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暖かい日差しがさす、夕暮れのことだ。大きな窓から陽だまりが部屋を照らす中、彼は熱いコーヒーに口をつける。彼女から勧められたドリップコーヒーであったが、なかなかどうして、甘ったるい落ち着く味をしていた。
どこか窮屈な生徒会室をくるりと見渡す。今にも日が沈みそうな中で、彼と散らかされた書類たちだけが生きているような気がした。
散らかっているものについては、いつまでたっても処理されない数多の書類や、生徒から没収した学業に関係の無いツールの集積されたダンボール、古ぼけたギターなどいろいろなものが上げられる。しかしそれらがこの場所に集まっている理由を、一言で言いくるめることも難しくは無かった。
「あの人は、いつになったら仕事をしてくれるんだろう」
誰もいない生徒会室の、その奥。散乱した物品でなかなかたどり着けない大きな机を見てぼやく。"生徒会長・風中沙希"と書かれた木製の三角錐は横にこてんと倒れており、埃がたまっていた。
もう一度、コーヒーに口をつける。先ほどよりも幾分かぬるくなったどろりとする液体に口をつけ、遠くから聞こえる音に耳を澄ませる。陸上部が活動をしている声、吹奏楽部の奏でる音色、応援団部の太鼓の音、そして廊下に響く誰かが走って近付いてくる音。
いつまでも、ここでゆっくりしていたいというのに。彼はそう心の中でつぶやく。
「――君!」
突然、生徒会室の扉が大きく開かれる。感じの違う空気が室内をかき乱し、その場は一瞬で”ただの”散らかった部屋になってしまった。
入ってきたのは、肩を上下させた女子生徒。右腕には白地に赤ラインの入った腕章をつけており、何らかの役職についている生徒なのはすぐにわかる。
「本日、初めまして?」
「そうだね――いや、そんなことはどうでもいいんだよ」
呆れたように顔に手を当てて悩ましそうにする彼女をみて彼はいくつか思う。そもそも、呆れたいのは彼のほうだ。次は一体どんな厄介ごとを背負い込んできたのだろうか。
彼女が顔を静かに横に振ると、その黒に澄んだ髪は自然に整った。いくら容姿が乱れていても容姿の端整な人間は何とでもなるし、彼女ほどになると乱れていてもそれなりに気品はあったように思う。
だいたいそれほどくらいは、彼女は美しかった。
「君、アイドルに興味はあるかい?」
「……なにそれ、次はアイドル?」
突然にアイドルといわれて、一番初めに思いつくのはテレビでよく見る可愛さをふりまく女の子のことだろう。まさかついに彼女は、自分がアイドルになるとでも言い始めるのだろうか。
「君は僕がアイドルをやって可愛げがあると思うのかい?」
そういいつつも可愛さアピールのつもりか小さく首を傾げるので、彼はわざとらしく腕を組んで何度もうなづく。それを見て、彼女は口をつんと尖らせてため息をついた。
「まったく。乙女心を知らない男は嫌われるのが常だよ? ――とりあえず、アイドルなんだよ。僕たちの取り組むべきなのは」
不満そうにしつつもそう話す彼女は至って真面目な顔をしていた。机の上に山積している書類を横目でちらりと見た後、彼は大きく溜息をついて、早くも"降参"の意を表した。
そもそも、彼女は生徒会の雑用をする気がほとんど無い。というのも、学園の日常に付随したもろもろの書類の処理や各部活の予算、またそんな小さなことから始まったあらゆるいざこざは彼女が生徒会長である目的からは、かけ離れているからである。
「君は、印南香織という人間を知っているかい?」
夕暮れの廊下を、こちらを向いて後ろ歩きに生徒会長、風中沙希は話し始める。
「……アイドルのでしょ?」
先ほどの様子から、彼女の好奇心と仕事欲を刺激したのは"印南香織"その人であることは容易に想像できていた。そもそも、この学園でアイドルの話をすると大抵は印南香織の話になる。
「ふむ。半分正解だ」
したりとした顔で沙希は話を進める。窓のほうから差し込んでいた西日も少しずつ暗さを増して、遠くのほうでは街に明かりも灯り始めていた。
