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上げてから後で改稿するほうが効率よさげ?
桜の木の元で、風中沙希はとある人を待っていた。まだ少しかかるだろう、後ろを振り返ると広く繁る葉がひしめき合ってさざめいている。このようなときは目を閉じて立ちつくすことが多い。
そもそも目というのは人間にとって五感の一つに過ぎない。そのほかにも匂い、感覚、味、音など捉え得ることが多いにも関わらず、人は目でしか大抵のものを認識しないのだ。そうやって大事なことを見落として、あとで後悔するもそれが自身の視野の狭さに起因していることにも気づかず、同じ失敗を繰り返す。
「……ふむ」
葉が擦れ合い微かな音を奏でている中に、遠くから何かを打ち付けるような音を捉える。コンクリに靴を打ち付ける音は自然からは程遠いものであったが、別段煩わしさを感じさせない。
薄くまぶたを上げて沙希は校門から続いてくる並木道を見た。向こう側から足音を鳴らして歩いてくるのは学園の生徒で間違いないだろう。
沙希は良い人を待っていた女学生のような微笑みを浮かべてその生徒が近づくのをゆっくりと待った。あちらは沙希のことなどまったく意識してはいないだろう。もし失敗したらどうしよう、などと弱気な考えは微塵も無い。沙希のシュミレートに失敗は想定されていないのだ。
自慢の長い黒髪が頬を撫でた。口元が思わず緩まないようにしっかりと縛って沙希は"厳格な生徒会長"を演じる。あくまで自然にその桜の木の下に立っていると、やがて声が聞こえる距離までその人は近づいてきた。
「お仕事お疲れ様、大変そうだね」
そっとそう呟く。それは風に乗って掻き消えそうだったが、もう一度言うわけにもいかないし、沙希にそのつもりもなかった。ただそれを聞いた学生は少しすると歩みを止めて桜の木に振り返る。
「なんだよ、あいつ」
振り返りつつそう罵る中、沙希は既に学園に向けて歩き始めていた。結局、振り向いた学生が見たのは風中沙希の後ろ髪と僅かに残る彼女の声だけである。
彼は爆発した屋上をそそくさと後にした。このままだと何かよからぬ疑いをかけられるかもしれないし、彼の立場上もそれは好ましくなかったのだ。ゆっくりと階段を降りて校舎を出るころには、入り口から屋上を見上げる学生でいっぱいになっていた。
テロや事故などの憶測が飛び交う中、唯一"イタズラ"であると知っている柩は校門を出て、校内に真実を知っているものはいなくなった。すぐに店へ赴こうとして進路を桜並木に取ったところ、向かいから歩いてくる沙希が見える。
「もう終わったの?」
やや昂揚しているのだろうか、顔を朱に染めて微笑みながらゆっくりと歩み寄ってくる彼女は満足そうに頷いた。
「君こそ、もう終わったのかい?」
何がだ、と尋ねようとするが、彼が城野綺羅であろう人物と出会ったのは沙希にも知れているのだろう。簡単にかいつまんで話したことを告げると"やっぱりね"と呟く。
「僕の思ったとおりだ。あとは店に行くだけだね」
「わっ」
冷めやらぬといった様子ですぐに方向転換して沙希は彼の手を引いた。咄嗟に握られた彼女の手の冷たさに驚きとまどうものの、このまま足を止めていても彼女が何を考えているのかわかりっこはないだろう。
彼女は説明よりも証明を好む。というのは百聞は一見にしかずというように目で見せてから言ってきかせるのだ。彼女の考えについていけていない自分自身に悔しさも覚えるが、考えたところで追いつけるような場所に沙希は居ない。
だから柩は、沙希がこのように笑って楽しんでいる様子を見ているだけでとりあえずは満足なのである。
それは気まぐれの1つだった。副会長は生徒会長が選出する仕組みになっているはずなのだが、3学年としての生活が始まってから1ヶ月弱経とうというのに副会長がまだ選出されていないと噂に聞いたのだ。それは現生徒会長のお眼鏡に適う学生がまだいないということなのだろう。
もちろん、自分に自信があるわけではなかった。ただいうなれば好奇心のようなものだ、副会長を選出せずにどのようにしてワンマン運転をしているのか気になったのである。
『……む』
生徒会室に入った瞬間、目に入ったのは書類の海で眠りについている風中沙希であった。ボトルをひっくり返したように書類がばら撒かれる中で彼女は実に穏やかに寝ていた。そして入ってきた彼に気づいたらしい彼女は、右目だけをゆっくりと開けてこちらを視認したのである。
『生きてますか?』
とりあえず生死を確認する。書類の整理中にひっくりかえってしまったのだとしたら頭をぶつけた可能性もあるだろう。
『ふむ、脈はあるよ。社会的に生きているかといわれると、学生風情ではなんともいえないところがあるけれど』
変人、その単語が頭の隅にぽっと出てきた。突然左手で脈を測り始めた彼女を見て心の中で嘆息をする。
