのだろう。
「それだけとは、聞き捨てなら無い言葉だね。真実というのは数多ある可能性の中の一つで、その可能性にたどり着くのは発想の転換をした者だけだよ。つまり機知に富んだ人間のみが本質にたどり着くということだね」
「その、つまり"カン"みたいなもののために屋上を爆破した、と?」
「ふむ、そうとも言うね。もちろん君という人間の特殊性と、彼女の身体能力も根拠の1つではあったのだけれど……いや、君といると飽きが来ないよ」
とれだけ彼女は人生に暇を感じているのだろうか。最近は生徒会の書類を綺羅にも手伝わせることが増えてきたために沙希の仕事をする量は更に減少の一途をたどっている。
「じゃ俺は、飽きられたら捨てられるのかな」
何気なくそう問いかける。もちろんそれは常々抱いている一抹の不安であったし、彼女にとって柩の存在が興味ないものとなってしまったらもしかすると窓から投げ捨てられてしまうのではないかという怯えでもあった。
「まさか」
その憂いなど吹き飛ばすくらいの即答だった。
「僕は君に興味があるんだ、君の周りのお偉いさんのように君の立場に興味があるわけじゃあないんだよ、わかるね?」
「……うん」
それは彼にとって嬉しい話であった。沙希の言うとおり、柩の周りにはあまりにも利権と尊厳が渦巻いて混沌としすぎているのだ。ある意味学校にいる間だけは、沙希と一緒にいるときだけは柩が何もかも忘れていられる。
ありがたい話であった。そして、逃げてばかりいられないということも薄々気づいている。
自分を認めてくれる人がいるからがんばる事ができるのだ、1年後卒業するときにおそらく離れ離れになるのだろうが、それまでは沙希の存在を支えにしても許されるのではないだろうか。
相変わらず、彼女との仲はそう言う意味では進展しない。しかし悪い気分はしなかったし、たぶん沙希のほうも同じように考えてくれているだろうと思案した後、自分の勝手な解釈に少し辟易した。
それでも、彼女は今日も微笑んで珈琲を差し出してくれる。こんな俺を女神像の片腕に選んでくれた事実だけが彼女に言わせれば論理的確証なのだろう。
【護衛:城野綺羅】 終