「しかしね、彼女はただのアイドルじゃあない。役を演じればドラマは瞬く間に皆が知るに至るし、バラエティに出演すれば面白おかしく場を盛り上げるキーパーソンとなる。歌を歌えば人を感動で震わせるし、踊りを踊ればフラミンゴも一緒に踊りだすという始末さ」
フラミンゴが踊ったのはやらせだろう、と彼は思った。しかし沙希の言う通り印南香織の影響力を否むことはできない。
「その印南香織が、ここ一週間の間、登校し続けている」
「ん」
しまった、と思った時にはもう遅かった。彼はポーカーフェイスが得意な方ではない。"どういうことだ?"といいたそうな彼の顔を見て、彼女は微笑む。
彼が好奇心を持ってしまったことを悟ったのだろう。こうなると彼女の赴くままにその足でついていき、結果が得られるまで奴隷のごとく働いて、彼女の欲求を満たすしかないのだ。
「これは由々しき事態だよ、僕たちの学園にとっても、ひいては彼女を待っている世界にとってもね」
芝居がかった様子で、彼女は廊下でくるりと回る。
何を大げさな、と思うが、よくよく考えると一理あるのだろう。そもそも印南香織は出席日数が常に足りていないほど学園にこれないのだ。
アイドルという特質も有り、彼女には特別に単位が与えられて進学できている。アイドルなどという仕事をしていれば学校に来れないのは当然であるし、様々な意見があれど彼は“正当なことだ”と思っていた。
しかし、その彼女が連日学園に来ているとなると話は別だ。それは彼女の仕事が否応無しに滞っていることを意味し、レギュラー番組を多数持つ印南香織が何かしらの理由でサボタージュしていることに他ならない。
「――さて、印南香織の目撃情報はここにしかないわけだけれど」
2人は屋上につながる厚い扉の前に立つ。その扉に背を向けて右手の親指で扉を指すと、"どうする?"と言いたげにして不敵に微笑んだ。
その目撃情報がどのようにして集められたのかは言うまでも無い。彼が部屋でのんびりとコーヒーを飲んでいる間に、風中沙希はその足で学園を走り回り情報をかき集めていたのだ。そういう意味では沙希のほうが仕事熱心にも見える。もちろん、ネグレクトを受けているたまりにたまった仕事の気持ちを考えると、彼の無気力は無理もないのだろう。
「俺も、印南香織と話はしたいかな」
彼としてはこの件に関する動機なんて、その程度のものだった。俗世の芸能人なんていうものに対する興味は人並にすら持っておらず、会えればラッキーくらいのものなのである。
それを聞いて沙希は"よしよし"と頷くと、躊躇無く屋上への扉を開けた。風が階段の下へと吹き抜けると、暗くなった屋上が眼前に広がる。
「む」
少しして、沙希は目を閉じて眉をくいと上に上げた。
「どうし――」
"――たの?"と声をかけようとすると、彼女は手のひらをこちらに向けて"待て"とサインを送ってくる。それに頷き返して彼女のしているように目を閉じる。
耳を澄ますと、やがてどこからか音が聞こえてきた。鼻歌のようなその音色は風に乗り、わずかにこちらへと届いている。悲しげなその音色はどこかで聞いたことがあったが、どこで聞いたかまでは定かではない。
しばらくして、彼女が目を開けてゆっくりと歩き始める。それについていくように彼は、足音を消して歩いた。
すると目の前の、屋上の入り口から向かいにあるフェンスに、街の明かりが映し出した人の輪郭がうっすらと見える。鼻歌はその人影が奏でているらしい。
「君、印南香織さんかな?」
彼女が静かに声をかけると、ぴたりと鼻歌は止んで人影はゆっくりとこちらに振り返った。くい、と猫のように首を傾げると呟く。
「んふ」
"印南香織だ。"と心の中で呟く。金色のショートカット、右耳だけについている小さな銀色のピアス、そして振り返るときのふわりとした動作とそのつぶやきは、テレビでよく見る印南香織その人であった。
「何か、御用なのだ?」
その声はどこか沈んでいるように聞こえた。手を後ろで組み地面を蹴るようにすると、猫背になったまま顔だけこちらに向けてまた笑う。
「いやね、君の姿を最近見ることが多いと、生徒から不安の声が上がっているんだよ。"何かあったんじゃあないか"ってね」
「……にゃるほど」