どうも、学園は生徒会長の選出を間違えたのではないだろうか。書類もろくに処理できていない彼女の様子を見る限りでは生徒会長に向いているようには見えなかった。
『君、名前は?』
彼女は初対面の彼に対してそう投げかけた。
『斑鳩柩』
誰に対しても、彼はフルネームを名乗るようにしている。それは小さな反抗心だとか、この姓に誇りを抱いているだとか特別な感情は一切無かった。ただ、誰に対してもそう名乗ることが公平でよいことであるように感じるのだ。
『ああ、君が……』
しかし、彼女の反応は今まで彼の経験してきた反応とは少し違うものであった。まるで新しいピースをパズルにはめ込むように、作業的に情報を処理されたような感覚。彼女は特に、彼の名前について言及することはなかった。
やがて彼女は生徒会室の奥にある大きな椅子に座ってこちらを向いた。"僕の名前は知っているだろう?"といわんばかりに首を傾げると、先ほどとは違う不敵な笑みを浮かべた。
『ミロのヴィーナスを知っているかい』
『え?』
突然、彼女は手元にある本をぱらぱらとめくって彼に、歴史的芸術品を見せる。それはとある海外の美術館に収められている、腕の無い女神像であった。
『僕は今、この像の腕を捜しているようなものなんだよ』
そう言うと、彼女は自分の横を指差した。
はじめは変人としか思っていなかった彼女をいつからこんなに慕っていたのかは記憶がおぼろげであった。女神像の腕が何のことを指していたのかは未だにわからずじまいではあるものの、おそらくそれは副会長の座であったのではないだろうか。
「ねぇ、沙希」
「うん?」
彼女はいつもの着物姿で、読書をしている最中であった。"宇宙の誕生"という、それこそこの世界にごまんとありそうな題名の書籍に栞を挟んで、彼女は彼の座るカウンター席の向かいに立った。
「俺じゃなくてもいいよね?」
それを聞いた彼女はきょとんとして彼を見る。沙希の癖が移ったのか彼もあらゆる説明を飛ばして本題に突入する傾向が増えてきた。
しかし、彼女も人にそれをするだけはあった。すぐに目を閉じて息をふうと吐きカウンターに体重を乗せて彼を見つめた。
「君じゃなきゃあダメだよ。もちろんそれは君の生まれに関係ないことを保証しておくとしよう」
その言葉は至って真面目な言葉であった。そしてその言葉は、彼がただネームヴァリューのために彼女の傍に居る事ができているわけではないことを示している。
「でも、俺は沙希の考えてることがいつも、あまりわからない」
沙希と生徒会を運営し始めたときから悩んでいたといってもいいだろう。沙希の天才的な思考回路、そしてその行動力と奇抜さは十二分に認めることができるだろう。しかしその沙希に副会長として認められている自分に自信が持てないでいるのだ。
「君がどこまで僕を神格化しているのかはしらないけれど、僕はたいした人間じゃあない。むしろ君の方がよっぽど将来有望で、世渡りも上手なんだろうね」
「でも」
この世で天才が必ずしも評価されるわけで無いのは、犯罪について少し調べればすぐにわかることだ。むしろ賢い人間はその脳を悪事に使いたがる。
それでも、彼女は性格にこそ難はあれど性根はとても良い人間である。それは印南香織について解決したときもそうであったし、生徒会の活動を見ていればわかることであった。
「言いたいことはわかるよ。ただ、僕は変人なんだ。君のような優しい人間にしか構ってもらえず、君が僕を見てくれているから僕は何か行動しようという気になる。誰も見てなかったら寂しくて何もする気になれないのさ」
そう言って彼女は一口、淹れたての珈琲に口をつけた。その微笑みはとても穏やかに彼を見つめる。
「そんな、沙希みたいに綺麗な人なら――」
そう呟いたとたん、彼女は顔をぐいと乗り出し彼に近づける。思わず言葉に詰まった彼は、ただじっとしているしかなかった。
「こうやって、近くにいても悪い気分がしないのは君だけなんだよ。……だめかい?」
「……ううん」
そういわれては柩も納得するしかなかった。彼女が彼自身に抱いているのがどのような感情なのか知りたくもあったが、それを追求したらこの微妙な距離感が終わってしまうような気がして考えるのをやめる。もちろん、自身が風中沙希のことをどう思っているのかは彼も薄々は気づいている。
「これだと、まるで僕が君をたぶらかす悪い女のようだね。いや、気をつけたまえよ。君はおそらく女にだまされやすい」
そんなわかりきったことを冷静に分析されて彼は一度頷く。そんな沙希になんら猜疑心は抱いていないあたり既にだまされているのかも知れない。そもそも、100メーター四方の中に爆発物を仕掛けられても澄んだ顔をして沙希についていってるあたり洗脳ではないのだろうか。
「……おや、君以外のお客様かな」
そんな話をしているとき、彼ら以外の来訪者を知らせる鈴の音が店の中に響き渡った。