どうやらこの独特の話し方はアイドルのために作られたキャラではなく、素らしい。悲しそうに首を横に振り、印南香織は少し考えるように俯いた。彼は彼女と顔を合わせた後、返事を待つように印南香織を見つめる。
「ちょこっと、休憩してるだけだよ。人間には休憩が必要で、休憩は私を必要とするのだ」
手を大きく広げながら言う言葉は、まるで謎かけのようであった。それは理解できるような、できないようなことで、印南香織は上を見上げて目を閉じ佇む。その様はどこか映画のワンシーンのようで、それだけで何か、流れ星を見たときのような一瞬の多幸感に包まれた。
「――本当に休憩できているのかい?」
しかし、女優はその言葉に体を一度、震わせた。そして深呼吸を一度行いゆっくりと彼女を見据えると、至って真面目な顔をして口を開く。
「それ、どういう意味なのだ」
金髪でピアスの印南香織が凄むと、かなりの迫力があった。それはずば抜けた演技力の賜物でもあっただろうが、もちろん今はドラマの撮影では無い。
「こんなところで毎日君は、立って鼻歌を歌っているだけなのはもう知っているよ。日向ぼっこをして、空を見上げて、星を見る。けど、ただ合間にする休憩にしては、期間が長すぎるんじゃないのかな」
彼女は物怖じをするどころか更に語調を強くして言葉を続ける。印南香織の機嫌はその間にも悪くなったようにも見えたし、彼は、彼女を止めるべきなのかどうか一瞬だけ悩まされた。
しかし印南香織は1週間以上こうやって、"サボって"いる。それは彼らのような全く関係のない人間が関与することではないのかもしれないが、彼女のように物申したくなるのも事実であるのだ。
「おや、その顔を見ると、自分でもわかっているんじゃあないのかい? 何か嫌なことがあったとき、何もかも忘れて自然と共になりたいと思うのは休憩ではなく、ただの――」
「やめて!」
その印南香織の答えを聞いたとき、彼は思った。"ああ、この子、もう逃げられないな"と。先ほどの彼と同じだ、沙希という女はある種魔女のようなもので、手玉に取られてしまうとそれまでなのである。
「あなたに、何がわかるのだ? 休みたいときは何も考えたくない。自分の状況なんて何もかも忘れて休憩することが、そんなに悪いこと?」
肩に力を入れて睨みつけるようにこちらを見る印南香織は、テレビで見るような余裕を持った女性ではなかった。まるで別人のように憤っているところをみて、やはり芸能人も大変なんだと、彼は人事のように感じる。
「考えたくないほど、今の仕事はやりたくないのかい?」
「ッ……!」
気分が高揚した人間ほど"彼女"は絶妙に扱うことができる。心が昂ってしまった印南香織は、もはや彼女の絶好の獲物であった。舌なめずりでもしてはいないかと不安になり沙希の顔をちらりと確認するが、見えたのは彼女の整った、そして至って真面目な顔であった。
「なんなのだ! そんなに私が落ち込んでいるのを見て、責め立てるのが好き? 天下に名を轟かす私を貶して、そんなに楽しいのだ!?」
印南香織は既に泣きそうであった。歯を必死に食いしばって我慢している様子はあまり、見ていて心地のいいものではない。
「いいや――」
やりすぎにも見えるが、これでいいのだ。これが彼女、風中沙希という人間のやり方なのだから。
「君が好きだから、君が自分に嘘をついているのが見逃せないんだよ」
そう言って、沙希は印南香織に近づくと、にっこりと笑いかけた。
その後、印南香織はきっかり10分の間、沙希の胸の中で泣き続けた。人の心情とはダムのようなもので、蛇口が壊れて一度決壊すると溜めた分だけ全て放出される。テレビでいつも見ていたアイドルが目の前で泣きじゃくっているのを見ると、"ああ、同じ人間だったんだな"と感じる。
「――ごめん、ありがと、もう、大丈夫」
泣き止んだ彼女は、沙希からゆっくりと離れてぽつりとそう呟いた。目を赤く腫らせていたが、その鋭い顔つきは変わることなく彼らを交互に見る。
「話しても、いいのだ? 聞いてくれるだけでいい」
先ほどとの態度は打って変わり、印南香織の様子はどこか柔和なものになっていた。それはもちろん沙希のお陰だろうし、自身が何もしていないのは彼もよくわかっていた。
「だめ」
彼が一言呟く。その言葉に印南香織よりも早く沙希が反応したが、沙希は彼の様子を見ると苦笑いを浮かべて首を横に振った。
「このハンカチあげるからさ。顔拭いてからのほうがいいよ」
真顔で彼がハンカチを差し出すと、きょとんとした印南香織は吹き出すと苦笑いを浮かべて手を伸ばした。
「ふふ、ありがとなのだ」
殊勝にハンカチを受け取ると印南香織は目元周りを優しく拭いた後、ポケットの中に大事そうにしまった。
「あのね、この前の日曜日にライブがあったのだ。いつもと何ら変わらないライブで、私も楽しみにしてたし何も変わることが無かった」
アイドルというものは全国的に活動することが多い。この国は西に1つ、東に1つ大きなライブ会場を持つが、印南香織はその他に大きなトラック1つで地方に乗り込みゲリラライブを敢行することがある。その場所は始まるまでわからないし、山の奥の小さな村で行ったこともある。
「私はいつだって、どんなライブだって本気でやるって決めてるのだ。だからその日も全力でやって、全力で終わる予定だった」
「予定だった?」
沙希がオウム返しをする。印南香織は下を向いて搾り出すように呟く。
「……暴動が起こったのだ。ライブ中に」
そういえば、と彼は思い返す。いつものようにソーシャルネットワークサービスを眺めているときのことだ。まるで路地裏の落書きのように流れてくる情報ともいえない情報の中に、"ライブで殴られた!"という書き込みをみたような気がする。サイリウムを振る際にたまたま当たったといった事故の類かと思ったのだが、そうではないのかもしれない。
「その日は2ヶ月に1度の新曲発表の日だったのだ。その日もうまく盛り上がって最後に新曲発表して、いつものライブと同じように終わると思ってたのに」
印南香織は俯きがちに続ける。下唇を噛み我慢するように続ける彼女は痛々しく、彼はじっとみつめるだけであった。
「気づいたら小さいところから暴動が始まってて、気がついたときには隣の人に殴られた人が殴り返して、とめようとした人がまた殴られて……」
暴動が波及していく様子は想像に難くない。ライブで盛り上がった人間は気分が昂揚していささか乱暴になってしまったのだろう。
「その辺り一帯だけ、乱闘になってたのだ。声をかけても一切聞き入れてくれなくて、会場は騒然としたままライブが止まって……」
そこからはもはや警備隊や、警察の仕事だ。印南香織の声を聞き入れなかったという事態は信じがたいが、人間というものは気分が昂ぶると歯止めが利かなくなってしまうものなのだろう。
「みんな、私のこと認めてくれると思ってた。小さいライブハウスからのスタートだったけど、ファンが増えて、後ろ盾が増えて、私の地位は磐石なんだって、完璧なんだって思ってたのに……乱闘1つ止めれずにライブも続行不可能に陥った私は、もう自信なくなっちゃった」
今まで想像もつかないような努力を重ねてきたのだろう。それと共に自信をつけ、回数をこなし、文字通り磐石になった印南香織の環境はテレビを見ていたらよくわかる。楽しそうに仕事をする彼女は何の迷いも無く幸せにすごしていたはずなのだ。
「調子に乗ってたからかな、天罰が下ったみたいなのだ。仕事を楽しいからってだけで続けて、過去にがんばってた自分のこと忘れちゃってたから」
悲しそうにそう呟く印南香織を、沙希は眉をひそめて見ていた。
「そんなに、仕事というのは自分を縛らなきゃいけなものかい?」
「だって、私ががんばれば止められたかもしれないのに!」
それは違うだろう、と彼は思った。彼女に力があれば今回の暴動が止まったかと言えば、間違いなくそうではない。むしろファンをそこまで昂揚させてしまうのは印南香織の力があるからだろう。
沙希はこちらを向いて小さく頷いた。いつだって、沙希には考えがある。話している時だって、昼寝をしている時だって、ご飯を食べている時だって次のことを予測しながら行動を行っているのだろう。そのルーチンに、彼は不要なら入るべきでないし、逆もまた然りだ。
「――俺は、使命感に囚われて仕事をしている印南よりも、楽しそうにしたいことをしている印南の方が好きだよ」
顔を上げると印南香織はこちらを見て息を止めた。上下する両肩を見て、思ったよりも小さいなと感じる。
「ファンもそうなんじゃない? 乱闘だって、別に印南が嫌いだからじゃない。むしろ好きだからこそ起きたといっても良いと思う」
印南香織に熱狂したあまり起きた暴動なのだ。アイドルに反乱分子はつき物だが、そんな連中もライブにもぐりこんで乱闘をしようなんて考えないし、メリットがないだろう。
ファンは印南香織が好きなのだ。だからライブに来るし、いつだって応援している。それは印南香織がテレビでキャラを作っているから好きなんじゃない。本気で、一生懸命にまっすぐがんばっている姿をみてファンになる。それだけの魅力が印南香織にはあるし、それだけ今の印南香織の姿は魅力的なのだ。
「別に、責が印南にあるわけじゃない、だから――」
彼がそう言っている最中に、印南香織は彼に向かって飛びつく。腕を広げて飛び込まれた彼は、その体を受け止めて尻餅をついた。
「うわっ」
そして胸に顔をうずめて数十秒止まる。沙希はその様子を納得したように見ており、彼もまんざらでもなさそうに頬をかいた。彼の鼻を女の子独特の柔らかい匂いが包み、思わず肩を持ってしまうが印南香織が気にしている様子は無い。
「……そう言ってくれる人、探してたのかも」
くい、と胸の中で顔だけを上げて印南香織はそういった。やはり、思ったよりも体が小さい。金髪やピアス、そしてその態度が彼女を大きく見せていたが、つまるところ同い年の女の子なのだ。
「君は悪くないよって、誰かにそう諭されることがこんなに安心することだったなんて」
後ろに回った手の暖かさを実感しながら、彼は目を逸らしらもな肩をぽんぽんと叩く。おそらくすでに彼女の周りは利権の塊なのだろう、優しい言葉をかけてくれる人間などほとんどおらず、印南香織が仕事をするかしないかだけ。
「あんまり、こういうことはしないほうがいいんじゃない? アイドルだし」
「したいことをした私のほうが好きっていったの、誰なのだ?」
意地悪にそう笑うと印南香織はゆっくりと彼から離れた。にっこりと笑う彼女はまだ目の下が腫れていたが、その涙が流れることは当分無いに違いない。
彼は内心ほっと撫で下ろしたい気分だった。もし沙希に求められていない意見を言っていたら、こんなにうまくはいっていないのだろう。
「そうと決まれば、すぐ仕事なのだよ」
できる女は切り替えが早い。走り出そうとして、2人に気づくとすぐに振り返った。
「2人ともありがとなのだ! あと、さっきは当たり散らしてごめんなさい」
深く腰から折れて謝る姿を見て、沙希はゆっくりと頷く。
「なに、これも生徒会長の仕事さ」
腕を組んでそういい佇む沙希は一仕事終わらせた顔をしていた。基本的には、彼女はこういう問題にしか首を突っ込みたがらないし、解決しなかったこともない。
「当たられるのも、"友達"の付き合いの1つだと思う」
ぽつりとそう言った彼の言葉に、印南香織は目を見開いて肩を上げて嬉しそうにする。
「また何かあったら、雪橋駅の地下にあるカフェに、放課後きてくれたまえ。いつでも話は聞くよ」
「……うん! ありがとう!」
最後にそう返して、彼女は嵐のように去っていく。階段を降りる音が段々と遠くなり、やがて屋上には真っ暗な静寂が広がった。
「――まったく、アイドルと抱き合うとはね」
呆れたようにそう苦笑いする沙希を見て彼は首を傾げる。
「まぁ、カメラは無いからいいんじゃない? それとも……」
彼はゆっくりと、後ろから沙希の頭に手を伸ばす。その行動に他意はなく、なんとなく、そうすることが望ましい気がしたのだ。
「っ……」
そして、ゆっくりと頭を撫でた。統計上ではあるが、やはり女の子というものは思ったよりも小さいものである。
「沙希も撫でられたい人?」
沙希は静かに振り向き彼と対峙する。頭におかれた手を振りほどこうとはせず、腕を組んだまま少し目線を上げながらぶっすりとした顔をして口を開く。
「僕はそこまで、追い詰められていないさ。――もちろん、悪くない気分だけれどね」
そういい終わり、首を傾けて優しく微笑んだ。
彼が少しの間だけ黙ってその頭を撫で続けたあと、2人は生徒会室に戻った。
そして山積みになった書類を見て2人は、同じように大きく溜息を吐いたのである。